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2020.06.09.09.05

ぷるがさり

と、謂う"怪獣 (Kaiju)"は怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) に似ている、と謂う。怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) に、頭部両端へ水牛 (Water Buffalo) の様な1対の角を装着し、鎧を着せれば、"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) になる、と。
ぼく個人の見解はそれとすこし違う。怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) ではなくて、その怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) の着ぐるみの改造である、古代怪獣ゴメス (Ancient Monster Gomess) [演:中島春雄 (Haruo Nakajima) TV番組『ウルトラQ (Ultra Q)』 [1966TBS系列放映] 第1話『ゴメスを倒せ! (Defeat Gomess!)』 [脚本:千束北男 監督:円谷一 特技監督:小泉一] 登場] ではないだろうかと。何故ならば、"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) は怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) 特有の前傾姿勢をとっていないのだから。彼は姿勢も正しく直立しているのだ。そして、その体勢をもって、ぼくは古代怪獣ゴメス (Ancient Monster Gomess) を想起してしまうのである。

怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) 云々と謂う表現が登場するのは、その"怪獣 (Kaiju)"が登場する映画『プルガサリ (Pulgasari)』 [チョン・ゴンジョ (Chong Gon Jo) 監督作品 1998年制作] の特撮部門は中野昭慶 (Teruyoshi Nakano) 率いる東宝特撮チーム (Toho Special Effects) が手掛けているからだ。そして、その"怪獣 (Kaiju)"の中の人 (Suit Actor) は、当時の怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) の中の人 (Suit Actor) であった薩摩剣八郎 (Kenpachiro Satsuma) である。
そして、ぼくはこの"怪獣 (Kaiju)"とその映画の存在を薩摩剣八郎 (Kenpachiro Satsuma) 著『ゴジラが見た北朝鮮 金正日映画に出演した怪獣役者の世にも不思議な体験記。 (Godzilla In North Korea)』 [1988年刊行] で知ったのである。
映画そのものを体験したのは、つい最近だ。

圧政に苦しむ少女アミ (Ami) [演:チャン・ソニ (Chang Son Hui)] の祈りが"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) として顕現し、彼を得た民衆によって高麗王朝 (Goryeo Dynasty) [918年建国 - 1392年滅亡] が滅ぼされる。しかし、新たな政治体制が産まれたなかでは、その"怪獣 (Kaiju)"は厄介な存在でしかない。その結果、少女アミ (Ami) は"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) と共に死を選ぶ。

その映画のあらすじを大雑把に綴ると上の様なモノとなる。
怪獣映画 (Kaiju Movie) と謂うよりも、伝奇映画 (Fantasy Movie) の方により近い ["怪獣 (Kaiju)"と綴っている理由はそこにある]。そんな印象を受けるのは、物語の舞台が高麗王朝 (Goryeo Dynasty) の末期にあるからだけではない。
もっと直歳的な表現をすれば、映画『ゴジラ (Godzilla)』 [本多猪四郎 Ishiro Honda)監督作品 1954年制作] よりも、映画『大魔神 (Daimajin)』 [安田公義 (Kimiyoshi Yasuda) 監督作品 1966年制作]  やその原典である映画『巨人ゴーレム (Der Golem, wie er in die Welt kam)』 [パウル・ヴェゲナー ( Paul Wegener)、カール・ベーゼ (Carl Bose) 監督作品 1920年制作] に近い。
悲嘆にくれる人々を救済し、現状を打破するおおいなるちからとして、彼等は顕れるからである。

プルガサリ (Pulgasari) は鋼鉄を主食とする。従って、武器や兵器を平らげる事が出来る。それ故に、支配者にまっこうから対峙する事が出来る。
しかし、"怪獣 (Kaiju)"が絵画『民衆を導く自由の女神 (La Liberte guidant le peuple)』 [画:ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugene Delacroix) 1830年制作 ルーヴル美術館 (Musee du Louvre) 所蔵] よろしく先陣にたち、率先して戦闘に向かう映像はあまりみられない。無論、そんな情景がない訳ではないが、印象に遺るのは、武装蜂起して進軍する民衆達を護持するかの様に、彼等の後陣につく"怪獣 (Kaiju)"の姿態なのである。誇らしげに胸をはり、ゆっくりとだが確実に前へと歩む、その姿だ。それは、少なくとも怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) にはみられない情景なのである。

だが、映画『大魔神 (Daimajin)』や映画『巨人ゴーレム (Der Golem, wie er in die Welt kam)』との大きな相違がひとつある。それは、政権が打破され、民衆が勝利し、"怪獣 (Kaiju)"が召喚された当初の目的が達成されても、プルガサリ (Pulgasari) はその存在をやめないのだ。
映画『大魔神 (Daimajin)』に於ける大魔神 (Daimajin) [演:橋本力 (Chikara Hashimoto)] は、自らの役割が終わったと認識した時点で自ら消失してしまう。
映画『巨人ゴーレム (Der Golem, wie er in die Welt kam)』に於けるゴーレム (Golem) [演:パウル・ヴェゲナー ( Paul Wegener)] は、彼の胸にあるダビデの星 (Star Of David) を除去する事によってその存在が喪われてしまう。
だがしかし、プルガサリ (Pulgasari) は生物としての存在を止める事はない。

先に綴った様に、プルガサリ (Pulgasari) は鋼鉄を主食とする。従って戦時にあっては、敵の武器弾薬の類を喰らっていれば良かった。そしてそれが為に、彼は民衆の、政権へと対峙し得る巨大な威力となっていたのである。
しかし、かつての政権が崩壊して平時が訪れるや否や、彼を食ませる事はあらたな政権による経済政策への打撃とはなる事はあっても、それをより発展させる方向へとは決してむかわない。民衆を救済するどころか、その逆、プルガサリ (Pulgasari) の存在は、今まで通りの、否、もしかするとこれまで以上の貧苦を強いるだけなのである。
そして、その結果として悲劇が待っているのである。

ぼくのいまの視点からみれば、この物語の主題は、高麗王朝 (Goryeo Dynasty) 打倒の為の物語ではなくて、その後に実はあるのではないだろうか、とも思えてしまう。

考え方はいくらでもある。
例えば、映画『ゴジラ (Godzilla)』での怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) 打倒の新兵器として登場するオキシジェンデストロイヤー (Oxygen Destroyer) を転倒させたかの様な視点だ。その開発者である芹沢大助博士 (Dr. Daisuke Serizawa) [演:平田昭彦 (Akihiko Hirata)] は、怪獣王ゴジラ (Godzilla ,King Of The Monsters) 討伐後にそれが第二の核、あらたな大量殺戮兵器として登用される事を怖れ、その開発方法と共に自らをも葬り去る。
否、映画『ゴジラ (Godzilla)』 に限らず、平和目的に発明開発された技術や知識が、戦争目的、すなわち人殺しの兵器として起用される逸話、もしくはその可能性を示唆する逸話は、数限りなくあるのだ [しかも創作物としてではなく現実にある物語として]。
映画『プルガサリ (Pulgasari)』はその逆、戦争目的の技術や知識の、平時に於ける危うさを指摘していると看做す事は決して無茶な発想ではないだろう。

だけど、どうなのだろう。
現実面に於いては、その映画の逆へと向かっているのだ。
もしかしたら、先軍政治 (Songun) をより補強する為の物語として、その映画が機能する事を望まれてはいないだろうか?
旧政権打倒の立役者である"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) [もしくはプルガサリ (Pulgasari) にその象徴を託し得る存在] を殺さない為には、常に戦時下にある必要がある、とでも謂う様な。
そんな多重な寓意 (Allegory) がその映画には潜んでいる様にも思われるのだ。

images
だから、その映画を観終わった後に、ぼくの脳裏に浮かんだのは、絵画『巨人 (El Coloso)』 [画:フランシスコ・デ・ゴヤ (Francisco de Goya) 18081812年制作 プラド美術館 (Museo del Prado) 収蔵] なのである。
逃げ惑う民衆を背になにかに向かって立ちはだかる巨人 (El Coloso) を描いたその作品は、いずれにも解釈し得る。巨人 (El Coloso) は民衆を護ろうとしているのか、それとも、民衆は彼の存在を認めて逃亡しているのか、と。その両義がその絵画には存在している。
そして、映画『プルガサリ (Pulgasari)』での、武装蜂起した民衆とともに行軍する"怪獣 (Kaiju)"プルガサリ (Pulgasari) の姿に、その絵画と同種の趣きを認める事が出来るのである。

次回は「」。

附記:
プルガサリ (Pulgasari) を召喚するのは少女アミ (Ami) である。一体、いつから"怪獣映画 (Kaiju Movie)"の主役は少女へと転嫁したのだろう。
そう綴ると、 怪獣映画 (Kaiju Movie) の始祖である映画『キングコング (King Kong)』 [メリアン・C・クーパー (Merian C. Cooper)、アーネスト・B・シェードザック (Ernest B. Schoedsack) 監督作品 1933年制作] でのアン・ダロウ (Ann Darrow) [演:フェイ・レイ (Fay Wray)] を挙げて反証されるかもしれない。
でもアン・ダロウ (Ann Darrow) とアミ (Ami) とは物語上での役割が違う様な気がするのだ
映画『ガメラ3 邪神〈イリス〉覚醒 (Gamera 3 : Revenge Of Iris)』 [金子修介 (Shusuke Kaneko) 監督作品 1999年制作] での比良坂綾奈 (Ayana Hirasaka) [演:前田愛 (Ai Maeda)] や、平成ゴジラ・シリーズ (Godzilla, The Heisei Era) での三枝未希 (Miki Saegusa) [演:小高恵美 (Megumi Odaka)] の様な触媒 (Catalyst)、表現を変えれば依童 (Yoriwara) の様な位置にアミ (Ami) もいる。そこに映画『『モスラ (Mothra)』 [本多猪四郎 Ishiro Honda)監督作品 1961年制作] での小美人 (Small Beauties) [演:ザ・ピーナッツ:伊藤エミ、伊藤ユミ (The Peanuts : Yumi Ito and Emi Ito a)] も加えても良い。
映画『キングコング (King Kong)』から映画『ゴジラ (Godzilla)』 、そしてそれを継承する物語の系譜とは別に、もうひとつの系譜がある様な気がしてならない。映画『巨人ゴーレム (Der Golem, wie er in die Welt kam)』も映画『大魔神 (Daimajin)』もその系譜に連なっているのは、謂うまでもないし、映画『プルガサリ (Pulgasari)』もそれに属しているのだ。
そして、そのもうひとつの系譜はある時季以降、よりつよくその存在をぼく達の前に顕示し、その地位を確固たるモノとした様な気がするのだ。

附記:
その映画のなかで、上に紹介した情景よりも印象に遺るのは、少女アミ (Ami) がプルガサリ (Pulgasari) を呼ぶその声である。なんだか映画『禁じられた遊び (Jeux interdits)』 [ルネ・クレマン (Rene Clement) 監督作品 1952年制作] でのポーレット (Paulette) [演:ブリジット・フォッセー (Brigitte Fossey)] がミシェル・ドレ (Michel Dolle [演:ジョルジュ・プージュリー (Georges Poujouly)] を呼ぶその声にも似ていて、そればかりがいつまでも耳にこだましていて、ぼくはやりきれない。
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