2020.07.28.08.47
物心覚える頃には、もうベッド脇の壁に五十音表 (Gojuon) が掲げられてあった。平仮名 (Hiragana) のそれと片仮名 (Katakana) のそれとそれらの文字が語頭を飾る事物が一覧になったモノだ。親が貼り付けたモノなのだろうか。それともぼく自身が請うて貼り出されたモノだろうか。それは解らない。小学校 (Primary School) 入学前に、ベッド脇にある押入れに世界地図 (World Map) を親が貼ってくれたのは憶えているし、洋服箪笥 (Wardrobe) のぼくの為にある抽斗 (Drawer) には、ステッカー (Sticker) やらなんやらが所狭しと貼り付けられてある。だから、五十音表 (Gojuon) の掲示主が誰であるのかは、親とぼく、そのどちらの可能性もあるのだ。猶、この件に関してひとつ付け加えるべき事があるとしたら、その表を憶えろと命令された記憶が一切ない事だ。その表に関するぼくの憶い出は、この字とこの字は似ているなぁとか、この字はなんでこんなかたちをしているのだろう、と謂う様な事ばかりだ。五十音表 (Gojuon) 本来の目的からすこしはずれたところに、幼児たるぼくの関心が向けられていた様なのである。
さて、五十音表 (Gojuon) との出逢いの記憶がそうであるのならば、それに相対する存在 [って謂って良いのかなぁ]、いろは四十八文字 (Iroha) に関してはどうなのか。
ちなみに毎年の正月 (Japanese New Year) に活躍する遊びのひとつである歌留多 (Karuta) は、所謂、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) ではなかった。五十音表 (Gojuon) に準じてそれは編まれていて、本来ならば無地であるべき各々の札の裏面は、絵合せカード (Matching Cards) となっていた。2枚1組で1点のイラストが成立するのである。種々雑多な動物達の上半身もしくは下半身が描かれていてそれを組み合わせて遊ぶのである。だから、その歌留多 (Karuta) は正月 (Japanese New Year) 以外の11ヶ月の季節は主にそちらで使用されていた筈だ。
ところで、いろは四十八文字 (Iroha) である。ぼくにはこんな記憶があるのだ。
ある時代劇 (Jidaigeki) の連続TVドラマである。番組名も放送局も憶えていない。そのひとつの逸話の主たる題材が、寺子屋 (Terakoya) であったのだ。その物語自体は全くのところ憶えていない。記憶にあるのは、いろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う文字をくろぐろと書きつけるシーンがある事と、物語の完結部に於いて、くろぐろと書かれたいろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う文字がいくつも、晴天下に掲げられた事だけなのである。そのふたつのシーンだけをもって、ぼくは、TVアニメ番組『タイガーマスク
(Tiger Mask)』 [原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara)、辻なおき (Naoki Tsuji) 1969〜1971年 日本テレビ系列放映] でのちびっこハウス (Chibikko House) 宜しく、ある寺子屋 (Terakoya) を巡って起こった立ち退き騒動が主題なのかなぁと勝手に思い込んではいるのだが、それを裏付けるモノは一切にない。
それよりもこの拙稿で主張すべきは、いろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う字面を学ぶ事が当時は、大事な学習であると謂う事をその番組を観る事によって、知ったと謂う事なのである。実際は、一緒に画面をみている両親のいずれかに、いろはにほへと (Irohanihhoheto) とは何かと問い糺した結果に得た知識なのであろうとは、想うのではあるが。

西川祐信 (Nishikawa Sukenobu) 画『娘にいろはを教える母 [英題よりの拙訳] (A Mother Teaching Her Daughter To Write The Iroha)』 [『絵本十寸鏡 (Ehon Masu Kagami )』 [1748年刊行] より]
少なくとも、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) を知る、もしくは、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) で遊ぶ、それらよりもその時代劇 (Jidaigeki) を観るのが、前の事なのである。
勿論、いろは四十八文字 (Iroha) が、「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ 酔ひもせず (Even The Blossoming Flowers / Will Eventually Scatter / Who iIn Our World / Is Unchanging?/ The Deep Mountains Of Karma— / We Cross Them Today / And We Shall Not Have Superficial Dreams / Nor Be Deluded.)」と謂う詠み人知らず (Anonymity) の今様 (Imayo) のひとつを捻ったモノである事を知るのはその数年も後の事ではあるし、その四十八文字 (48 Words) の組み合わせを変えて、新たな歌を産み出そうと謂う試み [安野光雅 (Mitsumasa Anno) の随筆だったかなぁ?] を知るのはそこからさらにもっと後の事なのである。
そしてその結果として、いろは四十八文字 (Iroha) の生成は、洒落 (Witticism) や地口 (Play On Words) の成果である様な認識をぼく自身が得てしまい、その結果として、いかにも前近代的な識字法であるかの様な印象をぼくは抱いていたのである。逆に謂えば、五十音表 (Gojuon) が母音 (Vowel) と子音 (Consonant) との組合せを一望出来る点をもって、論理的な構築物であるかの認識を得てもいたのだ。
だから、千夜千冊 (Thousand Nights For Thousand Books) の第544夜 (The 544 Night)、馬渕和夫 (Kazuo Mabuchi) の著書『五十音図の話
(Talk About Gojuon)』 1993年刊行] の紹介頁で、五十音表 (Gojuon) の成立が意外と旧い時代から試みられていた事は、単純に驚きであったのだ。
次回は「と」。
さて、五十音表 (Gojuon) との出逢いの記憶がそうであるのならば、それに相対する存在 [って謂って良いのかなぁ]、いろは四十八文字 (Iroha) に関してはどうなのか。
ちなみに毎年の正月 (Japanese New Year) に活躍する遊びのひとつである歌留多 (Karuta) は、所謂、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) ではなかった。五十音表 (Gojuon) に準じてそれは編まれていて、本来ならば無地であるべき各々の札の裏面は、絵合せカード (Matching Cards) となっていた。2枚1組で1点のイラストが成立するのである。種々雑多な動物達の上半身もしくは下半身が描かれていてそれを組み合わせて遊ぶのである。だから、その歌留多 (Karuta) は正月 (Japanese New Year) 以外の11ヶ月の季節は主にそちらで使用されていた筈だ。
ところで、いろは四十八文字 (Iroha) である。ぼくにはこんな記憶があるのだ。
ある時代劇 (Jidaigeki) の連続TVドラマである。番組名も放送局も憶えていない。そのひとつの逸話の主たる題材が、寺子屋 (Terakoya) であったのだ。その物語自体は全くのところ憶えていない。記憶にあるのは、いろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う文字をくろぐろと書きつけるシーンがある事と、物語の完結部に於いて、くろぐろと書かれたいろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う文字がいくつも、晴天下に掲げられた事だけなのである。そのふたつのシーンだけをもって、ぼくは、TVアニメ番組『タイガーマスク
それよりもこの拙稿で主張すべきは、いろはにほへと (Irohanihhoheto) と謂う字面を学ぶ事が当時は、大事な学習であると謂う事をその番組を観る事によって、知ったと謂う事なのである。実際は、一緒に画面をみている両親のいずれかに、いろはにほへと (Irohanihhoheto) とは何かと問い糺した結果に得た知識なのであろうとは、想うのではあるが。

西川祐信 (Nishikawa Sukenobu) 画『娘にいろはを教える母 [英題よりの拙訳] (A Mother Teaching Her Daughter To Write The Iroha)』 [『絵本十寸鏡 (Ehon Masu Kagami )』 [1748年刊行] より]
少なくとも、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) を知る、もしくは、犬棒歌留多 (Inubo Karuta) で遊ぶ、それらよりもその時代劇 (Jidaigeki) を観るのが、前の事なのである。
勿論、いろは四十八文字 (Iroha) が、「色は匂へど散りぬるを我が世誰ぞ常ならむ有為の奥山今日越えて浅き夢見じ 酔ひもせず (Even The Blossoming Flowers / Will Eventually Scatter / Who iIn Our World / Is Unchanging?/ The Deep Mountains Of Karma— / We Cross Them Today / And We Shall Not Have Superficial Dreams / Nor Be Deluded.)」と謂う詠み人知らず (Anonymity) の今様 (Imayo) のひとつを捻ったモノである事を知るのはその数年も後の事ではあるし、その四十八文字 (48 Words) の組み合わせを変えて、新たな歌を産み出そうと謂う試み [安野光雅 (Mitsumasa Anno) の随筆だったかなぁ?] を知るのはそこからさらにもっと後の事なのである。
そしてその結果として、いろは四十八文字 (Iroha) の生成は、洒落 (Witticism) や地口 (Play On Words) の成果である様な認識をぼく自身が得てしまい、その結果として、いかにも前近代的な識字法であるかの様な印象をぼくは抱いていたのである。逆に謂えば、五十音表 (Gojuon) が母音 (Vowel) と子音 (Consonant) との組合せを一望出来る点をもって、論理的な構築物であるかの認識を得てもいたのだ。
だから、千夜千冊 (Thousand Nights For Thousand Books) の第544夜 (The 544 Night)、馬渕和夫 (Kazuo Mabuchi) の著書『五十音図の話
次回は「と」。
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