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2018.12.25.11.49

れいんこーつ

最初に聴いたのは、楽曲『イン・ラヴ (In Love)』 [アルバム『ザ・レインコーツ (The Raincoats)』 収録楽曲 1979年発表] だ。
ラフ・トレード・レコード (Rough Trade Record) 所属アーティストの日本編集盤『クリアー・カット (Clear Cut)』 [1981年発表] に収録されていた。
だからと謂って、その楽曲が始まりではない。

実はその楽曲の直前に収録されていた楽曲、レッド・クレイオラ (The Red Crayola) の楽曲『ボーン・イン・フレイムス (Born In Flames)』 [1980年発表] に魅了されていたのだ。たたきつけるビートの間隙を、自由奔放にベースが疾駆する楽曲である。
その楽曲での、メイヨ・トンプソン (Mayo Thompson) 主導のその集団は彼の出身地である米国のミュージシャンではない。単身、彼が渡英したそこで調達したメンバー、と謂うか、ラフ・トレード・レコード (Rough Trade Record) 所属アーティスト達によってレコーディングされたモノだったのである。
その為の一員として参加していたのが、ザ・レインコーツ (The Raincoats) のベーシスト、ジーナ・バーチ (Gina Birch) なのである。

つまり、ぼくにとってのザ・レインコーツ (The Raincoats) と謂うバンドは、ジーナ・バーチ (Gina Birch) と謂うミュージシャンが所属するモノと謂う認知から始まったのだ。

そして、そんな認識を前提として、日本盤が発売された彼女達のセカンド・アルバム『オディシェイプ (Odyshape)』 [1981年発表] を入手したのである。

もし仮に、最初に購入したアルバムが、楽曲『イン・ラヴ (In Love)』を収録したファースト・アルバム『ザ・レインコーツ (The Raincoats)』だったとしたら、このバンドへのぼくの態度は随分と違うモノだったかもしれない、と今は思う。

このバンドはきっとこれこれこういうモノなのだ、と謂う単純な認識のままに、接していたのだろうと思う。つまり、最初の第一印象がそのままぬくぬくとぼくのなかでおおきくなって、それだけの存在として認知されたままだったと思うのだ。
その作品に収録されていて、彼女達を語る際に必ず引き合いにだされていた、ザ・キンクス (The Kinks) のカヴァー『ローラ (Lola)』 [オリジナル版『ローラ (Lola)』 はアルバム『ローラ対パワーマン、マネーゴーラウンド組第一回戦 (Lola Versus Powerman And The Moneygoround, Part One)』収録 1970年発表] を聴きながら、稚拙な味わいだけれども清楚なコーラス・ワークがいいねぇ、彼女達の素のままがそのまま表現されている様だ、なんて陳腐な語り口をもって、だ。

[でもその『ローラ (Lola)』にしても、表面上に聴き取る事の出来るモノはともかくとしても決して一筋縄ではいかない楽曲ではある。と、謂うのはこの曲が、主人公である男性の、トランスジェンダー (Transgender) との恋愛を主題としたモノであって、彼女達はトランスジェンド (Transgend) される側の性に属しているからだ。何故、彼女達はこの楽曲をとりあげたのだろう? から始まって、考える事はいくらでもでてくる。]

では、実際にぼくが最初に聴いた彼女達のアルバムである『オディシェイプ (Odyshape)』はどうなのかと謂うと、なんだか得体の知れない作品、と謂うのがぼくの第一印象だった。
声は、彼女達の声だ。だが、それを支える演奏がまるで違う。ひとつの形容、きまりきった修辞をそこに当て嵌める事が出来ない。
一言で謂えば、困惑したのだ。

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その作品での彼女達には、パーマネントなドラマーが不在だ。その代わりに、彼女達をバック・アップするかたちで、ロバート・ワイアット (Robert Wyatt) やチャールズ・ヘイワード (Charles Hayward) 等が参加している。
錚々たる人物達だ。陳腐な表現をしてしまえば、幼稚園児の運動会でのスプーン・リレー (An Egg‐and‐spoon Race) にトップ・アスリート達が駆り出されている様な光景だ [と、今のぼくには謂えるが、彼等の前身に疎かった当時のぼくの視点では、レッド・クレイオラ (The Red Crayola) の先の楽曲と同様に、レーベル・メイトの援助の様にしかみえなかったのも、事実ではある]。
[上掲写真はこちらから。]

だから、彼女達の演奏をそのまま味わうのではなくて、彼女達と共演している彼等の演奏を聴いている様な趣きにもなる。そして、それが次第に、一体、どちらが主導権を握っているのかが解らなくなってくる。
聴き方によっては、彼女達を素材にして、彼等が思うが侭に、自身の音楽性を発揮しているとも思える。また、聴き方を変えると、そんな彼等を呑み込んで充分に咀嚼し彼等をむしゃぶり尽くした結果の音楽にも思える。
そして、その音楽が一定の形式に囚われない自由な弛緩とした時間、と同時に、とてつもない緊張と波瀾に満ちたモノに聴こえてきてしまうのだ。

この作品に出逢った当時、バンド名にひっかけて、雨の降る日によく聴いていた。
傘をさせばどこへもいけるのに、しかも、傘はそこにあるのに、敢えてここにいる。
自らの意思で、自分自身の自由を拘束する快感、束縛と謂う名の自由が、この作品と共にあった。
それがこの作品や、彼女達の音楽を理解した結果なのかどうかは解らない。そんな聴き方は、却って誤解を産む遠因なのかもしれないが、ぼくにとっては決して居心地の悪いモノではなかった。
そうやって安閑としていると、アルバムの最終楽曲『ゴー・アウェイ (Go Away)』で、次なる行動を促される様な、いたたまれない感情が沸き起こるのであった。

次回は「」。
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