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2019.02.12.08.40

のすふぇらとぅふぁんとむであなはと

原典であり聖典でもある映画『吸血鬼ノスフェラトゥ (Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens)』 [F・W・ムルナウ (Friedrich Wilhelm Murnau) 監督作品 1922年制作] に関しては、既にこちらで紹介した。
今回、綴るのはそのリメイク作である映画『ノスフェラトゥ (Nosferatu : Phantom der Nacht)』 [ヴェルナー・ヘルツォーク (Werner Herzog) 監督作品 1979年制作] に関して、である。

物語の基本的な構成は、殆ど変わりがない。
主要登場人物である3人は役名こそ違うが、それぞれが物語で果たす役割はおなじだ。吸血鬼 (Vampire) とその被害者である妻とその夫である。
しかし、それぞれの作品の主題は、まったく異なったモノの様に思える。

1922作品は、小説『吸血鬼ドラキュラ (Dracula)』 [作:ブラム・ストーカー (Bram Stoker) 1897年発表] を原作としているが、結果的に、それとは全く異なる作品として成立している。
その小説を原作としている他の作品、例えば、ベラ・ルゴシ (Bela Lugosi) がドラキュラ伯爵 (Count Dracula) を演じた映画『魔人ドラキュラ (Dracula)』 [トッド・ブラウニング (Tod Browning)、カール・フロイント (Karl Freund) 監督作品 1931年制作] やクリストファー・リー (Christopher Lee) がドラキュラ伯爵 (Count Dracula) を演じた映画『吸血鬼ドラキュラ (Dracula)』 [テレンス・フィッシャー (Terence Fisher) 監督作品 1958年制作] と比較すると、その差異は明瞭に理解出来るだろう。否、そんな手間暇をかけずとも、自身の中にあるドラキュラ伯爵 (Count Dracula) のイメージ、パブリック・イメージ (Public Image) としてのドラキュラ伯爵 (Count Dracula) と、その作品に登場するオルロック伯爵 (Graf Orlok) [演:マックス・シュレック (Max Schreck)] とを比較するだけで、相当の隔たりがあると解るだろう。
禿頭、その両側にある耳殻は異様に大きく、爪はいずれも長く伸び、そしてそれと同様にこれもまた長く鋭く突出した1対の切歯 (incisor)、その容姿は、その作品独自のモノと謂って良い。

しかしながら、そのリメイク作品である1979作品は、そのオルロック伯爵 (Graf Orlok) の容姿を踏襲しながら、そことは凄まじく乖離した作品である様に、ぼくには思える。

主題は、吸血鬼 (Vampire) と謂う怪異、そしてそこから生じる恐怖を描いているのではないのだ。
ぼくは、それは孤独ではないか、と思う。

自らの業務であるとは謂いながら妻をヴィスボルク (Wisborg) [ドイツ (Deutschland) にある架空の都市] に遺しトランシルヴァニア (Transylvania) へと赴く夫、ジョナサン・ハーカー (Jonathan Harker) [演ブルーノ・ガンツ (Bruno Ganz)] が孤独であるのならば、勿論、遺された妻、ルーシー・ハーカー (Lucy Harker) [演:イザベル・アジャーニ (Isabelle Adjani )] も孤独である。
彼が異国の地に於いて、怪異とそれにまつわる恐怖に襲われているその間、ひとりヴィスボルク (Wisborg) を彷徨いあるいはヴィスボルク (Wisborg) に佇む、彼を待つ彼女の叙景がさしはさまれるのだ。

しかし、それと同様に、否、それ以上に、トランシルヴァニア (Transylvania) でジョナサン・ハーカー (Jonathan Harker) を待ち構えているドラキュラ伯爵 (Count Dracula) [演:クラウス・キンスキー (Klaus Kinski)] も孤独なのだ。

images
物語が語られているその間、闇のなかにひとり佇む彼、さもなければ、闇のなかをひとり彷徨う彼、その映像が幾度も顕れる。
吸血鬼 (Vampire) と謂う彼の属性を前提としてそれらの映像をみれば、闇のなかを跳梁していると理解されてもいい。さもなければ、闇を支配しているとも謂うべきか。
しかし、それらの映像をみているぼくにはそんな彼の姿になぜか、孤独と謂う語句が思いつくのである。
しかしそれらに、不死であり不老である吸血鬼 (Vampire) と謂う生命の宿命がそこに顕れている、と謂うのとは少し違う。
単に、ひとりであると謂うのではない。彼のふるまいがぼくの眼には、闇に怯えている様にうつるのだ [上掲画像はこちらから]。

それはもしかしたら、彼の姿勢にもよっているのかもしれない。背を屈め、両肘を曲げて両腕を前に掲げ、両掌を自身の胸の辺りで交差させる。
それは吸血鬼 (Vampire) の象徴でもある蝙蝠 (Bat) の姿勢をなぞらえたモノなのだろう。恐らく、彼の10指の先には、長い長い10本の爪があり、その爪と爪の間には黒い比翼がある筈なのだ。しかし、その比翼がぼく達の眼に映らないだけの事である。
しかし、そんな演出が逆に、彼の寄る辺なさをも表白している様に思えるのだ。誰1人として彼におのが掌を差延べはしないし、彼自らがおのが掌を差し出す事も決してないのだ、と謂う様な。

それは物語の舞台がトランシルヴァニア (Transylvania) からヴィスボルク (Wisborg) へと移ってからは尚更に強調される。
と、謂うのは、その街を襲う恐怖が、必ずしもドラキュラ伯爵 (Count Dracula) によるモノだとは謂えないからなのだ。

ドラキュラ伯爵 (Count Dracula) が自身の潜む棺によって搬送された際に、ペスト (Pest) に感染した (Rat) も一緒に搬送されてしまう。
本来ならば、ドラキュラ伯爵 (Count Dracula) の存在とその行動、そしてその結果もたらされる死がペスト (Pest) の伝染によって隠蔽される筈なのだ。だが、映画をみているぼくには、吸血鬼 (Vampire) と謂う事件よりも遥かにペスト (Pest) の猛威、そしてそれによってもたらされる死ばかりが印象づけられるのだ。
つまり、物語上の主客がどこかで転倒したかたちで、ぼくの眼に捉えられるのである。
まるで、ペスト (Pest) の寓意としてそこにドラキュラ伯爵 (Count Dracula) が存在しているかの様に。

だから、映画『ノスフェラトゥ (Nosferatu : Phantom der Nacht)』は映画『吸血鬼ノスフェラトゥ (Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens)』のリメイクではない様にも、いつしか思えてくる。
リメイクと謂う語句によって、ぼくの脳裏に浮かぶのは、コレラ (Colera) によって死に赴く街ヴェネツィア (Venezia) を舞台にした映画『ベニスに死す (Morte a Venezia)』 [ルキノ・ヴィスコンティ (Luchino Visconti) 監督作品 1971年制作] なのである。

その作品では美少年タジオ (Thaddeus aka Tadzio) [演:ビョルン・アンドレセン (Bjorn Andresen)] に魅了された音楽家アッシェンバッハ (Gustav von Aschenbach) [演:ダーク・ボガード (Dirk Bogarde)] が甘んじてコレラ (Colera) による死を受容する。
それをそのまま映画『ノスフェラトゥ (Nosferatu : Phantom der Nacht)』に相応させていけば、美少年タジオ (Thaddeus aka Tadzio) の役割をドラキュラ伯爵 (Count Dracula) が演じ、アッシェンバッハ (Gustav von Aschenbach) の役割はドラキュラ伯爵 (Count Dracula) に魅入られたルーシー・ハーカー (Lucy Harker) となるべきだろう。
しかし、そう単純な構造ではない。

美少年タジオ (Thaddeus aka Tadzio) の役は、被害者であるルーシー・ハーカー (Lucy Harker) が演じているのだ。ドラキュラ伯爵 (Count Dracula) はその美貌とその血に恋い焦がれて滅亡するのである。

次回は「」。
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