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2019.03.05.09.07

なげきのてんし

と謂うのは、その邦題が与えられた映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』 [ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) 監督作品 1930年制作] に登場する歌姫の事ではない。勿論、彼女との恋に堕ち総てを喪った高校教師の事でもない。ふたりが出逢った酒場、ブラウ・エンゲル (Der blaue Engel) をロマンティックな語句に翻案したモノなのである。

と、前回と同じ様な論旨を展開してみたが、前回の様に冒頭文の解読ないしは解説が続く訳ではない。
単純に、その映画は、主演女優と主演男優、そしてこのふたりが出演する映画作品を制作した監督、この3名それぞれの視点から、その作品を観てみる事が可能なのかもしれない、と謂うだけなのである。

歌姫ローラ (Lola Lola) を演じた主演女優マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) に関しては次の様な事が謂えると思う。
彼女にとっても、その映画を制作した監督にとっても次作にあたる映画『モロッコ (Morocco)』 [ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) 監督作品 1930年制作] とは少し違う。
その映画『モロッコ (Morocco)』には、ぼく達がその女優の名前を聴いて連想する、その殆ど総てがそこにあると謂って良い。逆に謂えば、マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) のパブリック・イメージ (Public Image) はその映画で形成されたと謂う事が出来る。
でも、それに相当するモノが、映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』にあるのかと謂うと、恐らくない。そこにあるのは下世話な表現をすれば、ローラ (Lola Lola) の脚、すなわちマレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) の脚だけなのである。

しかも、マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) が演じる歌姫ローラ (Lola Lola) は、決してその映画の主人公ではないのだ。
敢えて謂えば、彼女は狂言回し (Subsidiary Character) でしかない。
真の主人公は、彼女に誘惑されて恋に堕ちたイマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) [演 :エミール・ヤニングス (Emil Jannings)] なのである。

もしかしたら、映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』と謂う作品は、元来は喜劇なのかもしれない。

images
老いた高校教師が酒場に赴き、そこで初めての恋をする。
作品の中で、その夜の出来事が、彼が担任する教室の黒板にカリカチュア (Caricature) された描写が登場するが、この映画自体の眼目は、もしかすると、そのカリカチュア(Caricature) と同趣旨のモノなのかもしれない。
[上掲画像はこちらから]

否、それ程のモノではなくとも、実直な老教師が年甲斐もなく、若い女性に恋をした、そのペーソス (Pathos) が本来は、その映画のあるべき主題だったのかもしれない。

だが、その作品はいずれでもなかった。

作品のなかで、誰もいない教室にたった一人取り残されたイマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) の姿が2度映し出される。
1度目は、その職を解かれてしまった時だ。
2度目は、物語の最期の場面だ。
これは決しておなじ事の繰り返しではないし、それはその映画を観る誰の眼にも明らかだ。

そして、このおなじふたつのシーンをみて、誰もが絶句するだろう。
語るべき言葉がみつからないのだ。

否、事態はもう少し複雑だ。
1度目の場面は、まだ解る。何故ならば、そこにあるのは、高校教師と謂う自己の任を解かれた事から来る経済的な損失があるからだ。
だが、2度目の意味は? それは失恋による、もうひとつの損失、と謂うだけでは済まされない。恐らく、誰もが自問するだろう。何故、そこへと戻ってきてしまったのか、と。他に戻る場所があるべきではないだろうか、と。
だが、それではどこへと赴けば良いのかと問えば、誰もそれにこたえる事が出来ないのだ。

[他に戻る場所があるべき、と綴ったその時に想い出したのが、映画『最後の人 (Der Letzte Mann)』 [F・W・ムルナウ (Friedrich Wilhelm Murnau) 監督作品 1924年制作] だ。そこではエミール・ヤニングス (Emil Jannings) は老いたベルボーイ (Bellboy) を演じていて、彼は勤務先の配置転換によってその職とその為の制服を奪われてしまう。それは彼にとってはアイデンティティー (Identity) の喪失に他ならず、喪われた制服を盗み、通勤時はそれを着用しているのである。彼にとっての制服と同じ役割をイマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) にとってはかつての教室が果たしていると看做すべきなのだろうか。]

何故、喜劇であるべき作品がそんな場所へと到達してしまったのか。

その一因はひとえに主人公イマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) を演じたエミール・ヤニングス (Emil Jannings) に起因するモノの様に、ぼくには思える。

エミール・ヤニングス (Emil Jannings) を主演とした作品に、おなじ監督による映画『最後の命令 (The Last Command)』 [ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) 監督作品 1928年制作] がある。
その作品で彼は老いさらばえたエキストラ俳優の役を演じている。
彼がある映画のエキストラのひとりとして起用され、その撮影の日に於ける顛末は、ただひたすらに周囲に翻弄される彼を笑う為の物語である。それが一転するのが、彼の前歴が明らかになってからの事なのだ。そして、彼がエキストラのひとりとして起用された真の理由が語られ始めた時点から、作品は異様な展開をみせる。

映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』では、イマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) の前歴は一切語られていない。もしも、映画『最後の命令 (The Last Command)』 と映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』との違いを端的に指摘する必要があるとすれば、恐らくその1点だけだろう。それだけ、このふたつの映画は構造がよく似ている。

そして前歴が語られている事によって、その映画『最後の命令 (The Last Command)』 はある特定の人物の物語たり得ているのに対し他方は、前歴が語られていない事によって映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』は、普遍性を与えられてしまった様に、観る事も出来る。
つまり。映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』で起こった出来事は、あなたにもあり得る物語であると同時に、わたしにもあり得る物語なのである。

と、ざっくりと、映画『嘆きの天使 (Der blaue Engel)』の主演女優と主演男優によりそって、綴ってみた。
では、この映画を制作した監督についてはどうなのか。

実は現時点に於いては、映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) については態度を保留していたいのだ。
と、謂うのは、マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) が彼の作品に登場する以前と、その以後とでは、おおきな転換がその映画監督に訪れてしまったのではないか、そんな危惧を持ってしまっているからなのだ。

高校教師イマヌエル・ラート教授 (Professor Immanuel Rath) が歌姫ローラ (Lola Lola) と出逢う事によって一切を喪ってしまったかの様に、映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) は女優マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) を得る事によって、彼の監督作品のなにかが変わってしまった様な気がしてしまうのだ。

但し、それを声高に語るのには、まだ観ていない彼の作品が幾つもありすぎる。
ここでは、彼の長編第1作『救ひを求むる人々 (The Salvation Hunters)』 [ジョセフ・フォン・スタンバーグ (Josef von Sternberg) 監督作品 1925年制作]、その最後の場面を観て、ぼくがとてつもなく驚かされた事だけを明記しておく。

次回は「」。

附記:
ぼくの手許には『女優 わが青春の女優たち (The Actress : In My Youth)』 [1987文藝春秋刊行] と謂うムックがある。1920年代から1970年代にかけて活躍した、海外映画の女優達を総ざらえしたモノだ。その主だった女優達数10名には1人、 見開き2頁が与えられていてその1/4、すなわち1/2頁には各界著名人によるコラムが掲載されている。ムックの副題に「わが青春 (In My Youth)」とあるのは、それによっているのだろう。
マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) には全6頁が与えられ、鈴木俊一 (Shunichi Suzuki) と斎藤英四郎 (Eishiro Saito) と南條範夫 (Norio Nanjyo) の3名の寄稿が掲載されている。破格なのだ。
鈴木俊一 (Shunichi Suzuki) の寄稿『わが青春の選択 (My Choice In The Youth)』の主題は、実際にまのあたりにしたその女優の思い出になるのであろうが、ここで注目すべきは「当大学生の間では、グレタ・ガルボ派とディートリッヒ派に分かれており<後略>」と謂うところである。
ここを前提にして、グレタ・ガルボ (Greta Garbo) に関して綴った大岡昇平 (Shohei Ooka) の寄稿『性と知性のまやかしの魅力 (Her Phoney Charm by Sex Appeal And Intelligence)』を読むと面白い。
彼はマレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) について、こんな事を記述している。
「ディートリッヒは低音の魅力と美しい脚を持っていた」
その一方でグレタ・ガルボ (Greta Garbo) に関してはこうなのだ。
「ガルボは丈が高く、いかり肩で、脚は丸太ん棒のようだった」
そんな容姿の違いを認めた上で、大岡昇平 (Shohei Ooka) はこの後、縷々としてグレタ・ガルボ (Greta Garbo) への思いを綴っているのである。
否、ぼくが指摘したいのはそんな事ではない。
鈴木俊一 (Shunichi Suzuki) と大岡昇平 (Shohei Ooka) の記述を都合よく解釈すると、マレーネ・ディートリヒ (Marlene Dietrich) の脚が当時、如何に魅力的であったか、と謂うその証左となるのである。
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