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2020.02.11.08.43

つきみ

ぼくにそれを教えてくれたのは、オオカミ男 (Wolfman) である。アニメ番組『怪物くん (The Monster Kid)』 [原作:藤子不二雄 (A) (FUJIKO Fujio (A) 19681969TBS系列放映] の登場人物のひとりだ。

通常、狼男 (Werewolf) は満月 (Full Moon) の晩に人間態 (Human) からその本性を曝け出して、 (Wolf) の身体へと変身する。ところが、このアニメ番組の彼は、満月 (Full Moon) を思わせる形状のモノをみるや否や、人間 (Human) から (Wolf) へとすがたをかえてしまう。
そして、ある日、彼の眼前に、月見饂飩 (Tsukimi Udon) がだされる。そう、その丼のなかに饂飩 (Udon) と共に浮かんでいる生玉子 (Raw Egg) をみて彼は、 (Wolf) へと変身してしまうのだ。
[満月 (Full Moon) 以外のモノをみて、彼同様に (Wolf) に変身してしまう狼男 (Werewolf) に、立花チッペイ (Chippei Tachibana) がいる。マンガ『バンパイヤ (Vampire)』 [作:手塚治虫 (Tezuka Osamu) 19661969週刊少年サンデー連載] に登場するバンパイヤ一族 ( Vampire) のひとり、狼男 (Werewolf) の末裔である。ぼくの記憶に誤りがなければ、彼が月見饂飩 (Tsukimi Udon) によって変身してしまうシーンはなかったと思う。]

ぼく自身の実際の食事の場ではなく、創作物のなかの、その描写によってぼくは月見饂飩 (Tsukimi Udon) なる調理を知ったのである。

眉唾 (Dubious Tale) に思えるかもしれない。
実際には、その番組をみる以前から、月見饂飩 (Tsukimi Udon) を喰していた可能性がない訳ではない。何故ならば、幼少時のぼくは病弱で、季節が変わる毎に体調を崩し、発熱して寝こんでいたのだから。その時の、弱った胃腸と衰えた食欲にむけて、母親は饂飩 (Udon) をつくってぼくに喰べさせていたものだ。その丼のなかに生玉子 (Raw Egg) がはいっていないとはいえないのだ。

だけれども、その調理を称して月見饂飩 (Tsukimi Udon) と呼ぶのだ、とは誰も教えてくれなかった。ただ、それだけの事である。

当時、ぼく達が棲んでいた近所の蕎麦屋 (Soba Restaurant) へはよく出掛けたものだ。両親と、と謂うより、同居していた祖母や、同じ敷地に棲んでいた伯母に連れられていく。昼食の場合もあれば、おやつ代わりの時もある。そして、その店内には壁一面に、木製の札にくろぐろと墨で綴った品目が並んでいる。それらの中には蕎麦屋 (Soba Restaurant) の範疇を越えた調理も幾つかある。だから、蕎麦屋 (Soba Restaurant) というよりも大衆食堂 (Beanery) とでも呼んだ方が良いのかもしれない。
勿論、月見饂飩 (Tsukimi Udon) もあっただろう。だけど、当時のぼくは保育園 (Preschool) にも通う前の年齢だ。"月見 (Tsukimi)"と謂う語句が顕している意味も、それが示している調理も、皆目見当がつかないのである。
判読出来るのはせいぜいが、 "きつね (Kitsume : Fox) "や"たぬき (Tanuki : Raccoon)"に"もり (Mori ; Forest)"、まるでそこが野生動物が棲み暮らす楽園の様なモノに思わせられてしまう [ぢゃあ、かけ (Kake : Plain) はなんなのだろう?]。
そんなところへと、祖母ないし伯母に連れられて、ぼくは拉麺 (Ramen) やカレーライス (Curry And Rice)、時には奮発してカツ丼 (Rice Bowl Topped With Pork Cutlet And Egg) [否、奮発するのは彼女達であって、ぼくが支払う事はない] を喰していたのである。

ところで、この"月見 (Tsukimi)"なる調理は、いささか怪しげな佇まいの中にある。
勿論、それは先のオオカミ男 (Wolfman) が自身の意図に反して、自身の正体を暴露してしまうから、ではない。
なにをもって"月見 (Tsukimi)"と呼ぶのか、その範囲が曖昧にして糢糊としているのである。

蕎麦 (Soba) や饂飩 (Udon) は、あるだろう。それに準じて拉麺 (Ramen) があっても不思議ではない。では、さらに乗じて、冷やし中華 (Chilled Chinese Noodles) やカルボナーラ (Carbonara)、それにカレーライス (Curry And Rice) はどうか [カレーライス (Curry And Rice) に生玉子 (Raw Egg) を投じて喰すのは、父が教えてくれた]。いずれも玉子 (Egg) が、既に加工の過程が終了した調理に投入される場合がある。
さらに謂えば、笊蕎麦 (Zaru Soba) はどうなのか。ある夏の暑い時季、父の実家である関西に家族全員で赴いた時、笊蕎麦 (Zaru Soba) の麺汁 (Noodle Soup) に、 (Japanese Quail) の生玉子 (Raw Egg) を投じて喰す事があった。そんな調理方法を体験したぼくは、時折、蕎麦屋 (Soba Restaurant) の出前で頼んだ盛り蕎麦 (Mori Soba) の麺汁 (Noodle Soup) の中に、母親に強請って生玉子 (Raw Egg) を落としてもらった時が一時期あった。
つまり、玉子 (Egg) を投入すべき調理、もしくは玉子 (Egg) が投入可能な調理の一切合切は、"月見 (Tsukimi)"と謂う形容が可能なのだろうか。そんな疑問である。

それだけではない。
投入する玉子 (Egg) は、生玉子 (Raw Egg) でなければならないのか、温泉玉子 (Soft Boiled Egg) と尊称される半熟玉子 (Soft Boiled Egg) や、固茹で玉子 (Hard Boiled Egg) をそれらの調理に投入した場合は、"月見 (Tsukimi)"と命名しても良いのだろうか。
但し、固茹で卵 (Hard Boiled Egg) の場合、それを"月見 (Tsukimi)"と命名可能であるのならば、その形状から満月 (Full Moon) を想起させる必要性を鑑みれば、縦割り乃至横割りにする、つまり、卵黄部 (Egg Yolk) がみえるかたちにする必要があるのではないか、とは考えている。

そうして、そんな形状や定義の問題を解決した後に、待ち構えているのが、その正しい喰べ方 (How To Eat In A Correct Way) なのである。
玉子 (Egg) を溶く、もしくは、玉子 (Egg) を崩した方が良いのか、それとも、 (Snake) の様な振りをして、さもなければ映画『ロッキー (Rocky)』 [ジョン・G・アヴィルドセン (John G. Avildsen) 監督作品 1976年制作] でのロッキー・バルボア (Rocky Balboa) を気取って、ひと思いに一気に呑み込んでしまうべきなのか。そして、勿論、前者の場合であるのならば、いつその行程を経るべきなのか。眼前に据えられた直後が良いのか、それとも、ある一定期間は、据えられた直後の形状を維持すべきなのだろうか。

悩ましい問題なのである。
と、こう綴ると疑問に思う方々が出てくるかもしれない。どこがどう違うの? それによって得るモノ、喪うモノがあるの? と。

一言をもってそんな疑問に解答を下すのならば、出汁 (Soup Stock) の味覚や風味に変更がもたらされるでしょう? と謂う事である。

その解りやすい例として挙げるべきは、先に述べた月見笊蕎麦 (Tsukimi (Zaru Soba) ) である [勿論、前述の通り、それを"月見 (Tsukimi)"と命名して良いのや否やと謂う前提問題があるが、ここではそれを一旦、忘却してみよう]。
考えるべきは、蕎麦 (Soba) を完食した後の事だ。遺った麺汁 (Noodle Soup) で、蕎麦湯 (Soba Cooking Water) を愉しむとしたら、"月見 (Tsukimi)"の場合、それに玉子 (Egg) の味覚が添加されている事になる。それで良いのだろうか。それは恐らく、野趣に富んだモノだろうが、麺汁 (Noodle Soup) 本来の味覚と風味が損なわれているのである。

伊丹十三 (Juzo Itami) には「目玉焼の正しい食べ方 (How To Eat Sunny Side Up In A Correct Way)」と謂う持論がある。彼の著書『女たちよ! (To Women)』 [1968年刊行] にあるそうだが、ぼくはそれは未読である。
ぼくにその持論を教えてくれたのは南伸坊 (Shinbo Minami) である。彼の著書『モンガイカンの美術館 / Mongaikan's Museum : Museum For The Outsiders』 [1983年刊行] に、以下の様な記述がある。また、序でに綴っておけば、彼は『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』の連載企画『黄昏 あちこち編 (In The Twilight Here And There Version)』のこちらでもその持論を紹介している。

「目玉焼は正しくはどう食べるんでしょうか?」
とテレビで質問されて、伊丹十三氏は、ソレを実演したことがある。
「まず、全体をグチャグチャにしてしまう人があるが、ま、これはすこし様子が悪い、フツーはこうしてまわりからすこしずつ食べていって、最後にこの『黄身の部』をいく、という手もありますが、これではなにか、黄身にこだわっているようでなんとなくバツがわるい。そうかといって、イキナリ黄身だけを食べてしまうのもどうかと思う」
で、結局? と司会が聞いた時は、もう目玉焼は黄身だけになっているのである。どうするのか? と、見ていると、伊丹はそれを平気な顔でパクリと食べてしまって、
「結局、こんな風に目玉焼の食べ方を話題にしたりしていて、スキをねらって食べてしまうのです」
というのだった。

そして、ぼくが妄想するに、伊丹十三 (Juzo Itami) がこんな持論を披露したが為に、彼が出演する映画『家族ゲーム (The Family Game)』 [森田芳光 (Yoshimitsu Morita) 1983年制作] に於いて、その持論とは最も遠い場所にある、目玉焼き (Sunny Side Up) の喰し方を披露する破目になったのではないだろうか。
彼が演じる沼田孝助 (Kosuke Numata) と謂う男性は、自宅の朝食時にはいつも、目玉焼き (Sunny Side Up) のその目玉 (Egg Yolk) をちゅうちゅう吸うのである。

だから、本来ならば、彼もしくは彼を気取る人物が、"月見の正しい喰べ方 (How To Eat "Tsukimi" In A Correct Way)"を開陳してくれていても良さそうなのに、寡聞にして知らない。

ところで、ぼくは週に1度くらいの割合で、袋麺 (Instant Noodles) を調理する時がある。そして、殆どの場合、出来上がった拉麺鍋 (Ramen Hot Pot) にはいったそれに生玉子 (Raw Egg) を2個投ずる。それは、単純に、その食材の賞味期限 (Best-Before Date) が関わっているのだが、それに関してはここではくだくだ述べない。
ぼくが綴るべきは、たったの1語である。
「これは"月見 (Tsukimi)"じゃないよね」

何故ならば、地球 (Terra) の衛星 ( Satellite) はたったのひとつなのだから。
火星 (Mars) に赴いてその地上から、フォボス (Phobos) とダイモス (Deimos) を仰ぎ見ない限り、ぼく達にはふたつの月 (Two Satellite) を望む事は不可能なのだ。

images
the movie poster for the movie "John Carter" 2012 directed by Andrew Stanton

次回は「」。


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