2008.11.04.20.26
彼女の作品の中で、最も知られているのが、小倉百人一首に選ばれた、次に紹介する歌であろう。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

出典は、『千載和歌集(Senzai Wakashu)』。その詞書によれば、この歌を詠んだ謂れは次の通りである。
陰暦の二月[今の暦では三月]の月明かりが美しい夜、関白(Kampaku) 藤原教通(Fujiwara no Norimichi)邸で女房達が語り明かしていた時の事。周防内侍が横になりたくなって、ふと「枕が欲しい」と呟いたところ、「これを枕に」と御簾の下から腕が差し出された。それは大納言(Dainagon) 藤原忠家のもの。
その時の、周防内侍の返答がこの歌である。
それに対する大納言(Dainagon) 藤原忠家の返歌は、こちらをご覧頂くとして、随分と知的な歌であると同時に媚惑的な歌だなぁというのが、個人的な第一印象。
「かいな」が、「腕[かいな]」と「かいなし[~する甲斐がないの意]」の掛詞(Kakekotoba)であるとか、「枕」と「立つ」は、「夢」の縁語であるとかいう技巧的な部分は、さることながら。
腕を差し出す男目線で観れば、「アソビ?それとも本気?」と問いかけられている様なもので、しかも、腕を差し出した男としては、その言葉のウラにあるモノを、誘惑とも挑発とも嘲笑とも、如何様にも解釈出来てしまう。
つい悪戯心で差し出した己の腕を、御簾からひく事もそのまま腕枕に提供する事も躊躇われてしまうのである。
大袈裟に言えば「逝くも地獄退くも地獄」という訳で、では、その地獄を大納言(Dainagon) 藤原忠家は、どう切り抜けたか?
それは、こちらをご覧下さい(笑)。
余談だけれども、同じ様なシチュエーションで、からかい半分に女性を挑発したものの、その相手からあまりにも鮮やかな切り返しにあって、なす術もなかった哀しいオトコのエピソードは『十訓抄』は「第三 人倫を侮らざる事」で読む事が出来ます。からかった男性は、中納言(Chunagon) 藤原定頼。からかわれた女性は、小式部内侍といいます。
閑話休題。
周防内侍は、そんな歌をいくつも詠んだ。例えば、
恋ひわびて ながむる空の 浮雲や わが下もえの けぶりなるらん
「下もえ」とは、「心中密かに燃える恋心」の意で、下の句は「わたしが心密かに燃やしている恋心から燃え立つ煙に違いない」と解釈出来る。
だけれども、「下もえのけぶり」ということばの並びが、何となくセクシィな、淫美な響きを持っている様に想える、と書くのは、下衆の勘ぐりというべきなのだろうか?
出典は『金葉和歌集(Kin'yo Wakashu)』。
山桜 をしむ心の いくたびか ちる木のもとに 行きかへるらむ
夜をかさね 待ちかね山の 郭公 雲ゐのよそに 一声ぞきく
何れの歌に登場する、山桜(Prunus Serrulata)も郭公(Lesser Cuckoo)も、その花鳥風月とそれに表象される季節の移り変わりを表現しているのは勿論だが、それらに準えて描写しているのは、己の恋愛対象への想いなのである。
『千載和歌集(Senzai Wakashu)』にある前者の歌では、散る山桜(Prunus Serrulata)を惜しむ風を装いながら、その山桜(Prunus Serrulata)の許にある愛人宅から還り難い[山桜(Prunus Serrulata)の花びらは散り去る事は出来るけれども、そうもきっぱりとは離れがたい]己の心情を詠う。
『新古今和歌集(Shin Kokin Wakashu)』にある後者の歌では、夏を告げる郭公(Lesser Cuckoo)を待ち侘びる風情でありながらも、恋人が己の宅に現れるのを「待ちかね」ているのだ。
ところで、この投稿記事を書いているのは11月。
これまでに紹介したのは殆どが、春の歌。春の様な華やいだ恋心を自由闊達に詠った恋の歌もよいけれども、秋から冬へと向かう今の季節にぴったりな歌を紹介して、本稿の終りとします。
出典は『新古今和歌集(Shin Kokin Wakashu)』です。
かくしつつ 夕の雲となりもせば あはれかけても 誰かしのばむ
その意は次の通りです。
(天涯孤独な境遇で)隠棲している最中に、夕辺の雲の様に消えてしまったら、いったい誰が心にかけて偲んでくれるだろうか(誰も偲んでくれないだろう)。
挽歌をも想わせる、しみじみといい歌だなぁと、つい想いに耽ってしまうけれども、その理由は書きません。
次回は「し」。
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