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2020.09.01.09.08

こだまでせうか

当時は、それこそ耳に胼胝ができる (Being Sick And Tired Of Hearing) 程、聴かされていた様な気がする。
最初はなんのことだか解らない。そして、音として耳に馴染み始めると、そこで呈示されているモノがようやくかたちを成してきた様な気もする。だが、改めて聴き込んでみると、やっぱり、その正体は不確かなままだ。

金子みすゞ (Misuzu Kaneko) の詩『こだまでせうか (Are You An Echo?)』は、3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) を語る際には決して避けては通れない、とは誰しもが断言出来るモノではないだろうが、だけれども、当時の暮らしのなかの淀みのなかに浮かぶ泡沫のひとつではある様な気がする。

この詩は公益社団法人ACジャパン (AC Japan)広告「こだまでしょうか」 (Advertisement "Are You An Echo?") を飾る語句としてううあ (Ua) によって読まれ、そして、幾つもの広告主による、電波媒体上での広告放送自粛と謂う判断の結果、ぼく達の日常に溢れる様にして聴かされてきたものである。つまり、3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) がなければ、そのまま、誰の眼にも触れずに埋もれてしまったモノなのかもしれない。
少なくとも、ぼくにとっては、その詩『こだまでせうか (Are You An Echo?)』もその作者である金子みすゞ (Misuzu Kaneko) も知らないままで済んだ筈なのである。

と、その詩の出逢いやその詩が聴こえる光景について、3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) を絡めて、それを体験したモノならば誰もが語れるのだろう。
勿論、拙稿でぼくがぼくの、詩『こだまでせうか (Are You An Echo?)』やそれに連なる3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) を語っても良いのだろうが、ぼくの関心はそこにはない。
その詩そのものを、もう少しきちんと読んでみようと思うのだ。

ところで、拙稿には拙ブログの凡例 (Explanatory Notes) [と謂ってもどこぞにそれが明示されている訳でもない] に則り、その詩は『こだまでせうか (Are You An Echo?)』として登場しているが、これ以降の文章を読むにあたっては、その詩の英語訳に関してはひとまず看過してもらいたい。その英語訳の解釈をぼくは受け入れられないのだ。

詩を読む。
そして、冒頭から第4連の「『ごめんね』っていう。 (You say, “Sorry.”)」まで [便宜上これ以降、この部分を前段と綴る] を読むと、ある光景が眼に浮かぶ。そしてそれは幼い時のぼく達自身がかつて行っていた言動の様でもある。
一言をもってすれば、それは鸚鵡返し (Parroting Back) である。自身の眼前にいる発話者の発話を文字通り、自身が鸚鵡 (Cockatoo) であるが如く、まったくそのままに発話者に対して発話する。それは、親であろうと兄弟であろうと同世代の友人達であろうと構わない。ひとはその様にして語句を習得していくのだから。
しかし、ある時に、そんな鸚鵡返し (Parroting Back) が口喧嘩 (Quarrel) へと発展する事になる。自身に向けられた語句を、そのままなぞって相手に返して自身の反論とするのだ。
「ばか (Berk)」「ばか (Berk)」「かば (Hippo)」「かば (Hippo)」「おまえのかあちゃんでべそ (Your Mom Has An Outie)」「おまえのかあちゃんでべそ (Your Mom Has An Outie)」「おなじこというな (Not To Tell Me The Same Thing)」「おなじこというな (Not To Tell Me The Same Thing)」「やーい、まねしんぼう (Copycat You Are)」「やーい、まねしぼう (Copycat You Are)」
そんな具合である。
そしそんな切り返しはいつしか破綻する。上に綴った応酬でも「おまえのかあちゃんでべそ (Your Mom Has An Outie)」ではその可能性がある。「おれのかあちゃんでべそぢゃないぞ (My Mom Has No Outie)」と、自身の母親の尊厳を護ろうと思った刹那がその時である。「かあちゃん (Mom)」に限らず、自身の敬愛する人物の存在価値を矮小化させる語句が発せられた際は、危ういのだ。
そして、その次の危機的状況が「やーい、まねしんぼう (Copycat You Are)」である。自分自身を矮小化させる発言が発せられた際はとかく、この応酬が破綻しやすい時なのである。
例えばこんな語句が登場した場合である。
「アホちゃいまんねん、パーでんねん (I'm Not A Stupid, Just A Silly I Am)」
勿論、そう発話した発話者を指差して、「こいつじぶんのことパーだっていってらぁ (He Said He Was A Silly)」と切替せば、この応酬は破綻し、そこをもってその発話者に糾弾される。
だからと謂ってその発言をそのまま「アホちゃいまんねん、パーでんねん (I'm Not A Stupid, Just A Silly I Am)」と繰り返したところで、今度はそれをもって糾弾される。「こいつじぶんのことパーだっていってらぁ (He Said He Was A Silly)」と。
とにかく、この鸚鵡返し (Parroting Back) は自己言及 (Self-reference) の発言が登場する事によって、急展開の局面へと達する。口喧嘩 (Quarrel) からその次のステージへと、向かうのである。

その次のステージそのものは、実際に応酬されている口喧嘩 (Quarrel) の内容やそれに携わる各人の資質によって左右されるのだが、この詩ではそのステージを「そうして、あとで / さみしくなって、 (And Then, After Awhile, / Becoming Lonely)」と謂う方向へと発展させている。そして、公益社団法人ACジャパン (AC Japan)広告「こだまでしょうか」 (Advertisement "Are You An Echo?") を含めた殆どのこの詩の解釈が、この呈示された方向の結実、すなわちその直後の2行「『ごめんね』っていうと / 『ごめんね』っていう。 / (I say, “Sorry.” / You say, “Sorry.”)」をもって評価し、この詩の最も価値あるモノと看做している様だ。すなわち、3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) 直後に顕れた"絆 (Kizuna)"と謂う語句に象徴される様な解釈である。

詩『こだまでせうか (Are You An Echo?)』の前段に綴られているのは、そんな叙景である。
その叙景は、かつてどこかでみた光景、かつてのだれかの行為、かつてどこかで自身のおこなった記憶である。つまり、珍しくともなんともない、どこにでもある日常をきりとった叙景なのである。
だから、ひとつの作品としては、前段だけで完成されていると看做す事が出来ない訳でない [この1文に信を置けないのならば、試しに前段だけを読んでみると良い]。
では、遺る後段、すなわち遺りの2行は不要なのか、それとも前段を補完するモノなのだろうか、否、蛇足であろうか。
その解釈がこの詩の命運を負っている様に、ぼくには思える。
逆に謂えば、そこから多種多様な解釈が産まれても良いのだ。

取り敢えず、ぼく自身の理解をここに綴ってみる。

前段で明示された光景を一瞬、蔑ろにしてしまうのが、続く1行「こだまでしょうか、 (Are You Just An Echo?)」である。
極端な表現をすれば、日常の描写である前段が、一瞬のうちに、全然異なる非日常的な空間へと移動された様にも思える [それはぼくが産まれ育った地域がこだま (Echo) とは無縁な場所だったからだ]。例えそうではなくとも、前段に対する理解がその1行によって揺るがされる。
ひととひととの会話であると想っていたら、実はそうではないかもしれない。しかも、それらの一連の行為を許容し得る光景が異なったモノにもなっている。その自然現象 (Natural Phenomenon.)、こだま (Echo) が登場しうる場所は限られているのだから。
そして、さらに、最終行である「いいえ、誰でも。 (No, You Are Everyone.)」によって、また違う光景をみせつけられるのだ。もしかしたらそれは否定の否定、すなわち、それは前段とおなじ場所なのかもしれない。否、おそらくそうだろう。しかし、さっきまでみていた日常が、かつてのそれとまったくおなじとは言い難くなっているのだ。
それまでなにも考えずに受け入れるがままであった幾つもの事柄が、まったくあたらしい表情をしてそこに佇んでいる様に思えるのである。
[無理強いをすれば、そこに3.11. (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) 以前とそれ以後、の暗喩 (Metaphor) として理解出来なくもない。]

それ故に、英文訳は受け入れがたいのだ。
何故ならば、その翻訳では詩作者自身と他者の会話によって詩が成立していると理解しているからである。

詩作者がその人物にむかってこう謂う。「なぁんだ、こだまか (Are You Just An Echo?)」
それに対してかえってきた応えがこうなのだ「だれだってそうだろう [おまえだってそうだろう] (No, You Are Everyone.)」
これを妖怪木魅 (Echo, The Nymph) との会話と理解すれば、すこしうすら寒い小泉八雲 (Lafcadio Hearn) の小説集『怪談 (Kwaidan : Stories And Studies Of Strange Things)』 [1904年刊行] にも通ずる世界でもあるのだが、鸚鵡返し (Parroting Back) するのはだれだってそうだ、と解釈したら、それは単純に、通俗批評にしかならない様にも思える。

『あっちもこっちもコピーだらけオリジナリティないない (Originality 99)』 [プラスチックス (Plastics) の楽曲『コピー (Copy)』 アルバム『ウエルカム・プラスチックス / Welcome Plastics』 [1980年発表] 収録より]

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"Echo Wall At The Temple Of Heaven, Beijing" 1983 photo by Marc Riboud

次回は「」。

附記:
ネット上で幾ら調べても、この詩の発表年と初出掲載誌が解らないのですが。
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