2020.05.26.08.18
それはぼくにとってよく解らない映画なのである。
と、謂うよりも、正しくは、ぼくがその映画の感想なり概観なりを述べたとすると、それを聴いたモノからきっとこう返されるのだ。
おまえはなにもわかっていない、と。
恐らく、他の多くのヒトビトが抱く感慨と決して交わらないであろうモノを、その映画にぼくは観ているのだろう。
と、謂うのは、この映画『突然炎のごとく
(Jules et Jim)』 [フランソワ・トリュフォー (Francois Truffaut) 監督作品 1962年制作] を語る際に、語られるであろう逸話をぼくはまったく受け入れられないからなのである。
"あれはわたしです"
その映画のヒロインであるカトリーヌ (Catherine) [演:ジャンヌ・モロー (Jeanne Moreau)] を、自身と同一化する女性達の発言である。
それが一番、解らない。
勿論、その理由は、ぼくと彼女 [達] とのあいだに横臥わる性差のせいだけではないだろう。
この映画の存在を知ったのは、ムック『ぴあ シネマクラブ 洋画篇 (Pia Cinema Club Western Movies Issue)』 [1987年 ぴあ刊行] である。刊行時に上映され得る作品と映像ソフトで体験可能な作品を網羅した、電話帳 (Telephone Directory) の様に [って謂っても最早、通じないか、こう謂い換えよう]、『広辞苑
』 (Kojien) [新村出 (Shinmura Izuru)、新村猛 (Takeshi Shinmura) 編著 1935年初版刊行] の様に、分厚い年鑑 (Year Book) である。
作品名の五十音順 (Syllabary Order) に居並ぶ幾つもの、名作傑作迷作駄作に混じって、その映画も、1点のスチル写真と共に紹介されていた筈である。

満面の笑みをたたえて、自転車を疾駆させている女性、つまりカトリーヌ (Catherine) である [上掲画像はこちらから]。
その写真から解読出来る雰囲気と、それと相反するかの様な作品名とが、ぼくの中でせめぎあってしまう。
そして、その映像を期待して映画を観ると、肩透かしに近い感覚に囚われてしまう。
そのシーンはほんの一瞬しか登場しないのである。
映画は、原題名に登場しているふたりの男性、ジュール (Jules) [演:オスカー・ウェルナー (Oskar Werner)] とジム (Jim) [演:アンリ・セール (Henri Serre)] が彼女と出逢って始まる。
3人の、友情以上恋愛未満の関係と、その表出である様な情景が淡々と綴られていく。自転車に乗るカトリーヌ (Catherine) は、そのなかにいる。観ているぼくにとっては、どこまでもどこまでも、映画の導入部が縷々と綴られているかの印象だ。
そして、それらがその調子でもってずっと語られ続けていくのであろうと思っていたら、一切の予兆もない中で、カトリーヌ (Catherine) が河へと身を投じてしまうのだ。
しかもふたりのみているめのまえで、である。
邦題も、"あれはわたしです"と告白する彼女達も、そこからそのシーンに象徴され得る彼女を、逆に自身に投影する様に、カトリーヌ (Catherine) を観ているのだろうか。
もしも、そうだとしたら、そこが最もぼくが理解できない点なのである。
彼女の内面と謂うモノは一体、どこにあるのだろうか。
彼女の行動や発言からそれは推し量られるだけで、そこに同調してしまうのは、陥穽に陥るだけではないだろうか。
と、思えるからである。
ぼく達が観るべきは、彼女ではなく、彼女に翻弄されるふたりの男性、その行動と発言ではないだろうか、と思っているのである。
作品内で彼女が楽曲『つむじ風 (Le Tourbillon)』 [作詞作曲:サイラス・バッシアク (Serge Rezvani) アルバム『つむじ風 (Le Tourbillon Ma Vi)
』 [2017年発売] 等収録] を唄う様に、彼女は、颱風 (Typhoon) の様な存在で、その中心である眼 (Eye) にはなにもなく、ただただ青空が拡がってある様に、彼女もまた、自身のなかになにもない、そう思えるのだ。
[だからと謂って、このふたりの男性、そのいずれかの内心が如実に描写されていると謂う訳でもない。女性の内面が描写されていないのと同様に、彼等2人の心情が表出されている訳でもない。
その一方で、"あれはわたしです"と独白する女性達の誰もが皆、あたかも颱風 (Typhoon) の眼 (Eye) であるかの様に、周囲を翻弄したいとか、なかになにもない空虚な存在でありたい、そう願っている訳でもないだろう。]
と、謂うのは、この映画を観ている間、ずっと脳裏に去来していたのは、ギ・ド・モーパッサン (Guy de Maupassant) の短編小説『二人の友
(Deux amis
』 [1882年発表 粗筋等はこちらを参照の事] だからである [この小説は中学生の頃、国語の授業で体験した]。
物語の舞台は普仏戦争 (Guerre franco-allemande de 1870) [1870年開戦 1871年集結] 時の巴里 (Paris) である。共通の趣味である釣りを介して知り合った、ふたりの男性が、パリ攻囲戦 (Siege de Paris) の最中であるのにも関わらず釣りに郊外へと出掛け、そこでプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) に捕縛、銃殺されてしまう物語である。
そのふたりの男性、モリソー (Morissot) とソヴァージュ (Sauvage) にとっては、そこで迎える死は、非合理的で不条理なモノではあるのだが、客観的に観れば、それは、案の定とも、自ら播いた種とも、断罪出来ようモノなのである。
つまり、ジュール (Jules) とジム (Jim) にとってのカトリーヌ (Catherine) をぼくは、モリソー (Morissot) とソヴァージュ (Sauvage) にとってのプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) であり、釣りであるとおもっているのだ。
ふたりの友が非業の死を迎えざるを得ないのは、直接的にはプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) の兵卒達が放った銃弾ではあるが、彼等を敵の許へと招き入れたのは実際、釣りと謂う快楽の誘惑であるからなのだ。
次回は「く」。
附記:
カトリーヌ (Catherine) を演じた女優、ジャンヌ・モロー (Jeanne Moreau) をぼくが知ったのは映画『死刑台のエレベーター
(Ascenseur pour l'echafaud)』 [ルイ・マル (Louis Malle) 監督作品 1958年制作] での事だ。
そして、そこで彼女が演じた女性フロランス・カララ (Florence Carala) とカトリーヌ (Catherine) を時々、対比させては悩んでいる。
フロランス・カララ (Florence Carala) が、物語が語られているその夜、巴里 (Paris) を流離うのは、本来ならばそばにいる筈の男、ジュリアン・タヴェルニエ (Julien Tavernier) [演:モーリス・ロネ (Maurice Ronet)] が不在であるからなのだ。彼女と彼と練った計画が達成されたのか未遂に終わったのかも解らない、それに第一に、その計画とその実行は、ふたりが共にある為にのみ執行されるモノだ。その大きな欠落を埋める術もないままに夜、巴里 (Paris) を彼女は彷徨うのである。
と、彼女の行動からその内心は痛い程に解る。さもなければ、嫌が上でも解らざるを得ない。
では、カトリーヌ (Catherine) の場合は? その言動を起動させるモノは果たして一体、なんなのか。
と、謂うよりも、正しくは、ぼくがその映画の感想なり概観なりを述べたとすると、それを聴いたモノからきっとこう返されるのだ。
おまえはなにもわかっていない、と。
恐らく、他の多くのヒトビトが抱く感慨と決して交わらないであろうモノを、その映画にぼくは観ているのだろう。
と、謂うのは、この映画『突然炎のごとく
"あれはわたしです"
その映画のヒロインであるカトリーヌ (Catherine) [演:ジャンヌ・モロー (Jeanne Moreau)] を、自身と同一化する女性達の発言である。
それが一番、解らない。
勿論、その理由は、ぼくと彼女 [達] とのあいだに横臥わる性差のせいだけではないだろう。
この映画の存在を知ったのは、ムック『ぴあ シネマクラブ 洋画篇 (Pia Cinema Club Western Movies Issue)』 [1987年 ぴあ刊行] である。刊行時に上映され得る作品と映像ソフトで体験可能な作品を網羅した、電話帳 (Telephone Directory) の様に [って謂っても最早、通じないか、こう謂い換えよう]、『広辞苑
作品名の五十音順 (Syllabary Order) に居並ぶ幾つもの、名作傑作迷作駄作に混じって、その映画も、1点のスチル写真と共に紹介されていた筈である。

満面の笑みをたたえて、自転車を疾駆させている女性、つまりカトリーヌ (Catherine) である [上掲画像はこちらから]。
その写真から解読出来る雰囲気と、それと相反するかの様な作品名とが、ぼくの中でせめぎあってしまう。
そして、その映像を期待して映画を観ると、肩透かしに近い感覚に囚われてしまう。
そのシーンはほんの一瞬しか登場しないのである。
映画は、原題名に登場しているふたりの男性、ジュール (Jules) [演:オスカー・ウェルナー (Oskar Werner)] とジム (Jim) [演:アンリ・セール (Henri Serre)] が彼女と出逢って始まる。
3人の、友情以上恋愛未満の関係と、その表出である様な情景が淡々と綴られていく。自転車に乗るカトリーヌ (Catherine) は、そのなかにいる。観ているぼくにとっては、どこまでもどこまでも、映画の導入部が縷々と綴られているかの印象だ。
そして、それらがその調子でもってずっと語られ続けていくのであろうと思っていたら、一切の予兆もない中で、カトリーヌ (Catherine) が河へと身を投じてしまうのだ。
しかもふたりのみているめのまえで、である。
邦題も、"あれはわたしです"と告白する彼女達も、そこからそのシーンに象徴され得る彼女を、逆に自身に投影する様に、カトリーヌ (Catherine) を観ているのだろうか。
もしも、そうだとしたら、そこが最もぼくが理解できない点なのである。
彼女の内面と謂うモノは一体、どこにあるのだろうか。
彼女の行動や発言からそれは推し量られるだけで、そこに同調してしまうのは、陥穽に陥るだけではないだろうか。
と、思えるからである。
ぼく達が観るべきは、彼女ではなく、彼女に翻弄されるふたりの男性、その行動と発言ではないだろうか、と思っているのである。
作品内で彼女が楽曲『つむじ風 (Le Tourbillon)』 [作詞作曲:サイラス・バッシアク (Serge Rezvani) アルバム『つむじ風 (Le Tourbillon Ma Vi)
[だからと謂って、このふたりの男性、そのいずれかの内心が如実に描写されていると謂う訳でもない。女性の内面が描写されていないのと同様に、彼等2人の心情が表出されている訳でもない。
その一方で、"あれはわたしです"と独白する女性達の誰もが皆、あたかも颱風 (Typhoon) の眼 (Eye) であるかの様に、周囲を翻弄したいとか、なかになにもない空虚な存在でありたい、そう願っている訳でもないだろう。]
と、謂うのは、この映画を観ている間、ずっと脳裏に去来していたのは、ギ・ド・モーパッサン (Guy de Maupassant) の短編小説『二人の友
物語の舞台は普仏戦争 (Guerre franco-allemande de 1870) [1870年開戦 1871年集結] 時の巴里 (Paris) である。共通の趣味である釣りを介して知り合った、ふたりの男性が、パリ攻囲戦 (Siege de Paris) の最中であるのにも関わらず釣りに郊外へと出掛け、そこでプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) に捕縛、銃殺されてしまう物語である。
そのふたりの男性、モリソー (Morissot) とソヴァージュ (Sauvage) にとっては、そこで迎える死は、非合理的で不条理なモノではあるのだが、客観的に観れば、それは、案の定とも、自ら播いた種とも、断罪出来ようモノなのである。
つまり、ジュール (Jules) とジム (Jim) にとってのカトリーヌ (Catherine) をぼくは、モリソー (Morissot) とソヴァージュ (Sauvage) にとってのプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) であり、釣りであるとおもっているのだ。
ふたりの友が非業の死を迎えざるを得ないのは、直接的にはプロイセン王国軍 (Royaume de Prusse) の兵卒達が放った銃弾ではあるが、彼等を敵の許へと招き入れたのは実際、釣りと謂う快楽の誘惑であるからなのだ。
次回は「く」。
附記:
カトリーヌ (Catherine) を演じた女優、ジャンヌ・モロー (Jeanne Moreau) をぼくが知ったのは映画『死刑台のエレベーター
そして、そこで彼女が演じた女性フロランス・カララ (Florence Carala) とカトリーヌ (Catherine) を時々、対比させては悩んでいる。
フロランス・カララ (Florence Carala) が、物語が語られているその夜、巴里 (Paris) を流離うのは、本来ならばそばにいる筈の男、ジュリアン・タヴェルニエ (Julien Tavernier) [演:モーリス・ロネ (Maurice Ronet)] が不在であるからなのだ。彼女と彼と練った計画が達成されたのか未遂に終わったのかも解らない、それに第一に、その計画とその実行は、ふたりが共にある為にのみ執行されるモノだ。その大きな欠落を埋める術もないままに夜、巴里 (Paris) を彼女は彷徨うのである。
と、彼女の行動からその内心は痛い程に解る。さもなければ、嫌が上でも解らざるを得ない。
では、カトリーヌ (Catherine) の場合は? その言動を起動させるモノは果たして一体、なんなのか。
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