fc2ブログ

2020.07.14.11.20

りょうりめもさしみ

これを読んで漸く得心がいったのである。
ああ、そういうことか、と。
と、同時に安心もした。
なんだ、これまでどおりでいいぢゃゃんか、と。

事の起こりは、数十年前のある酒席での事である。
乾杯は既に終えて、一皿また一皿と肴が運び込まれだした頃あいだ。そして、そのひとつに刺身 (Sashimi) の盛り合わせがある [あまり期待しない様に、何故ならここは安いだけが取柄の居酒屋 (Izakaya) チェーン店のひとつだ]。
ぼくの目の前の女性が、山葵 (Wasabi) をほんのひとつまみ、1切れの刺身 (Sashimi) の上に載せて、あらかじめ醤油 (Soy Sauce) の注がれた小皿にひたして口に運ぶ。文章化するとひどく面倒な所作の様だが、その実際はたいしたモノではない。だから、彼女はそのままその1切れをぱくりと喰ってしまう。
一瞬、ぼくは呆気にとられる。

だが、そんな動揺をみせたのは、ぼくばかりの様なのだ。同席のモノ達はどれも、刺身 (Sashimi) の喰い方はこうだと謂わんばかりに、彼女とおなじ所作をしてみせる。

だが、動揺したのはほんの一瞬だ。
だからと謂って、これまでどおり、自身の所作を貫く事はない。皆の喰し方を倣って、それに追随するだけだ。我ながらに、小心者 (Timid Person) だなぁ、と思う。

ひとつには、仮に彼女の喰し方が間違ってたり、他者から非難や顰蹙を買ってしまうとしても、喪うモノはひとつもない。山葵 (Wasabi) の1援い2掬いを醤油 (Soy Sauce) 小皿に落とせば良いだけなのだから。
だけれども、ぼくの喰し方が間違っていたり、他者から非難や顰蹙を買ってしまうとしたら、山葵 (Wasabi) 入りの醤油 (Soy Sauce) 小皿と謂うモノが、あたかも非難や顰蹙の証拠物件としてそこに存在する事になる。勿論、店員に新たな皿を所望すれば、あらかたの問題はそれで解決する。が、いずれにしろ、残骸の様なかたちでそれは遺る。そして無惨にもその席では、おそらくそれがぼく専用の小皿となる。そんな処遇の物件と共に、酒を呑めば、当然、ぼくは荒れるだろう。さもなければ、泥酔してしまう。
そんな事までも考えてしまうからこその、小心者 (Timip Person) なのである。

つまり、その夜以降の宴席では、その食餌のひとつとして刺身 (Sashimi) が供せられた場合は先ず、同席者の所作を確認してから、箸をつける様になったのだ。彼等の作法に準じた行動を強いて行うのである。

が、それはともかく。

一体、いつから、刺身 (Sashimi) をそんな風にして喰う様になったのだろう。
産まれてからこの方、刺身 (Sashimi) は、醤油 (Soy Sauce) 皿に山葵 (Wasabi) を溶いて、それにひたして喰ってきた。父も母もそうだ。中には、幼い従姉妹の様に、山葵 (Wasabi) はつけないと謂うモノもあるが、それは数少ない例外だ。その彼女だって第一に、酒の味をとうに知ってしまった今では、山葵 (Wasabi) 抜きの刺身 (Sashimi) を厳守しているのかどうかも妖しいところだ。

もしかしたら、地域による差異なのだろうか。
だとしても、学生時代はこれまで通りでなんの問題もなかった。誰も彼も、刺身 (Sashimi) の喰い方はぼくと同様だ。
だが、当時の友人達は殆ど誰も、地方出身者である。ぼくと同様に、大学生 (University Student) と謂う身分を得て初めて、上京して暮らしだしたのだ。
では、東京 (Tokyo) だけ、喰い方が違うのだろうか。

でも、ぼくにも、東京 (Tokyo) 産まれの同居人と暮らす日々と謂う時代はあって、これまで通りの喰し方でなんの問題もなかったのだ。それとも、陰でこそこそ、同居人は笑いモノにしていたのだろうか、ぼくの事を。
あのひと、刺身 (Sashimi) の喰い方ひとつ、知らないのよ、と。

それとも、産まれ育った環境の違いなのだろうか。
下々のモノ達のそれとは違う、ぼくの様な下賤のモノ達が知り得ない、所作があるのだろうか。
さもなければ、小笠原流礼法 (Ogasawara-ryu Reihou) の様な、特殊な作法でもあるのだろうか。

ところで、その数十年前の酒席の出席者の殆どは、ぼくよりも若いのである。当時、新しい事業が興り、同席していたモノは皆、その為に配属されたモノ達である。単純に謂えば、ぼくが最年長者である。
なにを謂いたいのかと謂うと、世代ないしは年代によって、刺身 (Sashimi) と山葵 (Wasabi) を巡る作法に断絶があるのではないか、そんな疑義をぼくが抱いたと謂う事である。

でも、だからと謂って、その疑義を解消しようとはしなかった。否、なす術がなかった、と謂うべきか。

ところがある日、それが一挙に氷解し始める。
青空文庫 (Aozora Bunko) で北大路魯山人 (Rosanjin) の著作物を読んでいた時の事である。そのひとつに随筆『料理メモ (Cooking Memo)』 [1933年 雑誌『星岡』掲載] がある。
そこに幾つも並べ立てられた食材のひとつに、「刺身 (Sashimi)」がある。そこで「わさびを生かして食う方法 (How To Make Use Of Wasabi)」が紹介されてあるのだ。

それを読むと、山葵 (Wasabi) をきかして刺身 (Sashimi) を喰べるには、刺身 (Sashimi) の上に山葵 (Wasabi) を載せるのが良いのである。だが、その一方で、醤油 (Soy Sauce) の中に山葵 (Wasabi) を入れてしまうと、辛味を喪う代わりに、醤油 (Soy Sauce) の味がよくなるのだ。
結局、お好み次第なのである。

images
三代歌川豊国 (Utagawa Toyokuni III) 画 『江戸名所百人美女 (One Hundred Beautiful Women at Famous Places in Edo)』 [18571858年作]より『呉服ばし (Gofuku-bashi)』 [1857年作]

次回は「」。

附記 1. :
マンガ『美味しんぼ (Oishinbo)』 [原作:雁屋哲 (Tetsu Kariya) 作画:花咲アキラ (Akira Hanasaki) 1983年連載開始 ビッグコミックスピリッツ連載] の『辛味の調和 (Harmony By Sharp Tasts)』 [1986年発表] と謂う逸話のなかに刺身 (Sashimi) と山葵 (Wasabi) を巡る論争が描かれてあるそうだ。
もしかしたら、数十年前の酒席でぼくが動揺させられた、真の原因はここにあるのかもしれない。

附記 2. :
真の原因はここにあるのだとしても、刺身 (Sashimi) と山葵 (Wasabi) を巡る問題が総て解決した訳ではない。
それぞれの喰し方は、一体、いつ、どこで、どの様に産まれ育まれたのか、と謂う様な点に関しては全くの手付かずの儘なのである。

附記 3.:
最近のぼくの刺身 (Sashimi) 事情は以下の通りである。
最寄りのスーパーで購ってきた刺身 (Sashimi) パックを開封し、それに添えられてある薬味 [山葵 (Wasabi) もしくは生姜 (Ginger)] を開封して、そのパックに盛られた刺身 (Sashimi) 中央部に山盛りにする。それに、醤油 (Soy Sauce) [もしくはパック封入の出汁] を上からかける。そして、それをそのまま喰うのである。
北大路魯山人 (Rosanjin) にも雁屋哲 (Tetsu Kariya) にも叱られそうな所作だが、なぁにかまう事はない。たったの独りで喰うにはこれが一番、合理的なのだ。なんとなれば、醤油 (Soy Sauce) を受ける小皿が不要、即ち、洗う手間がはぶけるのである。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/3078-13bb6afc

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here