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2019.12.10.08.42

たーみねーたーつー

映画の続編としては、もしかしたら完璧にちかい方法論を呈示したのではないだろうか?

前作『ターミネーター (The Terminator)』 [ジェームズ・キャメロン (James Cameron) 監督作品 1984年制作] に於いて、暗殺者すなわち悪役として登場したターミネーター T-800 (T-800 : Cyberdyne Systems Model 101 Series 800 Version 2.4) は、次作『ターミネーター 2 (Terminator 2 : Judgment Day)』 [ジェームズ・キャメロン (James Cameron) 監督作品 1991年制作] に於いて、暗殺を阻むモノすなわち正義の味方として、登場する。

何故、その様な設定が必要とされたのかは、この2つの作品の間にある7年間と謂う、作品世界のそとで起きた要請からだろうが、拙稿ではそこには言及しない。あくまでも、語り紡がれていく物語のなかでの事にだけ、着目する事にする。

頑強な肉体美を誇る人造人間が、悪から善へと転換する事によって、それ以外の主要登場人物の位相も自ずと変化する。
前作に於いて、屈強な身体をもつ暗殺者の前にたちはだかったのは、痩身、否、その人造人間とみくらべると貧相な身体としか思えない男性、カイル・リース (Kyle Reese) [演:マイケル・ビーン (Michael Biehn)] である。彼はその作品内に於いて絶命するから、次作には登場しない。その代りに、彼と同様の外観をもつT-1000 (T-1000) [演:ロバート・パトリック (Robert Patrick)] があらたな刺客として登場する。その行く手を阻むのが、T-800 (T-800) なのである。身体的特徴だけの視点からこのふたり [ではない2体] を眺めれば、攻守が逆転した様な印象を抱く事も可能である。

そして、前作に於ける暗殺者の標的、すなわち護られる側であったサラ・コナー (Sarah Connor) [演:リンダ・ハミルトン (Linda Hamilton)] は、ここでは護る側となって登場する [彼女自身の位相に関しては既にこちらで書き尽くした]。次作に於いて、彼女が護るのは自身の一人息子、ジョン・コナー (John Connor) [演:エドワード・ファーロング (Edward Furlong)] であり、そのジョン・コナー (John Connor) こそ、前作に於いてはサラ・コナー (Sarah Connor) を護らんが為に、カイル・リース (Kyle Reese) を過去の時代に派遣した張本人なのである。
ここでも、護る / 護られると謂う位相がこの母子の間で転換しているのである。

さらに謂えば、ジョン・コナー (John Connor) と謂う存在、前作に於いては物語の動機となっている一方で、次作に於いては、物語の帰結となる。
但し、この視点は、この『ターミネーター・シリーズ (Terminator Franchise)』と謂う物語が時間と謂う次元に於いては、大きな円環構造となっている故に、原因と結果は等号で結合される事になる。
つまり、こうも謂えるのだ。次作に於いて物語の動機が語られ、前作に於いてその帰結がみられたのだ、と。

いずれにしろ、ふたつの作品に於いて、主要登場人物が置かれている位相は、転換が試みられているのである。その結果、ひとつの時間の流れに於いては、起と承として接続されているふたつの物語は、一見すると全く異なる物語の様に思える。
だが、それが全くもって奇異なモノに思えないのは、未来から派遣された暗殺者を如何に亡き者として葬り、自らの生存を確固とたるモノとし得るのか、そんな物語の根幹に揺るぎがないからなのである。

images
私たちの前には未知の未来が広がっている / The Unknown Future Rolls Toward Us

次作に登場する、上掲画像のシーンとそこで語られるサラ・コナー (Sarah Connor) の独白がそれを証明している様に思える。

そこで語られているのは、前作に於いて呈示された物語の根幹を否定するモノである。何故ならば、未来からの暗殺者は、サラ・コナー (Sarah Connor) を抹殺する事によって彼等の時代に起こっている出来事をも抹殺せしめようと目論んでいるからだ。つまり、彼等はタイム・パラドックス (Temporal Paradox) を顕現させようと試みているのである。それに対し、おのれ [とその子孫] の生存を賭けて、暗殺者から逃れようとしているサラ・コナー (Sarah Connor) は、今ある時間の流れの存続を希求している筈なのである。
にも、関わらずに、次作に於いては、それを真っ向から否定する発言として、あらかじめ判明している未来から逃避行を謀るかの様に、彼女自身によって語られているのである。
これもふたつの物語に於ける、位相の転換のひとつとしてみて良いと思う。
個人的には、この作品のなかで最もすきなシーンのひとつだ。

と、同時にこの独白が流れるその光景が決して輝かしい寿がれうる様なモノではなくて、こんなにもくらい、そして、果てしもないモノ、徒労にも満ちたモノ、さもなければ諦念によって補填されている認識から、である事は注目に値する。
ジョン・コナー (John Connor) は未来での指導者であり、サラ・コナー (Sarah Connor) はその母なのである。だが現実の、そして現在のふたりは逃亡者でしかない。如何に、彼女が来るべき未来へと望みを託そうとも、その時点でのその物語の、そんな事実が重くのしかかってくるのである。
この独白は、彼等の将来に希望がある事を保証するモノではない、寧ろ、2人がその運命に翻弄されているが故に登場するモノである、そう看做す事は決して無茶な論陣とは謂えないだろう。
すなわち、物語の本質は一切、揺るぎがない、ぼくはそう指摘しておきたいのだ。

次回は「」。


附記 1. :
ターミネーター・シリーズ (Terminator Franchise)』的な物語の変換が行われる作品例として挙げるべきは、映画『新・猿の惑星 (Escape From The Planet Of The Apes)』 [ドン・テイラー (Don Taylor) 監督作品 1971年制作] である。そのシリーズの第1作『猿の惑星 (Planet Of The Apes)』 [フランクリン・J・シャフナー (Franklin J. Schaffner) 監督作品 1968年制作] に於いての、人間と猿との立ち位置が、その作品に於いて、見事に逆転されているのである。
と、同時に、第1作の結末に於いて呈示される"ことば"と謂う存在が、第3作に於いても同様な扱いをもって登場するのだ。

附記 2. :
このシリーズに関しては、テレビ放映の際に体験した第3作『ターミネーター 3 (Terminator 3 : Rise Of The Machines)』 [ジョナサン・モストウ (Jonathan Mostow) 監督作品 2003年制作] 以降は未見である。だから、次作に於ける、もうひとつの主題であるジョン・コナー (John Connor) とT-800 (T-800) の交歓が、それ以降のどの物語にどんな伏線となって顕れるのかは解らないのであった。
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