2020.09.22.08.40
「刺青師清吉は、美しい女の肌に自分の魂を刺り込むことを念頭としていた。ある時、駕籠の簾からこぼれ出た女の足に魅かれ、その美女を言葉巧みに誘って、ついに彼女の背にみごとな女郎蜘蛛を彫ることができた。刺青が完成した時、針の苦痛にたえつづけた美女の背で、蜘蛛は生きもののように妖艶な輝きをみせるのであった。」
と、上に引用したのは小説『刺青 (The Tattooer)』 [谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) 作 1910年 第二次『新思潮掲載] の粗筋である。
高校時代の副読本『新修国語総覧 ( New Edition Of The Compendium For Japanese Language)』 [編集代表:江島務 (Tsutomu Eshima) 谷山茂 (Shigeru Taniyama) 猪野謙二 (Kenji Ino) 1977年 京都書房 (KyotoShobo) 初版刊行] に掲載されてあるモノだ。その書籍では、文豪と称される小説家が数名、見開き2頁で紹介されており、それぞれの生涯を追った年表と、代表作が紹介されているのだ。そして、その文豪のひとりとして谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) も掲載されてあり、彼の代表作のひとつとして、その小説が紹介されているのである。
何故、そんな高校時代の書籍が未だにぼくの手許にあるのかは、ここでは綴らない。綴るべきなのは、そこで紹介されてある書物の幾つかに、ぼくの関心が払われた事であって、いつかきっとどこかでそれらの作品は読むであろう、さもなければ、読まなければならないのだろう、と思っていた事である。
しかし、実際には、そこに掲載されてある粗筋を読む事によって、それらの小説の殆どを読む事はなく [課題として読まなければならないモノはあった]、単に、読んだつもりになっていただけなのである。
小説『刺青 (The Tattooer)』は、そんな物語のひとつである。
だから、その小説の映画化作品である、映画『刺青
(Irezumi)』 [増村保造 (Yasuzo Masumura) 監督作品 1966年制作] の存在を知り、そして、その作品のポスターやスチル写真を観るにつけ、これは違うよなぁと、違和感を表白していたものだ。
その映画のヒロイン、お艶 (Otsuya) [演:若尾文子 (Ayako Wakao)] の背中、彼女の柔肌に描かれてある女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) がおかしい、映画さえも観ていないぼくはこう思うのだ。
何故ならば、その女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) は、お艶 (Otsuya) を陵辱し、そして、陵辱する事によって、お艶 (Otsuya) と一体となるべきなのに違いない。それならば、彼女の背中に刻まれる刺青 (Japanese Tattoo) は、もっと違った姿態でもって描かれるべきなのだ。もしも、その映画のなかで、お艶 (Otsuya) がおとことの情交する映像が登場するとしたら、そのおとこはお艶 (Otsuya) を抱く事によって、女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) も抱く事になる。ならば、そんな情景を彷彿とさせる様な姿態を刺青 (Japanese Tattoo) である女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) にさせねばならないのだ。少なくとも、女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) の顔を正面から観る刺青 (Japanese Tattoo) であってはならない筈だ、と。
未見の映像作品を好き勝手に断罪してしまっている訳だが、逆に謂えば、そんな妄想を可能にさせる程に、未だ読まざる小説『刺青 (The Tattooer)』は、読んでいないが故に、ぼくの中で具体的な物語として生成され熟成されてしまっていたのだ。
それだから、先頃、初めてその小説を読んだ際には、違和感を感じた。感じただけではない。残念な気がして、仕方がなかった。
そんな事は必ずしも、その小説に限った事ではない。よくある。
特に、性愛文学 (Erotic Literature) と呼ばれる作品を読む際は繁多で、そんな事態が出来してしまうと、いたたまれない気持ちにもなってしまう。読む前に期待していたモノと読んだ後に知ったモノとの落差が激しいからだ。
それは恐らく、作品執筆時とそれを読むぼくの現在とに、大きな隔たりがあるからなのだろう。性と謂うモノに関する認識と禁忌、かつては許されざるモノが現在ではなんの抵抗もなく受容される。大雑把に謂ってしまえば、そんなところだろう。
解りやすい例をこの小説から捜し出せば、刺青 (Japanese Tattoo) そのものの認識が当時とは大きな隔たりがあるのだ。
だけれども、小説『刺青 (The Tattooer)』へのぼくの違和感はそれとはすこし違う様な気がするのだ。
仮に、小説の主題をフェティシズム (Fetishism) であるとしたら、その作家である谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) とぼくとのその嗜好が違うからなのではないだろうか。そんな気もするのだ。
おんなの柔肌に針を刺す。その行為と [自身にとっての] 意義に関してである。
とは謂うモノの、作品のどこをもって谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) にあるフェティシズム (Fetishism) を説明して良いのかも解らない上に、自分自身のなかにあるであろうフェティシズム (Fetishism) も巧く説明出来ないのである。
ただ思うのは、そんな微妙なフェティシズム (Fetishism) の差異、こころのなかにひそむ綾と呼んでもいい、それがあるからこそ、この小説は幾つもの映像作品を誕生せしめたのではないだろうか。上に揚げた増村保造 (Yasuzo Masumura) 監督による映画『刺青
(Irezumi)』に続いて、いくつもその小説の映像化作品は存在しているのだ。
柔肌におのれの心象にある図象を刻み付ける、そんな単純な行為が、幾人もの映像作家を刺激したのである [と謂う事を断定する為には、それらの映像化作品をひとつひとつ鑑賞して、そこに表出してあるフェティシズム (Fetishism) の違いを、ぼくは検証しなければならないのか。嗚呼]。

橘小夢 (Tachibana Sayume) 画『刺青 (Tattoo) 』[1923年作]
ところで、拙稿を綴るにあたって、小説を再読した。極めて短いから30分とかからない。
そうすると、小説に描かれたフェティシズム (Fetishism)、もしくは作家のフェティシズム (Fetishism) は、おんなの肌に向けられたモノではないのではないか。そう思えてきた。
物語の主人公のひとりである刺青師清吉 (Seikichi, The Tattooer) の向かうそれは、おそらく肌であろう。いや、もしかすると、それに向かうべき針、さもなければ、刺青師 (The Tattooer) としての絵師 (The Painter) としての技術なのかもしれない。
だけれども、物語の結構の狭間を突いて、作家自身のそれが表出されてある様な気がする。
それは「足」にむけられたモノだ。
「足」は2度、物語のなかに登場する。
最初の「足」は、出逢いの「足」だ。つまり、冒頭に掲載した粗筋で語られてある「駕籠の簾からこぼれ出た女の足」である。
その物語の動機を成していると謂っても良い。その「足」を刺青師清吉 (Seikichi, The Tattooer) が見初めたところから、小説『刺青 (The Tattooer)』は始まるのだ。
そして再び、「足」が登場する。
「女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面へ映って居た。」
ここに登場する「足」は、物語を離れたところで、美しく輝いてみえる。
なんだか、この部分だけを書きたいが為に、この小説が存在してある様にも、ぼくには思えるのだ。
次回は「い」。
附記:
小説に登場する女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) は、生物 (Living Thing) としてのそれ、と認識して良いのであろうか。妖怪 (Yokai) としてのそれは、あり得るのだ。尤も、一般的には、妖怪 (Yokai) の方は絡新婦 (Jorogumo) と綴る。それ故に、ぼくは小説に登場する刺青 (Japanese Tattoo) は生物 (Living Thing) であるのだろう、と思う。
おんながその刺青 (Japanese Tattoo) を刺され、刺される事によって刺青師 (The Tattooer) に陵辱される事となり、しかも、その刺青 (Japanese Tattoo) が完成した結果、おんな自身が刺青 (Japanese Tattoo) と同化すると解釈するのであるのならば、生物 (Living Thing) としてのそれの方が相応しいと思う。
しかし、おんなの内面、その本性を肌に刺す事によって曝け出すと謂う解釈がある得るのならば、妖怪 (Yokai) としてのそれが相応しいのだろう。
と、上に引用したのは小説『刺青 (The Tattooer)』 [谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) 作 1910年 第二次『新思潮掲載] の粗筋である。
高校時代の副読本『新修国語総覧 ( New Edition Of The Compendium For Japanese Language)』 [編集代表:江島務 (Tsutomu Eshima) 谷山茂 (Shigeru Taniyama) 猪野謙二 (Kenji Ino) 1977年 京都書房 (KyotoShobo) 初版刊行] に掲載されてあるモノだ。その書籍では、文豪と称される小説家が数名、見開き2頁で紹介されており、それぞれの生涯を追った年表と、代表作が紹介されているのだ。そして、その文豪のひとりとして谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) も掲載されてあり、彼の代表作のひとつとして、その小説が紹介されているのである。
何故、そんな高校時代の書籍が未だにぼくの手許にあるのかは、ここでは綴らない。綴るべきなのは、そこで紹介されてある書物の幾つかに、ぼくの関心が払われた事であって、いつかきっとどこかでそれらの作品は読むであろう、さもなければ、読まなければならないのだろう、と思っていた事である。
しかし、実際には、そこに掲載されてある粗筋を読む事によって、それらの小説の殆どを読む事はなく [課題として読まなければならないモノはあった]、単に、読んだつもりになっていただけなのである。
小説『刺青 (The Tattooer)』は、そんな物語のひとつである。
だから、その小説の映画化作品である、映画『刺青
その映画のヒロイン、お艶 (Otsuya) [演:若尾文子 (Ayako Wakao)] の背中、彼女の柔肌に描かれてある女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) がおかしい、映画さえも観ていないぼくはこう思うのだ。
何故ならば、その女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) は、お艶 (Otsuya) を陵辱し、そして、陵辱する事によって、お艶 (Otsuya) と一体となるべきなのに違いない。それならば、彼女の背中に刻まれる刺青 (Japanese Tattoo) は、もっと違った姿態でもって描かれるべきなのだ。もしも、その映画のなかで、お艶 (Otsuya) がおとことの情交する映像が登場するとしたら、そのおとこはお艶 (Otsuya) を抱く事によって、女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) も抱く事になる。ならば、そんな情景を彷彿とさせる様な姿態を刺青 (Japanese Tattoo) である女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) にさせねばならないのだ。少なくとも、女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) の顔を正面から観る刺青 (Japanese Tattoo) であってはならない筈だ、と。
未見の映像作品を好き勝手に断罪してしまっている訳だが、逆に謂えば、そんな妄想を可能にさせる程に、未だ読まざる小説『刺青 (The Tattooer)』は、読んでいないが故に、ぼくの中で具体的な物語として生成され熟成されてしまっていたのだ。
それだから、先頃、初めてその小説を読んだ際には、違和感を感じた。感じただけではない。残念な気がして、仕方がなかった。
そんな事は必ずしも、その小説に限った事ではない。よくある。
特に、性愛文学 (Erotic Literature) と呼ばれる作品を読む際は繁多で、そんな事態が出来してしまうと、いたたまれない気持ちにもなってしまう。読む前に期待していたモノと読んだ後に知ったモノとの落差が激しいからだ。
それは恐らく、作品執筆時とそれを読むぼくの現在とに、大きな隔たりがあるからなのだろう。性と謂うモノに関する認識と禁忌、かつては許されざるモノが現在ではなんの抵抗もなく受容される。大雑把に謂ってしまえば、そんなところだろう。
解りやすい例をこの小説から捜し出せば、刺青 (Japanese Tattoo) そのものの認識が当時とは大きな隔たりがあるのだ。
だけれども、小説『刺青 (The Tattooer)』へのぼくの違和感はそれとはすこし違う様な気がするのだ。
仮に、小説の主題をフェティシズム (Fetishism) であるとしたら、その作家である谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) とぼくとのその嗜好が違うからなのではないだろうか。そんな気もするのだ。
おんなの柔肌に針を刺す。その行為と [自身にとっての] 意義に関してである。
とは謂うモノの、作品のどこをもって谷崎潤一郎 (Jun'ichiro Tanizaki) にあるフェティシズム (Fetishism) を説明して良いのかも解らない上に、自分自身のなかにあるであろうフェティシズム (Fetishism) も巧く説明出来ないのである。
ただ思うのは、そんな微妙なフェティシズム (Fetishism) の差異、こころのなかにひそむ綾と呼んでもいい、それがあるからこそ、この小説は幾つもの映像作品を誕生せしめたのではないだろうか。上に揚げた増村保造 (Yasuzo Masumura) 監督による映画『刺青
柔肌におのれの心象にある図象を刻み付ける、そんな単純な行為が、幾人もの映像作家を刺激したのである [と謂う事を断定する為には、それらの映像化作品をひとつひとつ鑑賞して、そこに表出してあるフェティシズム (Fetishism) の違いを、ぼくは検証しなければならないのか。嗚呼]。

橘小夢 (Tachibana Sayume) 画『刺青 (Tattoo) 』[1923年作]
ところで、拙稿を綴るにあたって、小説を再読した。極めて短いから30分とかからない。
そうすると、小説に描かれたフェティシズム (Fetishism)、もしくは作家のフェティシズム (Fetishism) は、おんなの肌に向けられたモノではないのではないか。そう思えてきた。
物語の主人公のひとりである刺青師清吉 (Seikichi, The Tattooer) の向かうそれは、おそらく肌であろう。いや、もしかすると、それに向かうべき針、さもなければ、刺青師 (The Tattooer) としての絵師 (The Painter) としての技術なのかもしれない。
だけれども、物語の結構の狭間を突いて、作家自身のそれが表出されてある様な気がする。
それは「足」にむけられたモノだ。
「足」は2度、物語のなかに登場する。
最初の「足」は、出逢いの「足」だ。つまり、冒頭に掲載した粗筋で語られてある「駕籠の簾からこぼれ出た女の足」である。
その物語の動機を成していると謂っても良い。その「足」を刺青師清吉 (Seikichi, The Tattooer) が見初めたところから、小説『刺青 (The Tattooer)』は始まるのだ。
そして再び、「足」が登場する。
「女の背後には鏡台が立てかけてあった。真っ白な足の裏が二つ、その面へ映って居た。」
ここに登場する「足」は、物語を離れたところで、美しく輝いてみえる。
なんだか、この部分だけを書きたいが為に、この小説が存在してある様にも、ぼくには思えるのだ。
次回は「い」。
附記:
小説に登場する女郎蜘蛛 (Trichonephila Clavata) は、生物 (Living Thing) としてのそれ、と認識して良いのであろうか。妖怪 (Yokai) としてのそれは、あり得るのだ。尤も、一般的には、妖怪 (Yokai) の方は絡新婦 (Jorogumo) と綴る。それ故に、ぼくは小説に登場する刺青 (Japanese Tattoo) は生物 (Living Thing) であるのだろう、と思う。
おんながその刺青 (Japanese Tattoo) を刺され、刺される事によって刺青師 (The Tattooer) に陵辱される事となり、しかも、その刺青 (Japanese Tattoo) が完成した結果、おんな自身が刺青 (Japanese Tattoo) と同化すると解釈するのであるのならば、生物 (Living Thing) としてのそれの方が相応しいと思う。
しかし、おんなの内面、その本性を肌に刺す事によって曝け出すと謂う解釈がある得るのならば、妖怪 (Yokai) としてのそれが相応しいのだろう。
- 関連記事
-
- ゆび (2020/10/06)
- いもがゆ (2020/09/29)
- しせい (2020/09/22)
- うし (2020/09/15)
- かめんのきょうふおう (2020/09/08)