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2019.12.24.08.51

のーとるだむどぱり

と、件名として掲げたが、ここで綴るのは、マンガ『あしたのジョー (Ashita No Joe)』 [原作:高森朝雄 (Ikki Kajiwara) 作画:ちばてつや (Chiba Tetsuya) 19681973週刊少年マガジン連載] の1挿話として登場するモノだ。

その物語は、そのマンガに於いて東光特等少年院 (Toko Special Juvenile Institute) で演じられる。そこに収容されている矢吹丈 (Joe Yabuki) に逢う為に、白木葉子 (Yoko Shiraki) のツテを頼りに、矢吹丈 (Joe Yabuki) を慕う子供達と丹下段平 (Danpei Tange) が、慰問公演を開催するのだ。そこで演じられる演目が小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』 [作:ヴィクトル・ユーゴー (Victor Hugo) 1831年刊行] の翻案である寸劇なのである。

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物語の主人公である、醜いカジモド (Quasimodo) には丹下段平 (Danpei Tange) が扮し、ヒロインの美少女エスメラルダ (Esmeralda ) には白木葉子 (Yoko Shiraki) が扮する [上掲画像はこちらから]。
そして、それを観劇する在院者の誰もが、エスメラルダ (Esmeralda ) こと白木葉子 (Yoko Shiraki) の美貌に魅了される。ここで出逢った、そして矢吹丈 (Joe Yabuki) にとっては [文字通りに] 終生のライバルとなる力石徹 (Toru Rikiishi) さえもが、その物語を離れたところで、彼女に見惚れているのである。しかし、周囲のそんな有様を知った上で、矢吹丈 (Joe Yabuki) ひとりが、彼女の演技と存在に異を唱えるのだ。

拙稿で考えるべきは、何故、上に綴った物語の展開の中で、小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』が演じられなければならないのか、と謂う事である。

仮に、白木葉子 (Yoko Shiraki) と丹下段平 (Danpei Tange) が寸劇を行わなければならないとしたら、彼等2人の容姿は、まさにその小説の物語を演じるのに相応しい。しかし、だからといって、その物語だけが唯一の選択肢である訳ではないだろう。
2人の容姿だけに着目すれば、小説『美女と野獣 (La Belle et la Bete)』 [作:ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン (Jeanne-Marie Leprince de Beaumont) 1756年刊行] でも小説『オペラ座の怪人 (Le Fantome de l'Opera)』 [作:ガストン・ルルー (Gaston Leroux) 1909年刊行] でも良い訳だ。
尤も、後者は歌唱が主題でもあるのだから、演じる2人には相応の歌唱力が要求されるやもしれない。日本有数の財閥の令嬢である白木葉子 (Yoko Shiraki) ならば正統的な声楽を学習していたかもしれないが、一方の丹下段平 (Danpei Tange) はどうなのか。

と、ふたりの容姿だけをあげつらっているばかりでは一向に埒があかない。
視点を変えてみよう。

演じられる場所は、東光特等少年院 (Toko Special Juvenile Institute) であり、観客はそこに収容されている在院者達である。と、なると、彼等に対する教育的見地が要請される。そこで、小説『美女と野獣 (La Belle et la Bete)』 の翻案や小説『オペラ座の怪人 (Le Fantome de l'Opera)』の翻案が、相応しいや否やの即断は出来ないものの、少なくとも典型的なピカレスク・ロマン (Roman picaresque) は排除されねばならないだろう。物語のなかに於いての要請として、その場のそこにいる観客に相応しい演目でなければならない。さもなければ、その場面で展開される挿話に説得力を持たせる事が出来ないのだ。

そこで、この物語に於けるカジモド (Quasimodo) と謂う存在に着目しよう。外見は確かに醜い、しかし、その醜さを止揚するかの様に、その内面は無垢できよらかなのである。そして、観客である在院者達も犯した罪を負うているその事実は否定出来ないが、だが、その内面は同じく汚れたモノなのであろうか。否、決してそうではない。つまり、君達在院者もひとりのカジモド (Quasimodo) なのである。
そんな主張を、この公演に付帯させる事が出来ないだろうか。少なくとも、現実の世界に於いて、小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』を題材に慰問公演を開催しようとしたら、企画書の一端にそんな主張をぼくならば綴るだろう。

そして、実際に、観劇した在院者達の殆どが、カジモド (Quasimodo) がエスメラルダ (Esmeralda ) に恋する様に、白木葉子 (Yoko Shiraki) の美貌を崇める。
しかし、実際に、彼等の誰もがカジモド (Quasimodo) になるとは限らない。あくまでも彼等が垂涎するのは外観だけなのだから。その物語の他の登場人物つまりカジモド (Quasimodo) の恋敵となる、例えばクロード・フロロ (Claude Frollo) やフェビュス・ド・シャトーペール (Phoebus de Chateaupers) やピエール・グランゴワール (Pierre Gringoire) に変容しないとは限らない。出所後、彼女の祖父が運営する白木ジム (Shiraki Boxing Gym) に所属する事になる力石徹 (Toru Rikiishi) でさえ、その可能性は否定出来ない。

それを認めて矢吹丈 (Joe Yabuki) は喝破するのである。しかしながら、彼の怒りは何故か喝破すべき在院者達には向かわず、白木葉子 (Yoko Shiraki) ただひとりに向かう。
その物語でのエスメラルダ (Esmeralda ) は、物語の登場人物の誰にも愛され慕われている [そしてそれ故に彼女には死ななければならない]、矢吹丈 (Joe Yabuki) の眼前に映るのは、そんなエスメラルダ (Esmeralda ) に匹敵する様な状況であるのにも関わらずに、である。

その結果がどの様なモノをもたらすのかは、そのマンガを読めば充分に理解出来る事だろう。
矢吹丈 (Joe Yabuki) の怒りを力石徹 (Toru Rikiishi) は白木葉子 (Yoko Shiraki) [と、それに好意を寄せる自身] への侮蔑と看做し、2人のあいだに遺恨が生じる。その結果、東光特等少年院 (Toko Special Juvenile Institute) を舞台として、ボクシング (Boxing) での2人の決戦へと誘う。と、同時に、東光特等少年院 (Toko Special Juvenile Institute) では文字通りに蚊帳の外 (The Odd One Out) にいるしかなかった丹下段平 (Danpei Tange) がボクシング・トレーナー (Boxing Coach) としてそこへの出入りを可能なモノとなり、矢吹丈 (Joe Yabuki) との師弟関係がそこから具体的に構築され始めていく。
つまり、マンガ『あしたのジョー (Ashita No Joe)』と謂う物語に於ける、矢吹丈 (Joe Yabuki) にとってのライバルと、それに打ち勝つための師を、用意する場として、その寸劇が機能しているのである。

と、なると、遺る問題は、白木葉子 (Yoko Shiraki) とはなんなのか、と謂う事だ。
その場では矢吹丈 (Joe Yabuki) は、白木葉子 (Yoko Shiraki) のエスメラルダ (Esmeralda ) を完全否定したが、その内心は果たしてどうなのだろうか。
矢吹丈 (Joe Yabuki) が、ひとりのカジモド (Quasimodo) となる可能性は皆無なのだろうか。さもなければ、自身の内にあるエスメラルダ (Esmeralda ) を求めてはいないだろうか。

少なくとも、その寸劇公演の場には、矢吹丈 (Joe Yabuki)、力石徹 (Toru Rikiishi)、丹下段平 (Danpei Tange)、そして白木葉子 (Yoko Shiraki) と謂う、このマンガ作品を最期まで牽引していく4人がいるのである。

マンガ『『あしたのジョー (Ashita No Joe)』には、小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』が落とした影は決してちいさくないと思えるのだが。

次回は「」。

附記 1. :
仮に、マンガ『あしたのジョー (Ashita No Joe)』を小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』の翻案と捉える事ができるのであるのならば、同じ原作家による、マンガ『愛と誠 (Ai To Makoto)』 [原作:梶原一騎 (Ikki Kajiwara) 作画:ながやす巧 (Takumi Nagayasu) 19731976週刊少年マガジン連載] も、その小説の翻案と看做す事も出来るのかもしれない。
それは「君のためなら死ねる! (For You, I Should Die!)」と謂う名 [迷] 言を遺す岩清水弘 (Hiroshi Iwashimizu) の存在を指して謂うのではない。主人公の2人、早乙女愛 (Ai Saotome) と太賀誠 (Makoto Taiga) の関係をみて、そう思うのだ。だが問題はこの2人、どちらがカジモド (Quasimodo) 役でどちらがエズメラルダ (Esmeralda ) 役なのであろう。その容姿からいえば、太賀誠 (Makoto Taiga) はカジモド (Quasimodo) が適任であり、早乙女愛 (Ai Saotome) がエスメラルダ (Esmeralda ) が適任と思えるが、物語を追うと、早乙女愛 (Ai Saotome) こそがカジモド (Quasimodo) であり、太賀誠 (Makoto Taiga) こそがエスメラルダ (Esmeralda ) の様にも思えるのだ。

附記 2. :
小説『ノートルダム・ド・パリ (Notre-Dame de Paris)』の題名にあるのは、その物語の舞台となった寺院、ノートルダム大聖堂 (Cathedrale Notre-Dame de Paris) であり、醜いカジモド (Quasimodo) も美しいエスメラルダ (Esmeralda ) も題名には一切、預かってはいない。その小説のかつての邦題に、カジモド (Quasimodo) の存在が謳われているだけである。
それを前提にして、マンガ『あしたのジョー (Ashita No Joe)』に於けるノートルダム大聖堂 (Cathedrale Notre-Dame de Paris) とはなにかとつらつら考えると、やっぱりボクシング (Boxing) になるのかなぁ、と思う。まかり間違っても、その寸劇が演じられた場所、東光特等少年院 (Toko Special Juvenile Institute) ではない。
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