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2020.01.28.08.41

りりょう

単元としての小説『山月記 (Sangetsuki : Tiger-Poet)』 [作:中島敦 (Atsushi Nakajima) 1942年発表] の授業が終了したぼく達に、新たな課題が課せられる。その小説の作者のもうひとつの小説『李陵 (Li Ling)』 [作:中島敦 (Atsushi Nakajima) 1943年発表] を読んで、感想文を提出しろと謂う [この挿話はこちらでも紹介した]。

国語教師はこう説明する。
「来年度から漢文 (Classical Chinese) の授業が加わる。その準備としてきみ達にはすこしでも早く、漢文調 (Taste Of Classical Chinese) の文章に慣れてもらいたいのだ」
そんな趣旨の説明をしながら、生徒全員に1枚の紙を配布する。課題図書であるその小説の掲載されている文庫の注文書だ。その用紙には『李陵・弟子・山月記 他二編 旺文社文庫』とある。
「強制ではない。既に自宅にあるモノもいるだろう。先輩から譲ってもらうというてもある。自分で本屋にいって買っても構わない。どこにでもある文庫だ。それが面倒だと思うモノだけが注文すればいい」

用紙をもらったぼくが、そこに記名しようとすると、横から物謂 (You Are Wrong!) が飛んでくる。
「なんだ買うのか」
Mである。
「だって面倒じゃん」
ぼくの言葉尻を鼻で笑ってMはこう謂う。
「こういう本は、新潮文庫 (Shincho Bunko) で読むモノだ。なんだい、旺文社文庫 (Obunsha Bunko) って」

本来ならば、今度はぼくが彼の言葉尻を捕まえて、せせら嗤うべき番だ。
岩波文庫 (Iwanami Bunko) ならいざ知らず、新潮文庫 (Shincho Bunko) かよ。どうせ栞紐 (Tassel) が目当てなのだろう?」とでも。
栞紐 (Tassel) の存在はありがたいが、それがなくても、大概は、購入時に書店がサービスで自店製の栞 (Bookmark) をくれる。また、そうでなくても、ぼくの机の抽斗には、そんな栞 (Bookmark) が山を成しているのである。
そんな切り返しはいまのぼくならば簡単に出来る事なのだが、当時はそこまで頭がまわらない。
だから、このちっぽけな挿話はここで尻切れ蜻蛉 (Leaving Unfinished) となる。

さて、その小説の課題である感想文をどうやってやりすごしたのか、当然に憶えてはいない。
だけど、大したモノではないのは重々承知だ。
何故ならば、その作品を読んでも、そこで語られている物語にのめり込む事もなく、ただ字面だけを追って終わってしまうのだから。文章を紡ぎ出す為に、読み直しても、物語のなかへとは深く入っていけないのであった。
しかも、敢えて謂えば、表題に掲げられている主人公、李陵 (Li Ling) の境涯よりも、彼を擁護して極刑を賜る司馬遷 (Sima Qian) の方に、関心がおおきく動いてしまう。彼の刑罰の過酷さと、その結果として沸き起こる、彼の執念の方が、凄まじく思えたからだ。
だから、その感想文でも、そんな様な事を綴ったのだろうか。これは李陵 (Li Ling) の物語ではなくて、司馬遷 (Sima Qian) の物語である、と謂う様な。

と、謂う訳で、数十年ぶりに再読した。
その際に思った事、それをここに綴ってみたいと思う。

物語には3人の男性が登場する。
李陵 (Li Ling)、蘇武 (Su Wu)、そして司馬遷 (Sima Qian) だ。
この3人に加えて、武帝 (Emperor Wu Of Han) と且鞮侯単于 (Qiedihou) を加えて、5人の物語としても良い。
しかし、後の2人は、あくまでも舞台装置としての存在である様に思える。
物語を起動するのは武帝 (Emperor Wu Of Han) であり、彼の命、その一言でもって、先の3人が翻弄される [この小説に於ける武帝 (Emperor Wu Of Han) の解釈に関し、松岡正剛 (Seigo Matsuoka) はここで面白い説を弄んでいる]。そして、その向こうで待ち構えているのが、且鞮侯単于 (Qiedihou) なのである。
勿論、司馬遷 (Sima Qian) は、武帝 (Emperor Wu Of Han) を諫めた結果、その言葉をもって宮刑 (Castration) を課せられるのであって、他の2人の様に出兵する訳ではない。だから、司馬遷 (Sima Qian) の物語には且鞮侯単于 (Qiedihou) は一切、関わらない。その代わりに彼は『史記 (Records Of The Grand Historian)』 [紀元前91年頃成立] 執筆と謂う事業が待っている。
司馬遷 (Sima Qian) にとっては、且鞮侯単于 (Qiedihou) の代わりとなる存在が自ら書き進める『史記 (Records Of The Grand Historian)』であるのだ。逆に謂えば、他の2人にとっては司馬遷 (Sima Qian) にとっての『史記 (Records Of The Grand Historian)』の代わりとして、且鞮侯単于 (Qiedihou) と謂う存在が待っている。そう謂えるのである。そして、且鞮侯単于 (Qiedihou) とどういうまじわりをするのか、それ如何によって、李陵 (Li Ling) と蘇武 (Su Wu)、このふたりの命運が別れていくのである。

さて、ここでこの小説の作者、中島敦 (Atsushi Nakajima) に登場してもらおう。
中島敦 (Atsushi Nakajima) は、この物語のどこにいるのだろうか。
彼の経歴を眺めてみれば、単純に、彼の生涯は、李陵 (Li Ling) にも蘇武 (Su Wu) にも伍して語る事が出来る。
だが、その一方で、『史記 (Records Of The Grand Historian)』を綴っている際の司馬遷 (Sima Qian) の独白、「述べる (Description)」と「作る (Creation)」との間での逡巡は、その小説の作者自身の逡巡をそのまま、独白している様にみえる。

それではやはり、この小説は司馬遷 (Sima Qian) の物語なのだろうか。
[その小説の表題は遺稿を出版する際に命名されたモノで、作者自らの命名ではないと謂う。]

ところで、拙稿の文頭で、この小説が課題図書とされた理由を綴った。
それを額面通りに理解して良いのかなぁ、と謂う疑問がぼくの中にある。
何故ならば、漢文 (Classical Chinese) に馴致する為に、その世界を描いたとは謂え、近代日本文学の作品を読んで、果たしてどこまで効果があるのだろうか。この発想はまるで、英語 (English) に親しむ為に、ローマ字 (Romanization Of Japanese) を勉強しようと謂う、その発想とあまり変わらない様に思える。そして、英語 (English) 学習とローマ字 (Romanization Of Japanese) 学習にどの程度、近似値があるのか、誰にも解るだろう。後者は外見こそ英語 (English) と同じアルファベット (Alphabet) 26文字を使用しているが、その中身は日本語 (Japanese) 以外の何者でもない。
それに第一、小説『李陵 (Li Ling)』を読めば解る様に、そこに登場する3人の男性は皆、 (Han Dynasty) の時代の中国人 (Chinese) であるよりも、現代の日本人 (Japanese In Modern Times) である様に思える。どんなに少なくとも、内面に関してはそうだ。
漢文 (Classical Chinese) もしくは漢文調 (taste Of Classical Chinese)に慣れ親しむ事が目的ならば、そこから発生した熟語の逸話集でも読んだ方がずっと良いと思うのだ。

だけれども、再読したこの小説の冒頭で、気づいた事がひとつだけある。
功を焦り、貧弱な装備と勢力でもって出兵する李陵 (Li Ling) [のその心情] と、それを充分承知の上で、成功以外の成果を求めぬ武帝 (Emperor Wu Of Han) と、俘虜となる事を肯んずる事の出来ない蘇武 (Su Wu) [のその心情] は、どこかでみた事のある光景なのである。
小説が執筆され、そして作者の死後、遺稿として発表されたその時代にあった戦争での、日本軍の戦い方やそこに向けられた気概そのまま、なのである。
敢えて謂えば、その戦争では、何百・何千と謂う、死地に赴く李陵 (Li Ling) や恭順を拒む蘇武 (Su Wu) はいても、捕囚となった李陵 (Li Ling) はおろか、彼を好意的に解釈するひとりの司馬遷 (Sima Qian) もいないのだ。

もしかしたら、その辺りを踏まえての読後感想文なのかなぁ、と思ったりもする。

images
今では絶版となった旺文社文庫 (Obunsha Bunko)『李陵・弟子・山月記 他二編 (Li Ling, The Apprentice, Sangetsuki : Tiger-Poet And Other Two Novels)』[上掲画像はこちらから]。
新潮文庫 (Shincho Bunko) 『李陵・山月記 (Li Ling And Sangetsuki : Tiger-Poet)』や岩波文庫 (Iwanami Bunko) 『山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫) (Li Ling, Sangetsuki : Tiger-Poet And Other Nine Novels)』は、現在でも流通している。
さて、M君、その点だけから鑑みると、どちらを買っておくべきだったかな? 少なくとも、ぼくの押入れの片隅に、あの時に買わされた文庫は、確かにあるのだ。

次回は「」。

附記:
主要登場人物3人のうち、蘇武 (Su Wu) は最初から最期まで、微動だにしない。彼の行動とそれに伴って顕れる彼の内心は、不動なのだ。だから、単純に彼の活き方は徹底して、ある意味で美化されやすい。
司馬遷 (Sima Qian) は、宮刑 (Castration) 執行直後は酷く動揺するが、ある地点ある時季に定まって、そこからは『史記 (Records Of The Grand Historian)』執筆に邁進する。『史記 (Records Of The Grand Historian)』と謂う未だかつてない書物の、その産みの苦しみこそあれ、それ以外に関しては、一切を忘れてしまったかの様にみえる。
その一方で、常に揺らいでいるのが李陵 (Li Ling) である。その行動こそ1本の筋が通ったモノでこそあれ、その前での葛藤、その後での内省にはいとまはない。
そう謂う意味では、この3人の中でも、最も主人公に相応しい人物とも謂える。
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