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2020.09.29.08.49

いもがゆ

前回のつづき、ではないがこれも、高校時代の副読本『新修国語総覧 ( New Edition Of The Compendium For Japanese Language)』 [編集代表:江島務 (Tsutomu Eshima) 谷山茂 (Shigeru Taniyama) 猪野謙二 (Kenji Ino) 1977年 京都書房 (KyotoShobo) 初版刊行] に紹介されていた。
芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) を紹介する見開き2頁に、彼の経歴とその代表作のひとつとして、小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1916年 雑誌『新小説』 掲載] があるのだ。

とは謂っても、前回とは、物事の推移が違う。
と、謂うのはその副読本を入手するそれ以前に、その小説をぼくは体験していたのである。

小学校 (Primary School) の高学年、国語 (Japanese Language) の授業で小説『蜘蛛の糸 (The Spider's Thread)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1918年 雑誌『赤い鳥』掲載] を学んだ時である。
その単元の学習がそろそろ終わる頃に、担任が次の様な発言をする。

「芥川龍之介の小説には、この『蜘蛛の糸』同様に、いまのきみ達が読んでも理解出来る作品がいくつかある。例えば『杜子春』とか『鼻』だ。図書室にそんな作品がある筈だから、いまからみんなで借りにいこう」

どこかできいた様な発言ではある [無論、人物は違うし、時系列から謂えば、こちらが先だ]。

そう謂って、彼はぼく達を引率するのである。授業中に教室から離れる事、それだけでぼく達を高揚させるモノがある。そして、ある作家の作品を図書室 (School Library) で捜索すると謂う事は考え方次第によっては、ちょっとした宝探しゲーム (Treasure Hunting) の様にも思える。授業の一環であるのにも関わらず、ぼく達がおおはしゃぎでそこへ出向くのも当然なのだ。

そして、そこで各自勝手気儘に捜索に耽る。
厚くて古ぼけた単行本はすぐに数種類、数冊みつかり、そのなかの1冊をぼくは借りる事にする。普段読み慣れている推理小説 (Detective Story) やSF作品 (Sicence Fiction) の単行本とそれ程の差異が見当たらないからだ。これなら今日1日で読み潰せるだろう、と思う。
しかし、そんなぼくの様な選択をするのはごく少数である。
小学生 (Primary School Student) と謂うモノは、読書が嫌いな生物なのである。
何故ならば、小説『杜子春 ( Toshishun : Tu Tze-chun)』[芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1920年 雑誌『赤い鳥掲載] のみを編んだ極めて薄い冊子が数十冊、並んでいるからである。そして、それらが居並ぶ書架に、皆が殺到する。
いまになって考えれば、この時のために教師達が発注し収蔵させているモノだったのだろう。教師にとってお誂え向きの蔵書が必要冊数あるのではなくて、あらかじめ教師自らが誂えたのだ。
つまり、彼の教室での発言と図書室 (School Library) への引率は、おそらく総て小説『杜子春 ( Toshishun : Tu Tze-chun)』を読ませる為のモノなのだろう。

ぼくの選んだ単行本には小説『杜子春 ( Toshishun : Tu Tze-chun)』は掲載されていない。しかし、その粗筋だけは既に知っている。
マンガ『タイガーマスク (Tiger Mask)』 [原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 作画:辻なおき (Naoki Tsuji) 19681971年 雑誌『ぼくら』連載] の中の1挿話として、その物語が語られてある上に、その作品の主題とすべき主張もそのマンガのなかで語られてあった。
だからぼくは、その作品を読む事を無意識のうちで回避しようとしたのだろう。そんな説教くさい話はその頃から嫌いだったのだ。

さて、帰宅して、その単行本を読み始める。
小説『羅生門 (Rashomon)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1915年 雑誌『帝国文学』掲載] もあれば、教師が言及した小説『 (The Nose)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1916年 雑誌『新思潮』掲載] もある。だけれども小説『河童 (Kappa)』 [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa)1927年 雑誌『改造』 掲載] はない [芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) と謂う小説家の名前を初めて知ったのは彼が描いた素描『水虎晩帰之図 [河童図] (Kappa Painting)』なのだから、本当はそれを読みたくて堪らないのである]。
その代わりと謂っていいのか解らないけれども、拙稿の主題たるべき小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』は掲載されてある。

芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』と謂う字面をみて、ぼくはある逸話を思い出す。それは、当時学んでいた歴史 (Japanese History) の副読本、そのなかのエッセイの様なかたちで掲載されてあるモノだ。平安時代の文学 (Heian Literature) の紹介だったのか、それともその当時の庶民の笑いへの言及なのか、ある下級官吏の失敗談が綴られてあったのだ [もしかするとその逸話が掲載されてあったのは全然別の書物、例えば、学級日誌 (Class Diary) の欄外コラムの様な場所だったのかもしれない、その逸話に例えば小説『杜子春 ( Toshishun : Tu Tze-chun)』同様の、素朴な教訓をみいだすのは至って簡単な事なのだから]。

その失敗談は、いまとなっては説話集『宇治拾遺物語 (Uji Shui Monogatari)』 [12121221年頃成立] の1説話『利仁、芋粥の事 (By Toshihito about Yam Gruel)』 [巻第一. 一八 (Volume 1, Episode 18)] である事は、ぼくには知れている。そして、その説話集の1篇が、小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』の原典の、ふたつのうちのひとつである事も知れている。
だが、小学生 (Primary School Student) だったぼくには、そんな事なぞ想いもよらない。
ただ、どこかでみた事ある様な題名だなぁと思いつつ読んでいったら、そんなみたことある様な題名がつけられた物語がそっくりそのまま、しかもより克明に現実的な描写を伴って再現されていくのである。
だから、ぼくはうんざりする。
ただでさえ、その小説の前に並んだ作品群を読んで、これまでのぼくが味わった事のない世界や意識やらに圧倒されているのである。芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) に酔っぱらっているといっても良い。その結果、その物語の主人公である五位 (Goi) の様に、碌々味わいさえ出来ないうちから、その小説を満たしている、芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) の世界観で満腹になってしまうのである。

猶、その小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 とは、今更ながらに紹介すれば、次の様な物語である。

images
マンガ『ドラえもん (Doraemon)』 [作:藤子・F・不二雄 (Fujiko・F・Fujio) 19691996小学館学習雑誌等連載] より逸話『かがみでコマーシャル [旧題:遠写かがみ] (Advertising In Mirrors)』 [1977年 雑誌『小学六年生』掲載] の1コマ [上掲画像はこちらから またその粗筋はこちらで紹介されている。]

では、勿論ない(笑)。

「摂政藤原基経に仕える貧相な五位は、朋輩はもちろん子供からも馬鹿にされる男である。かれはただ芋粥に満腹したいという念願に生きていた。民部卿の子藤原利仁は、自分の妻の住む敦賀へ五位を連れて行き、あきれるほど大量の芋粥を馳走する。五位はろくに食べることもできず、ここへ来ないまえのかれ自身をなつかしく、心のなかにふり返るのであった。」(『新修国語総覧 ( New Edition Of The Compendium For Japanese Language)』より抜粋)

次回は「」。

附記 1.:
説話集『宇治拾遺物語 (Uji Shui Monogatari)』の1説話『利仁、芋粥の事 (By Toshihito about Yam Gruel)』が、小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 の、ふたつある原典のうちのひとつだと謂うのであるのならば、もうひとつの原典とされているのが、小説『外套 (Shinel)』 [ニコライ・ゴーゴリ (Nikolai Vasilievich Gogol) 作 1842年発表] である。
その小説の主人公アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の地位やら風采やら行動原理やらが、小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 の主人公、五位 (Goi) にそっくりなのである。
だが、それだけではない。アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) にとっての外套 (Shinel) と謂うモノが、五位 (Goi) にとっての芋粥 (Yam Gruel) であるのだ。そこまではふたつの作品に共通する。しかし主人公の願望の、その象徴を、外套 (Shinel) から芋粥 (Yam Gruel) へと転ぜられた結果、物語の様相が微妙にずれて行くのである。
アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の外套 (Shinel) とは、生活必需品 (Daily Necessities) であるだけでなくそれを着用した人物の品位や身分までも位置付けられる衣服である。その一方で五位 (Goi) の芋粥 (Yam Gruel) とは、ひとたび食してしまえばこの世から消える、所謂、消えモノ (Consumable Goods) の類いだ。その結果、外套 (Shinel) に於いてはその質の良否が問われている一方で、芋粥 (Yam Gruel) に於いては量の多寡が問われている [五位 (Goi) の願望を実現させようと謀る藤原利仁 (Fujiwara No Toshihito) は、その食材の質までも拘泥した様だが、五位 (Goi) 自身の願望はあくまでも「芋粥に満腹したいという念願」にある]。
と、同時に、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) が外套 (Shinel) を入手した時点からこそがその物語が開幕するのに対し、五位 (Goi) が芋粥 (Yam Gruel) を食した時点で物語は終幕を迎える。それも外套 (Shinel) と芋粥 (Yam Gruel) の差異、あればこそなのである。
そんな転換のせいなのか、一方の物語が一見悲劇めいた様相をみせながらも実は喜劇であるのに対し、もう一方の物語はその真逆、一見喜劇めいた様相をみせなばらも実は悲劇なのである。
と、綴りながらぼくは、ぢゃあ、一体、どちらの小説がどちらなのか、と問われても、実は明言出来ない。
ただなんとなく、小説『外套 (Shinel)』から小説『芋粥 (Imogayu : Yam Gruel)』 と謂う成分を抽出したその残滓から小説『河童 (Kappa)』等、作者後期の作品が編み出されている様にも想える一方で、アカーキイ・アカーキエウィッチ (Akaky Akakievich Bashmachkin) の末路が芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) の自死をも想わせたりもするのである。

附記 2.:
つぎの国語の授業、教師は数名を指名して、読んだ芥川龍之介 (Ryunosuke Akutagawa) 作品とその感想を発表させる。案の定、クラスの殆どが小説『杜子春 ( Toshishun : Tu Tze-chun)』の名を挙げて、その感想を述べるなか、指名されたぼくは小説『羅生門 (Rashomon)』の名を告げる。単純に、読んだ単行本の筆頭に掲載されているからだ。その書名を聴いて、教師は、おおそうか、と謂うだけでその後に続くべき感想をぼくに求める事はない。どうやら、彼のあてが外れたようなのである。
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