FC2ブログ

2019.07.02.08.44

まめおとこ

ないしは豆助 (Mamesuke)。
ネット上で豆男 (Mameotoko) で検索すると、些細な事にでも配慮が行き届く男性と出てくる。まめなおとこ (Methodical Man) と解したらしい。
同じく豆助 (mamesuke) で検索すると、柴犬 (Shiba Inu) の画像が勢ぞろいする。テレビ番組『和風総本家 (Japanese Style Originator)』 [20082018テレビ大阪制作] のマスコットであるらしい。
これから綴るのはそのどちらでもない。江戸時代 (Edo Period) は浮世絵 (Ukiyo-e) の登場人物、ひらたく謂えば、枕絵 (Pornographic Picture) や春画 (Erotic Picture) の類に登場する。

彼の存在は林美一 (Yoshikazu Hayashi)の著書『江戸枕絵の謎 (The Mystery Of Japanese Pornographic Picture In Edo Period)』 [1998河出文庫刊行] のなかにある「豆男の系譜 (A Genealogy Of Mameotoko」で知った。
本来ならば、拙稿はその著書の紹介ないしは解説、さもなければ批評や感想文になるべきモノである。しかしながら、その書物は今現在、ぼくの掌の届くところにはないのである。
だから物凄く大雑把な事しか綴れない。

豆男 (Mameotoko) [もしくは豆助 (Mamesuke)] は、その名が表す様に豆の様にちいさい。そのちいささは、『御伽草子 (Otogi-zoshi)』 の『一寸法師 (Issun-boshi)』や英国童話の『親指トム (Tom Thumb)』を連想してもらうのが一番だ。
ハンス・クリスチャン・アンデルセン (Hans Christian Andersen) の童話『親指姫 (Tommelise)』 [1835年発表] はすこし違うと思う。
性差はすごく大事な要素だと想うからだ。全くおなじ構造をそれらの物語がとっていたとはしても、その主人公の男女の違いはとてもおおきい筈だ [とは謂うモノの豆男 (Mameotoko) ならぬその女性版、豆女 (Mameonna)が登場する磯田湖龍斎 (Isoda Koryusai)画『俳諧女夫まねへもん(Haikai Inyo mane'emon)』も存在しているのだ]。

そんな背丈の人物が、枕絵 (Pornographic Picture) とか春画 (Erotic Picture) に登場するのである。例えば、鈴木春信 (Suzuki Harunobu) 画『風流艶色真似ゑもん (Furyu Enshoku Mane'emon)』である。彼はそこで一体、なにをするのだろうか。
自分の身体が豆の様にちいさくなったらなにをしたい? さもなければ、なにができる?
あんなことにそんなこと、それからそれから ... そしてこっそり、ほくそ笑むかもしれない。
それは身の丈数十メートルもある巨大な成人女性が眼前に登場したら ... と想像するのによく似ているのかもしれない [こちらを参照の事]。

しかし彼は、なにもしないのである。

それらの作品をみると、閨房で行われている秘め事の、その周縁に彼は佇み、そこで行われている男女の行為をじっとみているだけなのである。彼が主体的に、それに参画する事もない。もしも仮に、彼が描かれているその部分を破るなり塗り潰なりしてしまえば、それは"普通の"枕絵 (Pornographic Picture)、春画 (Erotic Picture) にしかならない。
極論を述べると、居ても居なくてもいい。

では何故、豆男 (Mameotoko) は存在するのかと謂うと、のぞき (Peep)、窃視 (Vague)、視姦 (eye-rape) のアナロジー (Analogy) として彼が存在しているからである。
とは謂うモノの、豆男 (Mameotoko) の主観としてその作品が描かれている訳でもない。何故そうなったのか、もしくは、何故それでよいのか、と謂う問題は恐らく見立て (Mitate) と謂う方法論がそこにあるからだろう。

と、謂う風に解釈してしまうと、『一寸法師 (Issun-boshi)』や『親指トム (Tom Thumb)』とは全く異なるところに彼がいる事になる。親指トム (Tom Thumb) ならぬ覗き屋トム (Peeping Tom) の係累に彼は属しているのだ。

それ故に、映画『縮みゆく人間 (The Incredible Shrinking Man)』 [ジャック・アーノルド (Jack Arnold) 監督作品 1957年制作] や映画『ミクロの決死圏 (Fantastic Voyage)』 [リチャード・フライシャー (Richard Fleischer) 監督作品 1966年制作] や映画『ミクロキッズ (Honey, I Shrunk The Kids)』 [ジョー・ジョンストン (Joe Johnston) 監督作品 1989年制作] と謂った、人体縮小を扱った作品群とも、豆男 (Mameotoko) は一切、関係がない事になる。

でも、なかにはこんな事を考えるひともいるかもしれない。
御伽草子 (Otogi-zoshi)』 には描かれては居ないが、もしかしたら一寸法師 (Issun-boshi) は、彼を召しかかえた姫君と他の男性との情事に遭遇してしまったのかもしれない、と。そして、おのれが陰ながら思慕している女性を想うがあまりに、その男性の寝込みを襲撃したのかもしれない。『御伽草子 (Otogi-zoshi)』に登場する (Oni) とは、つまりそういう存在ではないか、と。

images
もしそうだとしたら、その一寸法師 (Issun-boshi) の末裔は、映画『透明人間と蝿男 (Invisible Man Vs Human Fly)』 [村山三男 (Mitsuo Murayama) 監督作品 1957年制作] に登場する蝿男 (Fly Man)ではないだろうか。蝿の様に縮小したその男は、夜毎、美女や仇敵を襲い、亡き者にするのである。
[上掲画像はここちらから:恵美子 (Emiko) [演:毛利郁子 (Ikuko Mouri)] の肢から胸元へと歩む蝿男、楠木 (Kokichi Kusunoki aka Fly Man) [演:伊沢一郎 (Ichiro Izawa)]。]

次回は「」。

附記 1.:
おんなを巨大化する事と自身を矮小化する事は似ている様で、実は全然異なる。相対化もしくは客観視すれば、そこから得られる効果は全く同じ筈なのに。
いまのぼくにはそう想う理由を上手く説明できない。ただ想うのは、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇 (Travels Into Several Remote Nations Of The World, In Four Parts. By Lemuel Gulliver, First A Surgeon, And Then A Captain Of Several Ships)』 [ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift) 作 1726年発表] は小人国であるリリパット国 (Lilliput) に漂着した逸話はおとぎ話 (Nursery-tale) には出来ても、大人国であるブロブディンナグ国に漂着した逸話 (Brobdingnag) はそれが出来ないのだ。

附記 2.:
豆男 (Mameotoko) をのぞき (Peep)、窃視 (Vague)、視姦 (eye-rape) のアナロジー (Analogy) としたが、例外はある。歌川国貞 (Utagawa Kunisada) 画『泉湯新話 (The Battle Of The Sexes)』の一挿話である『大人国三めぐりの図 (Three Times Ariund In The Giant Land)』である。『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇 (Travels Into Several Remote Nations Of The World, In Four Parts. By Lemuel Gulliver, First A Surgeon, And Then A Captain Of Several Ships)』よろしく大人国を訪問した男女が、大人の男女がまぐわうその横で、自身も通じ合っているのである。つまり、大小ふたつの性行為がそこに描かれている。
いや、そればかりか ...。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/2822-206de985

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here