fc2ブログ

2019.03.12.08.39

しけいしゅうさいごのひ

とりあえず、読んでみた。

と、謂うのは拙稿の主題となるべき絵画『死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 [画:ムンカーチ・ミハーイ (Mihay Munkacsy) ハンガリー国立美術館 (Hungarian National Gallery) 所蔵 1870年制作] が、文庫『世界名画の旅 ヨーロッパ中・南部編 (Travel For Masterpiece Of Painting In South And MIddle Europe)』 [1989朝日新聞日曜版編集部朝日文庫刊] でその小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』 [ヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo) 作 1829年発表] を冒頭に据えて紹介されていたからである。

その記事 [文:高橋郁男 (Ikuo Tkahashi) 1985朝日新聞日曜版掲載] で抜粋されている小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』は以下の通りである。

「死刑囚!
もう五週間のあいだ、私はその考えと一緒に住み、いつもそれと二人きりでおり、いつもその面前に凍えあがり、いつもその重みの下に背を屈めている。(略)
私の後には、一人の母が残る、一人の妻が残る、一人の子供が残る。
三歳の小さな女の子で、ばら色でやさしくよわよわしく、黒い大きな目をし、栗色の長い髪を生やしている。
最後に私が見た時は、その子は二年と一か月だった。
かくて、私の死後には、子がなく夫がなく父がない三人の女が残る。各種の三人の孤独者だ。法律から作られた三人の寡婦だ。」[訳:豊島与志雄 (Toyoshima Yoshio) 1982岩波文庫刊]
ちなみに全文は青空文庫 (Aozora Bunko) のこちらで読む事が出来る。

images
その記事は、冒頭にある引用文に続いて、絵画『死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 にある描写が詳細に綴られている。そこで筆者は、小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』の影響の基で、この絵画が描かれていたのではないか、と推理する。

しかし、その推理はその絵画が収蔵されているハンガリー (Magyarorszag)、すなわち画家の祖国で完全に否定されてしまう。
祖国の独立、そしてその為の闘争に関する題材であると謂うのだ。
そして、それを受けてその記事では画家の出自と生涯、そして彼の祖国の歴史を辿る記事となる。

絵画の真の主題と、その背景について本来ならば綴るべきなのだろうが、ぼくの関心はそこにはない。だから、簡単に、ハンガリー (Magyarorszag) を出身とするその画家の生地ムカチェヴォ (Mukacheve) は、その記事が発表された1985年当時はソビエト連邦 (Soviet Union) であり、現在はウクライナ (Ukraine) に属すると紹介するのに留めておく。

ぼくの関心事は、その絵画に描かれている情景なのだ。
死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 と謂う題材であるのにも関わらず、そこには多くの人々がひしめきあっている。そこにいるヒトビトひとりひとりの性別や年齢、服装やそこから類推されるべき職業や身分、それらを丁寧に読み取っていけば、いくらでも物語を織り成す事が出来そうだ。
しかしながら、『死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 と謂う場所は、果たしてそんなにも多くのヒトビトの滞在が許される様な場所なのだろうか、とも思う。
果たして、これは現実の光景なのだろうか。もしかすると、その場所の本来の住人、死刑囚がみたあるまぼろしを描いたモノなのではないだろうか。そんな気もするのである。

だから、小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』を読んでみたのである。

読んでみて辟易したのは否定できない。主人公、すなわち死刑囚があまりにも饒舌なのだ。死刑囚と謂う言葉を観て、ぼく達の想像するそれとはかなりかけ離れている様に思える。
例えば、映画『戦場のメリークリスマス (Merry Christmas, Mr. Lawrence)』 [大島渚 (Nagisa Oshima) 監督作品 1983年制作] でのラスト・シーン (The Last Scene)、戦犯 (War Criminal) として処刑されるハラ・ゲンゴ軍曹 (Sgt. Gengo Hara) [演:ビートたけし (Takeshi)] の挙動とはあまりにも異なるのだ。
勿論、ハラ・ゲンゴ軍曹 (Sgt. Gengo Hara) がその心境に至るまでにあった彼の内部はその映画では一切語られていない。と、同時に、小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』は殆どが主人公の主観によるモノローグで構成されている。そこから生じる差異は充分に可能性はあるだろう。
そして勿論、指摘しておかなければならない事は、小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』が死刑制度廃止を訴えると謂うヴィクトル・ユゴー (Victor Hugo) の考えが根底にある、と謂う事だ。それ故に、死刑囚の実際よりも誇張した表現や言説がまかり通ってる可能性がないとは謂えないのだ。

それらを踏まえて、小説『死刑囚最後の日 (Le Dernier Jour d'un condamne)』と絵画『死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 との関連性を考える事が出来るのだろうか、と謂うと、ぼくの心中はあやふやなままだ。
少なくとも、前者の挿絵として後者が機能すると謂う事はなさそうな気がする。絵画にある様に死刑囚の基に多勢がおしかける様な事は決してなく、その小説に登場する面会人はたったのひとり、「三歳の小さな女の子」だけであるからなのだ。
だからと謂って、両者が全く無関係のふたつの創作品であると断言出来る様な素材に関しても、そこでは得てもいない。

だから、それとはすこし違った事を綴る。

本来ならば、全くの孤独であるべき場所に多数の人物が押しかけていると謂う作品を、ぼくはもうひとつ知っている。
ギュスターヴ・クールベ (Gustave Courbet) による絵画『画家のアトリエ (L'Atelier du peintre. Allegorie reelle determinant une phase de sept annees de ma vie artistique et morale)』 [ オルセー美術館 (Musee d'Orsay) 所蔵 1855年発表] である。
風景画を描く画家の右側には、画家の知古の人物達や彼の画風の賛同者が配置され、反対の左側には画家やその作品に否定的な人物達が配されている。さらに謂えば、画家の背後には裸身の女性モデルもいるが、彼が今描いているその作品には決して裸像は登場しない。
この作品、解釈の仕方はいく通りもあるだろうが、現実的にはそこに不在である筈の人物達が多数描かれている事から、結果的に画業の孤独さを主張しているとみえなくもない。周囲が如何様であろうとも、画家の関心事は自身の眼前にある画布なのである。

と、謂う様な事を援用して絵画『死刑囚監房 (Le dernier jour d'un condamne)』 を観る事は出来ないであろうか。
死刑囚の孤独、そして、彼の眼前にあるのはたったひとつの事でしかない、と謂う様な。

次回は「」。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/2747-788cd091

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here