2020.03.10.08.44
と、謂う物語の存在は中学3年生 (Junior High School Third Grade) の時に知った。国語の教科書 (Japanese Textbook) に掲載されていたのである。
しかしながら、それは島崎藤村 (Toson Shimazaki) の小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』 [1929~1935年発表] ではない。それを翻案した戯曲『夜明け前 (Before The Dawn)』 [脚色:村山知義 (Tomoyoshi Murayama) 演出:久保栄 (Sakae Kubo) 1935年 新協劇団 (Shinkyo Theater) 於:築地小劇場 (Tsukiji Mini Theater) 初演] なのである。しかも全文ではない。その1部が抜粋されているだけなのだ。
授業でその作品が取り挙げられる事はなかった。もし、取り挙げたとしても、どこまで授業として成立したのだろう。何故ならば、その抜粋された作品の1部は、教科書の最文末にちかいところに掲載されていたのだから。もしも、その教科書の最初の頁からその年度の授業が行われるとしたら、学年末になってしまう。きっと高校受験 (High School Entrance Examination) でそれどころではない。さもなければ、ぼくのクラスの殆どの生徒の進路が確定した後であって、高校受験 (High School Entrance Examination) とは違う理由でそれどころではない筈なのだった。
小学生 (Elementary School Student) のときからぼくは毎年度、新しい国語の教科書 (Japanese Textbook) が配布されると同時に、そこに掲載されている作品のあらかたは目を通していた。韻文作品は眺める程度だけれども、小説や評論の類は、とりあえず読破する。
だけれども、この戯曲に関しては躊躇してしまった記憶がある。
きっと、それは一緒に掲載されていた挿絵写真のせいなのだ。
顔面を白塗りにした、和装の男女が和室内で蠢いている。しかも、月代 (Sakayaki) に丸髷 (Marumage) だ。きっとその戯曲を上演している舞台を撮影したモノなのだ。
テレビでたまに中継される、お涙頂戴モノ (Tearjerker) の人情劇 (Human-interest Play) の様な気がして、それだけで辟易してしまったのである。
その1年後、無事に高校 (HIgh School) 入学を果たしたぼくに、今後あらたに使う事になる教科書が配布される。その中に、『国語便覧
(Japanese Language Handbook)』がある。そこには、著名な作家の生涯と主たる作品群が掲載されている。既に名称だけは知っている作家や作品がいくつもそこにある。これからの3年間、ここにある作品群に触れていけと謂う意味なのだろう。もしくは、一般常識として既有のモノにしろ、と謂う意味なのか。
勿論、島崎藤村 (Toson Shimazaki) はある。小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』があるのは無論の事だ。
しかし、ぼくには彼と彼の作品群はいささか敷居が高かった。何故ならば、そこに掲載されてある作品の殆どが大長編なのだ。逆に短くてすぐに読破出来てしまいそうな『若菜集
(Wakanashu : Collection Of Young Herbs)』 [1897年発表] は、詩集である。これはこれで、ちょっとやそっとでは手を出しにくいモノである。
それだけではない。作品の殆どが、作家自身の体験を基にした私小説 (I-novel) であり、作品そのモノへの興味よりも先に、作家本人への興味が湧き立たない限り、たかい敷居と謂うモノはそのままである。
小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』も、作家の父親をモデルとして云々と謂う紹介文を読む限り、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) を題材とした時代小説 (Japanese Historical Novels) ではあるのだろうが、私小説 (I-novel) と謂う文脈は護持されている様に思える。
そんな理由で、その小説家もその作品も敬遠していたのだが、数ヶ月前に、青空文庫 (Aozora Bunko) にある、他の作品と一緒に読んでしまった。数年前から、青空文庫 (Aozora Bunko) にある作品を作家名の五十音順に読んでいるのである。ようやく「し」の項 (The First Letter Of "Shi") に辿り着いたと謂う訳だ。
予想外に面白かった。
そして、その面白かった理由を補填してくれる様な紹介をいままでぼくは出逢えていなかったのである。
つまり、一般的に知られているその作品の評価とはすこし違った読み方をぼくはした様なのである。
少なくとも、有名な冒頭の1文「木曾路はすべて山の中である (The Entire Kisoji Is In The Mountains)」にみられる様な、情緒的な物謂いとは、全く関係ないところにある。そして、それに引きずられる様に、紹介される主人公、青山半蔵 (Hanzo Aoyama) [謂うまでもなくこの人物こそが島崎藤村 (Toson Shimazaki) の父親をモデルとした人物である] の生涯にも、殆ど関心はおよばなかった。
読んでいる最中にぼくが先ず思ったのは、次の様な事なのだ。
NHK大河ドラマ (NHK Taiga Drama) にそのまま翻案可能なのではないのかなぁ、と謂う事だ。
物語の主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の眼を通した、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) への動き、そしてその観点はぼくにとって、新鮮だったのだ。青山半蔵 (Hanzo Aoyama) 自身は、その動きにまったく加担出来ていない。でも、彼は [少なくとも彼の意識の基では] 一介の市井人ではない。本人としてはその意思がありながら、そこに自らの存在を主張する事はないのだ。むしろ、逆にそれに翻弄されてすらいる。そして、それだからこそ、動きに対して、敏感なのである。またある意味で事態の進展を、彼が学んだある学派の史観に基づきながらも、極めて客観的に分析している様にも思える。
その観点をそのままTVドラマに反映させると良い。そう思ったのである。
何故ならば、青山半蔵 (Hanzo Aoyama) と謂う人物は、国学 (Kokugaku) の1派、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想を学んだモノだからである。教科書的な観点からみれば、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想もそれに学んだ青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の主張も、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) へと謂う歴史の舞台には決して登場していない。敢えて謂えば、それは水戸派 (Mito School) のごく一部、急進派の主張と同種のモノであって、桜田門外の変 (Sakuradamon Incident) [1860年] や坂下門外の変 (Sakashitamon Incident) [ 1862年] を起こす動機や攘夷 (The Anti-foreign Movement) の主張の根幹に留まるだけのモノなのだ。薩摩藩 (Satsuma Domain) や長州藩 (Choshu Domain) の様に、攘夷 (The Anti-foreign Movement) から一転、開国 (Opening Of The country To The World) へと動く事はなかった。そしてその主張は佐幕派 (Supporters Of The Shogun) にも受け入れがたいモノであったのかもしれない。つまり、異端なのである。
そんな思想にひたりきった人物の思想や主張が、物語の進展に伴って縷々と語られているのである。
と、謂う様な視点でもって、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) の動きをみるのは、ぼくにとっては初めての体験であったのだ。それだけをもって、この小説は新鮮に思えたのである。
と、謂う様な観点は、例えば 松岡正剛 (Seigo Matsuoka) の千夜千冊 (Thousand Volumes For Thousand Nights) でのこの作品の論評でも示されている。
その記事を再読しながら、納得しつつもすこし残念な気がしているのである。
と、謂うのは、松岡正剛 (Seigo Matsuoka) は、そこから、小説を語る事から離れ、作者である島崎藤村 (Toson Shimazaki) の論評へと視点を転じているからなのだ。
その小説が、作者の父親を主人公に据えていると謂う観点から、作者と小説を語ろうと試みているのだ。
それは、作品紹介、作家紹介と謂う事に第一義を置けば、そうならざるを得ない事なのかもしれないが、ぼくが読みたいのはそこではない。
物語が展開するに従って、主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の本業、馬籠宿 (Magome-juku) での本陣 (Honjin) 兼庄屋 (Shoya) と謂う地位は次第に圧迫されていく。
それは政治体制 ( (Politics System) の転換によるモノである、と謂うのは簡単だ。だが、江戸幕府 (Edo Bakufu) が敷いた封建体制 (Feudalism) が解体されていくのにも関わらず、木曽路 (Kisoji) と謂う場所の、経済 (Economy) や生活 (Life) 自体が、圧迫されていくのである。決して解放されていくのではないのだ。
青山半蔵 (Hanzo Aoyama) が志しているのは常に、政治 (Politics) への投企、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想から学んだ自身の主張や信念の実現なのだが、それを妨げているのは、彼と異なる主張や信念ではないのだ、きっと、とぼくは思うのだ。青山半蔵 (Hanzo Aoyama) を常に苦しめているのは、経済 (Economy) 上の動き、しかもその動きを根底で支えるべき流通 (Distribution) に関する部分ではないだろうか、と謂う気がするのである。
ヒトとモノの動きが変わる事によって、世の中の仕組みに劇的な変転が起こる。
そして、ヒトがヒトを支配する仕組みに変化をもたらしたいのであるのならば、ヒトとモノの動き自体を変えていけば良い。
小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』に描かれている、馬籠宿 (Magome-juku) に顕れる変化は、その好例ではないのだろうか。
そして、その物語の主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) が哀れな末路を迎えざるを得ない原因もそこにあるのだ。
彼は文字通りに、上 [= 政治 (Politics)] だけみて足許 [= 流通 (Distribution)] を掬われてしまったのだ。
『資本論第1部
(Das Kapital : Kritik der politischen Oekonomie Band 1
)』 [カール・マルクス (Karl Marx) 1867年刊行] だけは、なんとか読み終えた大学生 (University Student) のぼくに、その書物を嚥下する事を妨げる語句がひとつあった。交通 (Traffic) と謂う言葉だ。経済 (Economy) の書物であり、時に応じて政治 (Politics) の書物となり得るその書籍のなかで、その語句は、とてもへんな謂い回しの様なかたちで、何度も何度も登場する。
そして、それがよく理解出来ていない。
単純に、その語句は流通 (Distribution) と読み替えれば良かったのかもしれないが、それにしても、得体のしれない語句である事には変わりない。
そして、小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』とは、その交通 (Traffic) が実は主題ではなかろうか、と思えてもいるのである。
島崎藤村 (Toson Shimazaki) が『資本論第1部
(Das Kapital : Kritik der politischen Oekonomie Band 1
)』 を読んだや否やは、解らない。
だけれども、その小説が描かれた時季は、その翻訳が流通 (Distribution) し始めた時季と妙に一致している様なのだ [高畠素之 (Motoyuki Takabatake) による、初の日本語版『資本論
(Das Kapital : Kritik der politischen Oekonomie)』の出版が1920年である]。
次回は「え」。

附記:上掲画像はフィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) による『イーゼルの前で暗色のフェルト帽を被る自画像、1886年 (Self Portrait 1886 With Dark Felt Hat At The Easel)』、題名にある様に1886年の作である。
フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) と謂う画家は、小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』の物語が語られ始めた1853年の誕生であり、その物語が語らえおわる1886年は、弟テオドルス・ファン・ゴッホ (Theodorus van Gogh) をよすがにして彼が、パリ (Paris) へと進出した時代である。そして、後になって彼の代表作と評価される作品の殆どは、画家の死 [1890年] の数年前に集中して描かれたモノなのである。つまり、小説『夜明け前
(Before The Dawn
)』が題材としているその時代は、画家にとっても夜明け前 (Before The Dawn) なのである。
しかしながら、それは島崎藤村 (Toson Shimazaki) の小説『夜明け前
授業でその作品が取り挙げられる事はなかった。もし、取り挙げたとしても、どこまで授業として成立したのだろう。何故ならば、その抜粋された作品の1部は、教科書の最文末にちかいところに掲載されていたのだから。もしも、その教科書の最初の頁からその年度の授業が行われるとしたら、学年末になってしまう。きっと高校受験 (High School Entrance Examination) でそれどころではない。さもなければ、ぼくのクラスの殆どの生徒の進路が確定した後であって、高校受験 (High School Entrance Examination) とは違う理由でそれどころではない筈なのだった。
小学生 (Elementary School Student) のときからぼくは毎年度、新しい国語の教科書 (Japanese Textbook) が配布されると同時に、そこに掲載されている作品のあらかたは目を通していた。韻文作品は眺める程度だけれども、小説や評論の類は、とりあえず読破する。
だけれども、この戯曲に関しては躊躇してしまった記憶がある。
きっと、それは一緒に掲載されていた挿絵写真のせいなのだ。
顔面を白塗りにした、和装の男女が和室内で蠢いている。しかも、月代 (Sakayaki) に丸髷 (Marumage) だ。きっとその戯曲を上演している舞台を撮影したモノなのだ。
テレビでたまに中継される、お涙頂戴モノ (Tearjerker) の人情劇 (Human-interest Play) の様な気がして、それだけで辟易してしまったのである。
その1年後、無事に高校 (HIgh School) 入学を果たしたぼくに、今後あらたに使う事になる教科書が配布される。その中に、『国語便覧
勿論、島崎藤村 (Toson Shimazaki) はある。小説『夜明け前
しかし、ぼくには彼と彼の作品群はいささか敷居が高かった。何故ならば、そこに掲載されてある作品の殆どが大長編なのだ。逆に短くてすぐに読破出来てしまいそうな『若菜集
それだけではない。作品の殆どが、作家自身の体験を基にした私小説 (I-novel) であり、作品そのモノへの興味よりも先に、作家本人への興味が湧き立たない限り、たかい敷居と謂うモノはそのままである。
小説『夜明け前
そんな理由で、その小説家もその作品も敬遠していたのだが、数ヶ月前に、青空文庫 (Aozora Bunko) にある、他の作品と一緒に読んでしまった。数年前から、青空文庫 (Aozora Bunko) にある作品を作家名の五十音順に読んでいるのである。ようやく「し」の項 (The First Letter Of "Shi") に辿り着いたと謂う訳だ。
予想外に面白かった。
そして、その面白かった理由を補填してくれる様な紹介をいままでぼくは出逢えていなかったのである。
つまり、一般的に知られているその作品の評価とはすこし違った読み方をぼくはした様なのである。
少なくとも、有名な冒頭の1文「木曾路はすべて山の中である (The Entire Kisoji Is In The Mountains)」にみられる様な、情緒的な物謂いとは、全く関係ないところにある。そして、それに引きずられる様に、紹介される主人公、青山半蔵 (Hanzo Aoyama) [謂うまでもなくこの人物こそが島崎藤村 (Toson Shimazaki) の父親をモデルとした人物である] の生涯にも、殆ど関心はおよばなかった。
読んでいる最中にぼくが先ず思ったのは、次の様な事なのだ。
NHK大河ドラマ (NHK Taiga Drama) にそのまま翻案可能なのではないのかなぁ、と謂う事だ。
物語の主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の眼を通した、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) への動き、そしてその観点はぼくにとって、新鮮だったのだ。青山半蔵 (Hanzo Aoyama) 自身は、その動きにまったく加担出来ていない。でも、彼は [少なくとも彼の意識の基では] 一介の市井人ではない。本人としてはその意思がありながら、そこに自らの存在を主張する事はないのだ。むしろ、逆にそれに翻弄されてすらいる。そして、それだからこそ、動きに対して、敏感なのである。またある意味で事態の進展を、彼が学んだある学派の史観に基づきながらも、極めて客観的に分析している様にも思える。
その観点をそのままTVドラマに反映させると良い。そう思ったのである。
何故ならば、青山半蔵 (Hanzo Aoyama) と謂う人物は、国学 (Kokugaku) の1派、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想を学んだモノだからである。教科書的な観点からみれば、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想もそれに学んだ青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の主張も、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) へと謂う歴史の舞台には決して登場していない。敢えて謂えば、それは水戸派 (Mito School) のごく一部、急進派の主張と同種のモノであって、桜田門外の変 (Sakuradamon Incident) [1860年] や坂下門外の変 (Sakashitamon Incident) [ 1862年] を起こす動機や攘夷 (The Anti-foreign Movement) の主張の根幹に留まるだけのモノなのだ。薩摩藩 (Satsuma Domain) や長州藩 (Choshu Domain) の様に、攘夷 (The Anti-foreign Movement) から一転、開国 (Opening Of The country To The World) へと動く事はなかった。そしてその主張は佐幕派 (Supporters Of The Shogun) にも受け入れがたいモノであったのかもしれない。つまり、異端なのである。
そんな思想にひたりきった人物の思想や主張が、物語の進展に伴って縷々と語られているのである。
と、謂う様な視点でもって、幕末 (Bakumatsu) から維新 (Meiji Restoration) の動きをみるのは、ぼくにとっては初めての体験であったのだ。それだけをもって、この小説は新鮮に思えたのである。
と、謂う様な観点は、例えば 松岡正剛 (Seigo Matsuoka) の千夜千冊 (Thousand Volumes For Thousand Nights) でのこの作品の論評でも示されている。
その記事を再読しながら、納得しつつもすこし残念な気がしているのである。
と、謂うのは、松岡正剛 (Seigo Matsuoka) は、そこから、小説を語る事から離れ、作者である島崎藤村 (Toson Shimazaki) の論評へと視点を転じているからなのだ。
その小説が、作者の父親を主人公に据えていると謂う観点から、作者と小説を語ろうと試みているのだ。
それは、作品紹介、作家紹介と謂う事に第一義を置けば、そうならざるを得ない事なのかもしれないが、ぼくが読みたいのはそこではない。
物語が展開するに従って、主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) の本業、馬籠宿 (Magome-juku) での本陣 (Honjin) 兼庄屋 (Shoya) と謂う地位は次第に圧迫されていく。
それは政治体制 ( (Politics System) の転換によるモノである、と謂うのは簡単だ。だが、江戸幕府 (Edo Bakufu) が敷いた封建体制 (Feudalism) が解体されていくのにも関わらず、木曽路 (Kisoji) と謂う場所の、経済 (Economy) や生活 (Life) 自体が、圧迫されていくのである。決して解放されていくのではないのだ。
青山半蔵 (Hanzo Aoyama) が志しているのは常に、政治 (Politics) への投企、平田篤胤 (Hirata Atsutane) の思想から学んだ自身の主張や信念の実現なのだが、それを妨げているのは、彼と異なる主張や信念ではないのだ、きっと、とぼくは思うのだ。青山半蔵 (Hanzo Aoyama) を常に苦しめているのは、経済 (Economy) 上の動き、しかもその動きを根底で支えるべき流通 (Distribution) に関する部分ではないだろうか、と謂う気がするのである。
ヒトとモノの動きが変わる事によって、世の中の仕組みに劇的な変転が起こる。
そして、ヒトがヒトを支配する仕組みに変化をもたらしたいのであるのならば、ヒトとモノの動き自体を変えていけば良い。
小説『夜明け前
そして、その物語の主人公である青山半蔵 (Hanzo Aoyama) が哀れな末路を迎えざるを得ない原因もそこにあるのだ。
彼は文字通りに、上 [= 政治 (Politics)] だけみて足許 [= 流通 (Distribution)] を掬われてしまったのだ。
『資本論第1部
そして、それがよく理解出来ていない。
単純に、その語句は流通 (Distribution) と読み替えれば良かったのかもしれないが、それにしても、得体のしれない語句である事には変わりない。
そして、小説『夜明け前
島崎藤村 (Toson Shimazaki) が『資本論第1部
だけれども、その小説が描かれた時季は、その翻訳が流通 (Distribution) し始めた時季と妙に一致している様なのだ [高畠素之 (Motoyuki Takabatake) による、初の日本語版『資本論
次回は「え」。

附記:上掲画像はフィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) による『イーゼルの前で暗色のフェルト帽を被る自画像、1886年 (Self Portrait 1886 With Dark Felt Hat At The Easel)』、題名にある様に1886年の作である。
フィンセント・ファン・ゴッホ (Vincent van Gogh) と謂う画家は、小説『夜明け前
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