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2020.03.31.08.13

といれっとぺーぱー

パンがなければお菓子を食べればいいじゃない (Qu'ils mangent de la brioche!)」
最近、みたりきいたりする言説の、その殆どが、もしかしたら、これではないか。

困窮する国民達に対して、マリー・アントワネット (Marie-Antoinette d'Autriche) が発したとされる有名な語句である。
実際には、彼女の発言ではないらしいのだが、その真偽に関してはここでは問わない。彼女、もしくは、彼女に象徴される地位にあるモノの発言と看做しておく。

この発言のなにが駄目なのかは、恐らく誰にも理解できる。
ひとつには、その行為を成し得るのであるのならば、そもそも、そこにある問題が発生しえない事。
ひとつには、その主張を汲んでそれを実行したとしても、なんの解決にもならない事。
ひとつには、この発言のぬしがマリー・アントワネット (Marie-Antoinette d'Autriche) である事。
しかし、それ以上に問題なのは、発言者自身が、それが有効な解決策であると信じている事。少なくとも、そこに悪意や揶揄が潜んでいる方が、まだ救いはあるのだ。

そして、ぼくには、ここ数年に、問題となった事態や話題となった案件に対し、その解決策として提示された幾つもの事案があたかも、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない (Qu'ils mangent de la brioche!)」に比する事が出来るモノばかりの様な気がするのだ。

本来ならば、それを提示すれば、ある程度の賛同は得られるのかもしれない。
しかし実際には、様々な立場にあるモノの発言のその殆どがそればかりで、あたかも「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない (Qu'ils mangent de la brioche!)」の水掛け論 (He-said-she-said Argument) でしかない様に思えるばかりなのである。
つまり、ある案件に対して提示された提案は、それを提示した勢力に対し異を唱えるヒトビトからみれば、どれもこれも「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない (Qu'ils mangent de la brioche!)」にしかみえない様に思えてしまうのだ。しかもその上に、その提案に対して提示された対案が、逆の立場からみればやっぱり「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない (Qu'ils mangent de la brioche!) にしかみえない様なのだ。
だからこそ、ぼくはここに具体例を提示しない。個々それぞれが胸に掌をあてて考える、もしくは、昨今の議題と、それに関して提示された提案なり主張なりをつぶさに読みかえしてみてくれればいい、とぼくは思うのだ。上に挙げたこの発言のなかにある駄目な点4項目のうち、マリー・アントワネット (Marie-Antoinette d'Autriche) の発言云々を除いた3項目が該当するモノはいくらでも登場するに違いないから。

トイレットペーパー (Toilet Paper) の品不足と謂う逼迫した状況を、ぼくは過去、3回体験している。
最初のそれは第1次石油危機 (1973 Oil Crisis) [1973年] の時である。当時ぼくは小学生 (in Elementary School) だった。報道機関の報道している様を眺めているだけのぼくにも、それはやってきた。ある日、母親に連れられて近所のスーパーに出向く。そしてそこにある行列の最後尾に並ぶのだ。販売者が提示する「お一人様おひとつかぎり」の条件を満たした上での購入枠拡大を目論む、母親による動員命令に唯々諾々と従ったのである。
2度目のそれは9年前。東日本大震災 (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) [2011年] である。その当日の夜、帰宅途中のぼくは、ある年配の女性が自転車の荷台にいくつものその商品をくくりつけていたのを、みたのだ。しかも、彼女の自転車がおかれた目の前にあるコンビニ (Convenience Store) は、いつもとは異なる賑わいをみせていた。
そして今回のそれである。薬局や雑貨店の店先の陳列棚がいつまでたってもからっぽなままなのである。

何故、トイレットペーパー (Toilet Paper) なのだろう、と思う。
第1次石油危機 (1973 Oil Crisis) の時は、すぐにその理由が解る。原油価格 (Crude Price) の高騰を受けて、それを原材料とする製品の製造販売が危うくなる、その危機意識の顕れだ。多種多様なそれらの製品群の中での、生活必需品の中で、おそらく最も煩雑に消費されて、しかもその代替となるモノが存在し得ない、そんな判断の中での事だろう。
東日本大震災 (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) は、その商品だけではない。ありとあらゆる日常用品の枯渇が危惧され、そしてあるモノはその危惧とおりになった。
では、何故、今回? とそう思う。

例えば、報道の文脈に於いては、まるで東日本大震災 (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) を彷彿とさせる ... と謂う様な言辞が登場し得るが、その時とはよくみれば、違った光景がそこにある。
からっぽになった商品棚には、その商店によるある掲示物が幾つも幾つも貼り出されている。そこにあるのは「不足はデマです」そんな文言だ。
つまり、商品が不足しているのではない。商品が不足していると謂う幻想がそこにあり、その幻想が如実に実体化しているのだ。
これは、過去の2例とは全く異なるモノだと思う。

そこで、そんな光景を眼にしたぼく達はふと、こう思う。
第1次石油危機 (1973 Oil Crisis) や東日本大震災 (Aftermath Of The 2011 Tohoku Earthquake And Tsunami) が刷り込まれた (Imprinting)、その結果ぢゃあないのかなぁ、と。
そうかもしれない。
だけど、すこし違った事を、いまのぼくは考えている。

ヒトビトがトイレットペーパー (Toilet Paper) に奔走するのは、もしかしたら、合法的な米騒動 (Rice Riots Of 1918) [1918年] なのではないのだろうか、と。
当時の米 (Rice) とは、主食である事以上に現金と等位であり、彼等が収めしめた税金と同趣旨、すなわちかつての時代では年貢である。それの回復を求めての行動は、体制からみれば、犯罪行為、否、叛逆行為に異ならない。だからこそ、現代に棲まうぼく達は、犯罪行為にも叛逆行為にもなり得ないモノ、トイレットペーパー (Toilet Paper) へと奔るのではないだろうか。しかも、きちんと店舗が提示した金額を支払っての上で、だ。つまり、順法闘争 (Work‐to‐rule Tactics) なのである。
極端な言説を弄すれば、トイレットペーパー (Toilet Paper) が欲しいのではない。それが象徴し得るモノが喪われる事を危惧しての上での行為、即ち代償行為 (Compensatory) なのである。
だから、当時のヒトビトが求めて押し寄せた、そこにある米 (Rice) が彼等の掌にはいったとしても、なんの解決にも実はなっていないのと同様に、トイレットペーパー (Toilet Paper) の供給が充分になされたとしても、それが総てを打開し得ないのではなかろうか。
それ故に、暗黙裡に、トイレットペーパー (Toilet Paper) がいつ、他の商品に転換しても決して不思議ではない、そんな示威行動 (Demonstration) であるかもしれないのだ。
と、ふと、そう思うのである。

と、同時にこんな事も考える。
トイレットペーパー (Toilet Paper) は、安価で、日常的な消費財で、にも関わらずにその占める容積はおおきい。だから、ほんの少しの操作で品薄にもなり得ると同時に、品薄である状態は誰の眼にも明らかになる。
その点を考慮すれば、報道機関にとっては、受給関係に破綻が生じればとても明示しやすい商品である。
例えばこれが、トイレットペーパー (Toilet Paper) とは真逆の存在、高価で、高級な嗜好品で、しかも微小な存在だったら、どうなのか。例えば、貴金属の類だ。ヒトビトがそれに先を争って群がる、それは一体、どんな光景なのだろう。どう考えてもこの国の経済動向に危機的状況が訪れた、もしくは、この国の政治体制が崩壊寸前である、そんな前提が必須である様に思える。
と、謂う事は、為政者や権力者からみれば、トイレットペーパー (Toilet Paper) へと人々の意識が動いている時点では、まだおのれの地位は安泰であると看做す事が出来る。寧ろ、貴金属へではなくて、トイレットペーパー (Toilet Paper) へとはしらせようと彼等自身が仕向ける事にもなりかねない。否、実のところ、まさにそう仕向けたその結果がいま、なのかもしれない。

どちらにしても、トイレットペーパー (Toilet Paper) とその供給不足を解消しようとする事は、マリー・アントワネット (Marie-Antoinette d'Autriche) が謂ったとされる「お菓子 (brioche)」の様にぼくには思えてしまうのだ。

それでは逆に、「パン (pain)」とは一体なにか? その答えが一向にぼくには思いつかないのだ。

images
"Toilet Paper" 2008 by Natalia Delgado

次回は「」。

附記 1. :
上掲画像は如何様な解釈も可能である様に思える。
例えば、トイレットペーパー (Toilet Paper) に印字された『世界人権宣言 (Universal Declaration Of Human Rights)』 [1948国際連合総会 (United Nations General Assembly) 採択] を主語としてその作品を語ろうとする時と、『世界人権宣言 (Universal Declaration Of Human Rights)』 が印字されたトイレットペーパー (Toilet Paper) を主語として語ろうとする時とでは、180°異なる感慨が顕れ得る様に、ぼくには思える。
拙稿の文脈によって読めば、そのどちらもが、「お菓子 (brioche)」にも「パン (pain)」にもなり得るのである。
無論"いや、なぁに、ながしちまえばみんな一緒だよ (By To Melt And To Stream, All Together They Are)"と切り捨てる場合も含めての事だ。

附記 2. :
無論、トイレットペーパー (Toilet Paper) が必須であり必需である現場と謂うモノは存在するし、そこへの供給が閑却されるべきではない。その場所に於いては、トイレットペーパー (Toilet Paper) こそが、まごう事なき「パン (pain)」ではある。つまり、「お菓子 (brioche)」と「パン (pain)」とは、相対的な関係にあり、絶対的なモノではない。
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