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2019.05.14.08.44

とぅるーまんしょー

こういう時のジム・キャリー (Jim Carrey) って最高だよな、と不図、ことばに出てしまう。
しかも、観た後のモノではない。観る前からだ。その作品の設定を聴いただけで、そんなことばが短絡に発せられてしまう。
では翻って、こういう時のさす「こういう時」とはどんな時なのか。自問しただけではすぐには解答が出てくる訳ではない。

映画『トゥルーマン・ショー (The Truman Show)』 [ピーター・ウィアー (Peter Weir) 監督作品 1998年制作] をどう理解するか、さもなければ、どう解釈するか、実はこれ、難問なのではないか。
と、謂うか、観るモノの観方によって如何様なる理解や解釈が産まれてきそうなのだ。

例えばこの物語をこう理解する事は出来ないだろうか。

狭い世界に産まれ育った人物が、成長するに従い、ある時、自身の知っている世界のそのそとに異なる光景が拡がっていると知る。そして、そとへとおのれを解放しようとする。

さもなければ、こんな解釈は如何だろうか。

そこはある意味で理想郷 (Utopia) とよばれるべき空間で、多少の不便や不快がないではないものの、そこに暮らすひとりの人物は、そこでえられる一切のモノを受容してきた。しかし、ある時をさかいにして、そんな理想郷 (Utopia) としての幻想がいつしか破綻し始め、ここが必ずしもそんな場所ではないと知る。否、寧ろ、それとはほど遠い世界、そこはひとを管理するが為にのみ存在していると解る。彼はおのれの解放を求め、ここ、すなわち反理想郷 (Dystopia) からの脱出を謀る。

もしも、こんな理解や解釈が可能ならば、この映画は実は古典的でかつ伝統的な主題に則った物語だと理解出来る。

そうぢゃあないだろう、と謂う声が聴こえなくもない。
この作品はメディア (Media) のありかたを問う作品だ、と。
確かにこの作品の主人公トゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) [演;ジム・キャリー (Jim Carrey)] は、自らの名前が冠されたTV番組『トゥルーマン・ショー (The Truman Show)』 の為に誕生し、そのTV番組の為にその成長も学習も恋愛も生活も一切が曝け出されている。そして、このまま番組が続けば、病も老いも死も曝け出されるのだろう。
その番組の視聴者からみれば彼にはプライバシー (Privacy) が一切なく、その逆に彼自身にはそれが一切知られていない。彼もまた他の多くのモノと同様な、一般市民だと思って暮らしている。
そこだけ切り取ってみればこの作品から、テレビって怖いなと謂う印象を育むのに充分だ。

しかし、だからと謂って、この物語では、そこから発してそのままメディア (Media) の恐ろしさを訴えると謂うモノへと成長しないのだ。
何故ならば、この物語があくまでも主人公ただひとりの物語である事をやめないからだ。作品内で彼に起こった事、そして、もしかしたらこれから先に彼に起こるだろう事は、彼自身に関してのみだ。
その番組の視聴者にも、その番組を企画し制作した人物達にも絶対に波及しない。トゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) の幸運を羨んだりトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) の受難を嗤ったりしていた自分自身とその生活が実はトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) のそれと同様に、他者にとってのある種の娯楽として提供されていた、そんな事はこの作品にはないのだ。トゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) はたったひとりしかいないのである。
であるのだから尚更の事、主人公の体験を我が身にも起こりうる事と自身が引き受けるかたちで鑑賞するモノが存在する事はまず、あり得ない。

絵空事 (Castle In The Air.)、寓話 (Fable) でしかないのだ。

この作品をリアリティ番組 (Reality Television) に比して語る視点があるが、それは似て非なるモノ (Similar But Different) だ。
リアリティ番組 (Reality Television) の出演者達の誰もが、その番組の外にある自身の人格や性格、その他一切をそのまま引き摺って持ち込んで、その番組の為に投与しているのに対し、トゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) はそうではない。彼は番組のそとにはナニモノもないのだ。番組の中で露見するモノただそれだけがある。かれはそれだけの人物なのである。

その作品のなかでの、その番組の視聴者達にとっては、他の番組や他の物語の登場人物達と然程、変わらない存在なのではないか。もし、違う点があるとしたら、長年に亘ってトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) と謂う登場人物をたったひとりの俳優が演じ続けていると謂う点に於いてだけなのかもしれない。

[この論調で綴っていくと、物語と謂うモノ、そしてそこにある虚構を如何にぼく達が受容しているのだろうか、と謂う事を綴り続けなければならなくなってしまう。だから、問題提起にとどめてここで中断しよう。]

この作品の告知物、ポスターを検索してみると、おおきくわけて、3種類のモノを発見する事が出来る。
ひとつは、荒れた画像に大きくうつるジジム・キャリー (Jim Carrey) の笑顔だ。その彼の笑顔の下に「トゥルーマン (Truman)」の文字がある。
ひとつは、テレビ画面のなかにあるジム・キャリー (Jim Carrey) の寝顔だ。
ひとつは、青空を模した背景のなかで、誇らしげに両腕をひろげた人物の立ち姿だ。
第1のモノは、そこに浮かびあがる笑顔のジム・キャリー (Jim Carrey) が主演を演じる事、彼が演じる役がトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) なる人物である事を告げている。真実のヒト (True Man) と謂う語句は、彼の笑顔を際立たせると同時に、そこに潜む嘘の可能性をいくらでもひろげる事が可能だ。
第2のモノは、作品の世界観、物語全体の構造をひとつの画面に押し込んだモノだ。何故ならば、この物語の世界は、テレビ画面を通じてジム・キャリー (Jim Carrey) 演じるトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) の生活をみつめ続ける事から始まるからだ。
そして、第3のモノは、物語の最終場面である。そこに立つ人物が画面に占める割合はすくなく、ジム・キャリー (Jim Carrey) ないしトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) とは判然とつかない様に出来ている(人物すら映っていないモノもある)。

images
上掲画像はこちらから。

もしも、この3種のポスターを作品の時系列に従って眺めてみれば、あるところにトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) と謂う青年がおりました [第1のポスター] 、彼はテレビの中で暮らしていましたが [第2のポスター] ある日、そこから抜け出る事に成功しました [第3のポスター] と語る事が出来るのだ。
と、謂う事は、この作品の制作サイドからの主張をここから解読しようと試みれば、物語の主題はテレビのなかの世界を描く事ではなくて、そこから脱出を企てる青年の物語である、と解る。

そして、それを起点に気づくべきは、テレビの中にあってはジム・キャリー (Jim Carrey) 演じる主人公はトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) と謂う人格を得ているモノの、テレビから抜け出すその時になっては、トゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) と謂う人格を喪っている、と謂う事なのだ。

[こういう事綴っちゃうと、疎外論 (Entfremdung) とか語りたくなっちゃうよね?]

こういう終幕の引き方は、映画『卒業 (The Graduate)』 [マイク・ニコルズ (Mike Nichols) 1998年制作] のそれにあい通じる様な気がする。
一見するとハッピーエンド (Happy End)、しかし、ここから初めてその物語が始まるのだと理解すると、その途端に、苦々しい想いが沸き起こってくる、と謂う意味で [しかし、そんな残照が起こる可能性は巧妙に排除されている様な気がする]。

だからと謂って、終幕を迎えたが直後、ここまでの一切がトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) が観てきた一晩の夢で、物語が冒頭のシーンに立ち返ると謂う様な事もないのである。
それが映画『ドグラ・マグラ (Dogura Magura)』 [原作:夢野久作 (Yumeno Kyusaku) 松本俊夫 (Toshio Matsumoto) 監督作品 1988年制作] の様に主人公呉一郎 (Kure Ichiro) [演:松田洋治 (Yoji Matsuda)] が実際に体験した事であったとしても。

次回は「」。

附記:
上に綴った様に、物語終幕部に於いて、主人公はトゥルーマン・バーバンク (Truman Burbank) と謂う人格を放棄する。だからと謂って、その青年が、彼を演じてきた俳優ジム・キャリー (Jim Carrey) になる、と謂う事はない。きっとその点こそが、ジム・キャリー (Jim Carrey) が演じるべき最良の理由なのではないか。
ジム・キャリー (Jim Carrey) と謂う俳優が、俳優である事をやめて個人にかえったその時、そこになにがあるのだろうか? もしかしたら、まったくなんにもないのではないか、そんな妄想をふと抱かしめる俳優なのであある、ジム・キャリー (Jim Carrey) と謂う人物は。それは役に徹すると謂う語句とはすこしばかり意味合いが違う。
極端な話、この映画は他の俳優ならばその俳優と彼が演じたその役を同等視して、映画終演後、こうして俳優某は誕生しました、つまりその俳優の誕生秘話、その寓話 (Fable) として、語る事も出来る訳ではあるのだけれども、ジム・キャリー (Jim Carrey) と謂う俳優に限って、それを一向に引き受けようとはしないだろう。
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