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2019.07.09.08.42

こだま

ザ・ホワイト・ストライプス (The White Stripes) の楽曲『ザ・ハーデスト・ボタン・トゥ・ボタン (The Hardest Button to Button)』 [アルバム『エレファント (Elephant)』 収録 2003年発表] のプロモーション・ビデオ (Promotion Video) をふと想い出して、もしかしたらこおゆう事なのかな? と想う。

そのビデオでは、楽器を演奏する個々のメンバーやその楽器単体が、増えたり減ったりしながらも、街のいたるところを移動して廻るのだ [と、綴るよりも実際に観てもらった方が早い]。勿論、それはコマ撮りすなわちストップモーション・アニメーション (Stop Motion) という単純で原始的な撮影技法 [勿論それだけでは出来ないが] によるものだ。観ているこちらはそのコミカルな動きと人物や楽器の神出鬼没ぶりを愉しめばいいのだが、実際の撮影は手間暇ばかりがかかるとてつもなく面倒くさい方法なのだ。そして、その面倒くささに気づくとさらにその映像の面白さと馬鹿馬鹿しさが強く印象されるのである。

と、謂うある映像作品、それも短いそれの感想を綴るのは拙稿の主旨ではない。

ポール・デルヴォー (Paul Delvaux) の絵画作品に『こだま [あるいは「街路の神秘」] (L'echo [ou le mystère de la route])』 [1943年制作 愛知県美術館 (Aichi Prefectural Museum Of Art)所蔵] がある。
本作品はもしかしたら、ザ・ホワイト・ストライプス (The White Stripes) の先の映像作品とあい通じるモノがあるのではなかろうか、とふと、思ったのである。

その絵画は、月光に照らし出されている、古代の石造建築物が居並ぶ石畳を、全裸の女性3人が徘徊していると謂うモノだ。彼女達3人はまったくおなじ姿勢で、しかも体系と髪型が、まったくよく似ている [と、綴るよりも実際に観てもらった方が早い]。

images
"L'echo [ou le mystère de la route]" by Paul Delvaux

上の文章で「全裸の3人の女性」と綴ったが、実際は違うのではないか、と謂う疑問が拙稿の主旨なのである。

つまり、「全裸の3人の女性」と謂うのは実は同一人物なのではないか。
この作品には時間の経過が描かれているのではないか。
そんな疑問なのである。

作品名である『こだま (L'echo)』と謂う語句には様々な意味をもたらせる事も出来るし、鑑賞者であるぼく達もまた、自由に解釈や理解が可能な語句だ。
本作が描いた光景のさなか、そこに"こだま (Echo)"が響き渡っていると理解する事も出来るし、その名称の出典であるギリシャ神話 (Greek Mythology) のエーコー (Echo) を描いた作品であると理解する事も出来る。
どちらかが正しくてどちらかが誤っていると断罪する事も出来ない代わりに、いずれもが正しいかもしれず、その逆にいずれもが誤っている可能性がない訳ではない。

だからぼくはここで身勝手な自身の見解を綴っておこうと想うのだ。

本作に描かれた光景をみて抱くのは、静謐と謂う語句だ。そこに音はほとんどない。と同時に、こおりついてしまったかの様に、この光景は永遠である様に思える。遥かの太古からここはこのままであってそれは未来永劫に約束されている様に思える。永遠の平和、はてしない夜にそこはとざされているのである。
しかし、そこに「全裸の3人の女性」が登場する。光景となる事象や事物が永遠や静謐を描いたモノであるのならば、時間や音の存在を強く意識させるのが、「全裸の3人の女性」なのである。
本来ならばその結果、そこに保障された世界は破綻もし、終末を迎えるべきものだ。

だが、そんな時はこない。何故ならば、それが"こだま (Echo)"だからなのだ。"こだま (Echo)"とは、そこに音がなっている筈のモノなのに、それを聴くモノが抱く印象は静けさ、さもなければ、無音の状態だ。"こだま (Echo)"とは、そこにながれる時間と音の存在の有無、そしてその結果発生する矛盾をあい孕む事が出来る存在なのだ。
その音が聴こえているあいだずっと、無音のなかにおかれている様だ。すこしずつ減衰していく音を聴いているあいだ、なぜか時間が停止している様に思われる。つまりはそおゆう事だ。
だからこそ、まったく時間が静止してしまったかの様に思えるこの作品は、それとはまったく異なる印象を「全裸の3人の女性」の登場によって予感させられる。つまり、時間の存在、時の経過を強く意識されせられる筈なのだ。
すなわちそれは、時間の存在、時の経過と謂うモノが克明に描かれていなければならない、否、描かれている筈なのである。その象徴が「全裸の3人の女性」ではないだろうか。それ故に「全裸の3人の女性」は、"彼女達"の一瞬の姿態やそこでの挙動を描いたのではない。況や、彫像の様なあらかじめ動かざるモノであってはならない。生ある実態としての女性が必須なのである。
それだからこそ、ぼくは「全裸の3人の女性」は、実はたったひとりの全裸の女性であろう、彼女の挙動を時の経過と共に、1点の画布におさめたモノである、と考えるのである。

本作品は、横尾忠則 (Tadanori Yokoo) が自身の著書『名画裸婦感応術 (Yokoo's Selected Nude Masterpiexes)』 [2001知恵の森文庫刊] で紹介している。念をおしておけば、彼の認識は「3人の裸婦」であり「3人の裸の女達」である。拙稿を支持するモノではない。
そこでこんな事を綴っている。

「この絵に関する五感はどう働くだろう<中略>つぎに夜のしじまを感じる、音のない世界である」

彼のその部分を信用するのならば、本作品にふさわしい音楽は、楽曲『ザ・ハーデスト・ボタン・トゥ・ボタン (The Hardest Button to Button)』 ではない。
サイモン・アンド・ガーファンクル (Simon And Garfunkel)の楽曲『サウンド・オブ・サイレンス (The Sound Of Silence)』 [アルバム『サウンド・オブ・サイレンス (The Sound Of Silence)』収録 1965年発表] を想い出すべきなのであろう。
その歌詞にこうあるからだ。

そして、しじまだけが聴こえるのさ (Still Remains Within The Sound Of Silence)」

蛇足を承知でつけ加えるならば、無音 (The Silence) のなかにその音 (The Sound) を聴くのである。
そこにある矛盾の正体を描いたモノが本作である、そんな理解に至る事が出来るのだ。

次回は「」。
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