2008.12.02.20.26
そのペンネームの由来であるところの、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の傑作『黄金虫(The Gold-Bug)』を非常に意識した、暗号解読(Cryptanalysis)を主題としたものである。
注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。

物語冒頭の「あの泥棒が羨ましい」から、ずんずんと作品世界に引き込まれるその様は、『黄金虫(The Gold-Bug)』に劣らずに、このジャンルでの名品である事に疑義を挟む余地はない。
さて、その『二銭銅貨(Nisen doka : The Part Of Two SEN)
にも関わらずに、僕もその後塵を拝しながらも、批評めいたものを書き連ねてみたいと思う。
つまり、物語の最期の最期に登場して、これまで名探偵役を引き受けていた登場人物のひとりを単なる木偶の坊へと堕落させてしまった、あの台詞。
「ゴジヤウダン。『御冗談』というのはなんだろう。」という台詞の存在の意味なのである。
現実に疲弊し、徒に時間ばかりを浪費し、無闇矢鱈に惰性に生きていたふたりの青年の下に、一枚の「二銭銅貨」が転がり込む。この「二銭銅貨」に潜む謎と暗号を巡って、そのふたりの青年が、遣い途をとうに喪ってしまった頭脳を駆使させて,立ち向かう。
これが本作品のあらすじである。
エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)ならば、少なくともエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の『黄金虫(The Gold-Bug)』ならば、物語の終結部で、彼らの労をねぎらうかの様に、主人公達には黄金と財宝が与えられる。
しかし、この『二銭銅貨(Nisen doka : The Part Of Two SEN)
物語は結局、冒頭の「あの泥棒が羨ましい」に立ち戻ってしまう。つまり、現実に疲弊し、徒に時間ばかりを浪費し、無闇矢鱈に惰性に生きていたふたりの青年だけが遺されるのである。
これをふたりの偉大なる推理作家が産まれ育った地域と時代の違いに根拠を得るのは容易い。方や19世紀(The 19th Century)の合衆国東部(Boston)であり、こなた20世紀(The 20th Century)の関東大震災直前の東京(Tokyo)なのだ。
前者が伝奇と浪漫に己の可能性を信じる一方で、後者が伝奇と浪漫に厭世的なキブンを投影したとしてもおかしくはない。
それだけなのだろうか?
僕は、ふたつの小説に現れた暗号解読(Cryptanalysis)そのものが、その謎を解く鍵を握っている様な気がしてならない。
と、いうのは『黄金虫(The Gold-Bug)』で得られる知的昂奮、その暗号の理知的で論理的な解法と同種の快感を『二銭銅貨(Nisen doka : The Part Of Two SEN)
暗号そのものの構成原理は凄まじく明快でこちらの疑義の付入る隙を与えていないのにも関わらず、『二銭銅貨(Nisen doka : The Part Of Two SEN)
あえていえば、その点に於いて、江戸川乱歩(Edogawa Ranpo)はエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)を乗り越えられていないのだ。
だからこそ、探偵役の青年には一切の報償は与えられないままに、どんでん返し(Twist Ending)の「ゴジヤウダン。『御冗談』というのはなんだろう。」に辿り着いてしまう。
敢て言えば、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)にとっての推理とは、活きる為の技術であり智慧であるのにも関わらず、江戸川乱歩(Edogawa Ranpo)にとってのそれは無為であり徒食であり蕩尽でしかないのだ。
だからこそ『黄金虫(The Gold-Bug)』の主人公達が財宝を入手出来たその一方で、『二銭銅貨(Nisen doka : The Part Of Two SEN)
そしてそれはそのまま、その後の江戸川乱歩(Edogawa Ranpo)の作風に大きく影響していると思うのだが、如何であろうか?
次回は「ぞ」。
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