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2009.01.06.20.52

だだそのに

ダダ(Dada)というのはなにはなくとも、『キャバレー・ヴォルテールで音響詩を朗読するフーゴ・バル(Hugo Ball At The Cabaret Voltaire, With 1917 Sound-poem)』の事である。それは、唯一遺された、たった一枚の写真である。

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つまり、この上に掲載された写真なのだ。
ダダ(Dada)という芸術運動も、その張本人の一人であるフーゴ・バル(Hugo Ball)も、その舞台となったキャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)も、そして彼がそこで朗読した音響詩『Karawane[朗読の試聴はこちら / 作品画像の試観はこちら]』も、その一切の情報がないままに観た、当時の僕の曰く言いがたい印象は、なんと表現したら良いのだろう?

百科全書派(Encyclopedistes)の一員だったヴォルテール(Voltaire)の接頭辞(Prefix)として冠されたキャバレー(Cabaret)という語感についてだけは当時、ちょっと甘美な誘惑に駆られたりもしたけれども。そおゆう昭和40年代に全盛を極めた風俗店も、その頃は既に下火になっていたから、何をかいわんや(Tell Me What'd I Say)、である。

そのぼんやりと浮かび出された奇妙な風体の人物が、そこで一体何をしようとしたのか、そして、何の因果でそんな奇天烈な装いをしているのか、どうしてもそこに視線と興味が集中してしまう。

そこには笑いがあるのか。それとも、狂気を孕んでいるのか。
笑いと狂気と、そして恐怖とは置換可能なシステムである。そんな事は、なにもシャルル・ボードレール(Charles Baudelaire)に依らなくても[と言うか、出典が見出せないだけなんだけれども]、既に知っていた。『怪奇大作戦』に代表される様なマッド・サイエンス(Mad Science)を描いた一連のSF作品や、赤塚不二夫吾妻ひでおあたりを開祖とするギャグマンガ群を観ればいい。
なのだけれども、そうゆうモノどもとも、実は無縁なのではないか、そんな気がしてならない。

後の事になって、表現に向かうモノ(単純に芸術家と言い換えると、その範囲を一挙に狭めてしまうからこおゆうまどろっこおしい表現をするのだけれども)の、彼らのとった奇態や奇矯や奇行を知るにつけ、どうも、それらとは一線を画している様な気がしてならない。

"エビガニに鎖をつけて町内を散歩したり何かとひと言いうたんび、ピストルをぶっぱなしたりデタラメニュースを流したりゴミ溜めから拾ってきたゴミをベタベタひっつけて「それ、芸術ができた」といって展覧会に出品してみたり小便器のアサガオをひっくり返して題つけて「芸術だ!」と言い張ったり"
[南伸坊著作『モンガイカンの美術館』より]

その一線が何なのか、本来ならばきちんと語るべきなのかもしれないが、それはダダ(Dada)というモノを、ひとつのちっぽけな隔離病棟に押し込めてしまう、蛮行の様な気がしてならない。

つまり、何が言いたいのかと言うと、僕は単に、獣を野に放ちたいだけなのだ。

そして、その様な衝動をこそ、ダダ(Dada)と呼ぶべきではないのだろうか?
そんな気がしてならない。

次回は「」。
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