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2020.04.07.08.41

ぱんくろっく

いぬはきらいである。
そういうと、よこから茶々がはいる。
おまえはねこ派なんだな、と。

そういうことではない。
だから、こう応える。ねこもきらいだ、と。
そこで会話は途切れてしまうのだが、ぼくの主張したいところはもっと、べつのところにある。

いぬはきらいである。
その真意はこうだ。
いぬがすきだという、ある種のひとびとがきらいなのだ。
だから、ねこがきらいなのも、同様だ。

そういう文脈になぞらえると、ザ・ブルーハーツ (The Blue Hearts) というバンドはきらいで、なかでも『パンク・ロック (Punk Rock)』 [アルバム『ザ・ブルー・ハーツ (The Blue Hearts)』収録 1987年発表 歌詞はこちらを参照] と謂う楽曲はだいっきらいなのである。

そして、その理由はうまく説明がつかない。
生理的なモノ、感覚的なモノだ、そうやって逃げてしまいたいぐらいなのだが、それはそれで、ぼくの腹の虫がおさまらない。
だから、すこしでもぼく自身のきもちが落ち着ける様に、ここに綴ってみる。

ひとことでいえば、この歌はなにかを放棄してしまったところから始まっている。
そして、放棄することが至極当然、あたりまえであるかの様な面構えをして、平然とそこに居る。
きっと、そこがいやなのだ。

歌詞冒頭に次の一節がある。
「吐き気がするだろ みんな嫌いだろ」と。

そして恐らく、文意としては、にも関わらずに、とか、だからこそ、と謂う接続部があって然るべきなのだ。誰からも受け入れてもらえないモノを顕彰し、称揚しようと謂うのであるのならば。
そこがない。
だから、そのあとに何度も何度も登場する語句「パンクロック」を、どう受け止めて良いのかが解らない。

と、謂う様な趣旨をぼくがほざけば、大概のモノがこう説諭するだろう。
「吐き気がするだろ みんな嫌いだろ」と謂う修辞は、「パンク・ロック」に接続しているのだ、と。
つまり、「吐き気がする」、「みんな」が「嫌い」な「パンク・ロック」が「僕」は「好き」なのだ、と。

普通の思考をすれば、それはそうだろう。
だけれども、それがさも当然の論理展開であるとすましているところこそが、ぼくが嫌いな所以なのである。

それは何故か。

こういう解釈が成り立ち得るからなのだ。
「吐き気がするだろ みんな嫌いだろ」だから、ぼくも嫌いだ、でも、そうではない「パンク・ロック」もあって、そんな「パンク・ロックが好きだ」と。
つまり、「パンク・ロック」と謂う表現で、そこに属するであろうモノの、ごく一部だけを救済しようとしている様にも、思えてしまうのである。
実は、「パンク・ロック」のなかのごく一部だけが「好き」なのではないだろうか。

その行為が、良いとか悪いとかと謂う事とは別の事だ。
「好き」なモノは「好き」と謂えば良いのだし、嫌いなモノを甘んじて受け入れよとは、ぼくは謂わない。だけれどもその代わりに、自身のすきなモノ、自身が信頼をおけるモノを、きっちりと明確に指摘すべきである、とぼくは思うのだ。
「パンク・ロック」を演奏するあのバンドと、「パンク・ロック」の代表的なあの曲と。
何故、それをしない、何故、そこを避ける、そんな意識がぼくに働いているのである。

その一方で、こんな視点もあり得る。
自身が「好き」なモノ、一切合切をまとめて、それを「パンク・ロック」と命名しているだけだろう、と。
おまえのいう「パンク・ロック」とおれのいう「パンク・ロック」は違うのだ、と。
もしも、そういう認識が働いているのだとしたら、何故、その違い、さもなければ、自身が「好き」な「パンク・ロック」を明確に提示しないのか。出来ないのだろうか。
そんな事も、ぼくは思ってしまう。
つまり、最終的には、先のモノと大同小異な違和感が、そこに滞留してしまうのだ。

この曲には「好き」とか「心から」とか「やさしい」とか、誰もが理解可能で、受容しやすい語句が、平然な顔をして、そこに居座っている。
だから、この曲を聴くモノは誰しも、自分自身にとっての「パンク・ロック」をそこに見出して、そこに安住しようとする。

それでいいのか? と謂うのが、ぼくのきもちだ。
逃げているのだろう、甘えているのだろう、とぼくは思う。

いぬがきらいな理由、ねこがきらいな理由も、それと同様なのだ。

images
The Image Photo for the song "The Punk And The Godfather" from the album "Quadrophenia" 1973 by The Who, photo by Ethan Russell

次回は「」。

附記 1. :
上掲画像は、ザ・フー (The Who) のアルバム『四重人格 (Quadrophenia)』 [1973年発表] に収められているブックレットの一部、見開き2頁である。そのアルバム収録曲『少年とゴッドファーザー (The Punk And The Godfather)』のヴィジュアル化と思われる。
その楽曲の中では、そのアルバムで語られている物語の主人公と彼が信奉するミュージシャンとの対話と謂うかたちで構成されている。その曲名にある少年 (The Punk) が前者で、ゴッドファーザー (The Godfather) が後者であり、この2者の対話は齟齬が顕れるばかりで、一向に埒があかない。そのミュージシャンの代表曲 [すなわち、ザ・フー (The Who) の代表曲] 『マイ・ジェネレーション (My Generation)』 [アルバム『マイ・ジェネレーション (My Generation)収録 1965年発表] の一節も登場するが、主人公はその曲すらも受け入れられ難いモノに思えている様なのだ。つまり、その曲名にある「マイ (My)」は、主人公からみれば"ユア (Your)"としか響かない。そこで歌われている世代 (Generation) に自身は決して所属する事は叶わないのである。
ぼくの、『パンク・ロック (Punk Rock)』に感ずる苛立ちと同種のモノなのかもしれない、ふと、そう思って、拙稿の掲載画像として起用してみた。

附記 2.:
その楽曲を徹底的に批判する、ただそれだけの文章になってしまったから、ここではそこから離れて、すこし違う事を綴ってみる。
その楽曲『パンク・ロック (Punk Rock)』は、もしかしたら、ザ・スターリン (The Stalin) の楽曲『ロマンチスト (Romanticist)』 [アルバム『ストップ・ジャップ (Stop Jap)』収録 1982年発表] へのアンサー・ソングではないだろうか、と謂う事なのである。
ザ・スターリン (The Stalin) のその楽曲は、徹頭徹尾、アイデンティティー批判だけに終始している。ある種の人物、もしくはある種の人物達の、行動や思考に潜む愚行や愚考を指弾し続けるているのだ。所詮おまえはこの程度の存在でしかない、この程度の事しか出来ない、そう言い続けているのだ。それは、その楽曲が収録されたアルバムにある楽曲『ワルシャワの幻想 (Fantasy In Warszawa)』での「おまえらの貧しさに乾杯!」と謂う一節とほぼ同意義である。
そして、その指摘はいつしか自身そのモノへと還ってくる。それこそがコーラス部にある歌詞「吐き気がするほどロマンチックだぜ」なのである [つまり、そう謂うおまえこそどうなのだ、そう謂うおまえこそがその程度の存在、その程度しかできないのだ、と]。
ザ・ブルーハーツ (The Blue Hearts) の『パンク・ロック (Punk Rock)』 と謂う曲は、もしかしたらその楽曲のその歌詞を受けてのモノ、ある種のひらきなおりに近い叫びなのかもしれない。
ただ、残念な事に、そんな解釈をしたぼく自身としては、『パンク・ロック (Punk Rock)』 へのアンサー・ソングとして『ロマンチスト (Romanticist)』が機能し得る様に思えてしまう事である。
つまり「パンク・ロックが好きだ」に対して「吐き気がするほどロマンチックだぜ」と。
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