2007.07.24.22.15
ふと、『ネクロノミコン(Necronomicon)』という言ってはならない単語が頭の片隅を廻りますが、それは例えその語句がどの様な意味を持っていようとも、ここでは勿論禁句です(ゲェムが終ってしまうからね)。
というネタは以前に、ここでやりました。
と、いうわけで、もしかしたら『ネクロノミコン(Necronomicon)』という言葉以上に、言ってはならない単語かもしれない「ねじしき」でいきましょう。
「ねじしき」、勿論、つげ義春作の短編マンガ『ねじ式』の事です。何故、言ってはならない単語であるのかという点は、とりあへえず棚にあげて、この作品との最初の出合いから語り始めます。
僕がこのマンガに触れたのは、マンガが文庫というフォーマットで発売された最初の時期です。それはつまり、マンガの単行本やコミック、それにマンガ雑誌を、書店で立ち読み出来なくなった時期です。いや、立ち読みそのものは、遥かな昔からお断りだったり厳禁だったりした訳ですが、それまでは、はたきを小脇に抱えたこわい書店主のメを盗み盗み、マンガを手にとってぱらぱらぱらと濫読するくらいは可能でした。それが、いつのまにやら、ビニール包装でシュリンクされて、買わない限り中身を視る事は一切、不可能になりました。その時から、はたきを小脇に抱えたこわい書店主という存在は、アニメの『サザエさん』の中にたまぁに出てくるくらいの、懐かしい存在になってしまったのです。
そして、その頃から、文庫本のコーナーに、僕達世代が読み耽るよりも昔に発表された作品が、いわば「マンガ名作集」の様な装いで、並び始めたのでした。単価が安いせいかどうなのか解らないけれども、この「マンガ名作集」文庫は、ビニール包装でシュリンクされてはおりませんでした。
『ねじ式』という作品には、そういう形で出会ったのです。
つまり、バリバリ現役の漫画読者(まぁ、10代に入ったか否かの)が、"名作"という額縁を与えられて触れる作品。しかし、その実態は、実際に本屋で立ち読み出来る数少ないマンガ作品という代償物である、というもの。
しかし、その様な出会いは、その後、僕には数多く起きるのです。例えば、名画座で観る映画や、再発廉価盤や中古品として入手するロック名盤など。
ところで、この『ねじ式』を最初に読んだ時は、さして印象に残らなかった様な気がする。どちらかと言うと、恐らく同じ文庫に収められていた『ゲンセンカン主人』の方が、下手な怪談よりも恐怖を感じたし、『沼』や『チーコ』をどう(理解 / 解釈)したら良いのか、途方に暮れた気がする。
世間一般では"難解"とか"前衛"とか"不条理"とか"シュール"とかいう評価を恣にしていた作品だけれども、それはむしろ、他のつげ義春作品に相応しい。

あへて言えば『ねじ式』は、懐かしい作品という印象だ。初めて読んだ筈なのに、何故か、懐かしい作品。それは、何故なんだろうと、ずうっと考えているのだけれども、出て来た答えは「マンガの原風景」という言葉でした。
当時、僕達が読み耽っていたのは、例えば山上たつひこの『がきデカ
それは、あえて言えば、コマとコマの断絶。時間の経過を表す(筈の)コマの推移と、そこに本来ならば流れている(筈の)時間と、それらを下支える(筈の)物語、少なくとも、このみっつの要素が整合性を欠き、その結果、笑いを産み出している様な...。
そして、もうひとつ書き加えておくとしたら、赤塚不二夫が新しいギャグを『天才バカボン
赤塚不二夫が切り捨てて行ったもの、つまりそれは、物語や登場人物の設定である。作品開始当初はあった筈の、パパやママやバカボンやハジメや目ン玉つながりやレレレのおじさんといった主要キャラの職業や性格やその他諸々を、どんどん切り捨てて行く。彼らは純粋に、パパやママやバカボンやハジメや目ン玉つながりやレレレのおじさんという存在以外のナニモノでもなくなってゆく。そしてその結果、新しいギャグや新しい表現が、連載当時の少年マガジンで産まれて行く訳だけれども、その切り捨てられて行った残滓が、どよぉんと『ねじ式』に、淀んでいる様な気がしてならない。
子供達の遊び場だった"土管の並ぶ空地"を、笑いの舞台として描く事をいつしか赤塚不二夫は辞めてしまったけれども、その忘れ去られた"土管の並ぶ空地"が荒涼とした遠景として、『ねじ式』の中に発見出来る様な気がしてならないのです。
江口寿史が『すすめ!!パイレーツ

ps : 今回、『ねじ式』を含め、ここで取り上げたつげ義春作品は、『ねじ式
次回は「き」。
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