2018.11.13.08.43
件名はその映画の原題を平仮名に書き下したモノなのだが、表記としてはこれで正しいのだろうか。大学での第2外国語 (Second Foreign Language) は独語 (Deutsche Sprache) を履修したのだが、いささか心許ない。
その映画の邦題と原題は、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海 (Impressionen Unter Wasser)』と謂う。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) の最期の監督作品、2002年の作品である。
作品冒頭、監督自らが出演し、これから映し出される映像の簡単な紹介をする。1902年産まれの彼女は、当時、100歳。とても、信じられない。
彼女の晩年と、本作制作の逸話として語られる挿話に次の様なモノがある。
1973年、つまり、彼女が71歳の際に、51歳と偽って、ダイビング・ライセンス (Diving Certification) を取得したと謂うのだ。
71歳の老女が51歳の熟女として通用する訳がない。その差は、20歳だ。そんな馬鹿な。
と、その逸話を知った当時は思った。
いや、でもこの作品冒頭の100歳の彼女を目の当たりにすると、そんな怪しげな逸話も、とたんに信憑性をもってくる。
純粋に美しく、かわいらしい、白髪の女性の映像が、たんたんとそこに映し出され、自作を語っているのである。
監督自らの前説が終わると本編である海中シーンが始まる。
不意にこみ上げてくるモノがある。
だがそれは、おそらく、目の前に映し出されている映像とは別の事による筈だ。
100歳の映画監督が辿り着いた、美しさがそこにあるからだ。そう思えばこその感慨なのである。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) と謂う映画監督の名前で喚起されるみっつのドキュメンタリー作品 [それらはプロパガンダ映画 (Propaganda Film) の典型としても知られている] 即ち映画『信念の勝利 (Sieg des Glaubens)』 [1933年制作]、映画『意志の勝利
(Triumph des Willens)』 [1935年制作] そして映画『オリンピア
(Olympia)』1938年制作] は随分昔に観た。
だから最近、それ以外の彼女の監督作品群を発表年代順にみていった。その掉尾としてみたのが本作なのである。
それらの作品群を観ていくと、気づかされる事がひとつある。その中に情景として登場する山岳やその背景である天候の描写が、そっくりなのだ。つまり、みっつのドキュメンタリー作品、中でも映画『オリンピア
(Olympia)』1938年制作] に映し出される、肉体やその動きから描き出される美しさは、そのまま、それらの作品群での自然の描写と共通しているのである。
逆光のなか、強いコントラストの中に、山岳も肉体も浮かび上がるのである。しかも、前者が常に麓から頂上を仰ぎ見る様に撮影されているのと同様、後者も低い位置からみあげる様にして撮影されているのである。彼女は、山岳を撮影するかの様に、みっつの作品では、肉体美を追求していたのである。
そんな認識でもって、彼女がヌバ族 (Nuba Peoples) を撮影した作品集『ヌバ - 遠い星の人びと (Die Nuba [The Last Of The Nuba])』 [1973年刊行] を観ると、さらにその認識は強まる。その作品に於ける彼女の意図は、みっつの作品となにも変わらない。逆に観れば、みっつの作品で彼女が求めていたモノはその写真集から如実に解る。彼女の意識の中では、決してプロパガンダ映画 (Propaganda Film) を創ろうとはしていなかったのだろう、と。さもなければ、プロパガンダ映画 (Propaganda Film) を口実として、そこに自身のそんな美意識を全面に展開させたのだ、と。

そんな彼女が、海中へと向かうのである。これまで、常にあおぎみていた映像を撮影し、その映像美で観客を堪能させてきた彼女が、本作品ではうつむいて美を追求しようとする。
[上掲画像はこちらから。]
映像に登場するのは、水中を泳ぐさかなよりも、海底を蠢く蟲の方が多い。脊椎動物 (Vertebrata) よりも無脊椎動物 (Invertebrate) の方が多く登場する。しかも、少数派の脊椎動物 (Vertebrata) の殆どは、泳ぐと謂うよりも海底を這う様なモノの方が多い様な気がする。
少なくとも、映像の殆どは、海底を背景としている。
だから、観ているうちに、そこに映し出されている筈の個体と背景である海底との識別が困難になってくる。いや、それ以前に、その個体のどちらがまえで、どちらがうしろかも怪しくなっている。勿論、それがその生物が生き抜く為に与えられた保護色 (Crypsis) や擬態 (Mimicry) と謂う能力ではあろう。しかし、映像はその能力をみやぶろうとは一切せず、むしろ、積極的にその生物に騙されようとしているかの様なのだ。
そうやって観ていくと、海中のある情景を捉えた映像であると謂うよりも、もっと抽象的なモノへとアプローチしていると看做した方が、いいかもしれない。つまり、造形と色彩、そこにある美しさだ。名も知らぬ [映像作品では一切、そうした説明は排除されている] 生物達の生態と謂う意味さえも、そこでは喪わされているのだ。単純に、きれいなかたちときれいないろがうつっている、そう思っていた方がいい。
そんなかたちやいろが、縦横無尽、おもうがままに蠢いているのだ。それを生の謳歌とよんでもいいのかもしれない。
カメラは時折、そこから視線をずらす。すると、海中の遠景のひとつとして、レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) がいる。背景であるみずと同色のウェットスーツ (Wet Suit) を着た彼女の、ゆらめく髪が、黄金色に輝いている。
本作はレニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) の作品と謂うよりも、その撮影監督ホルスト・ケットナー (Horst Kettner) による方が大きいのではないか、ふと、そんな気もしてしまうが、そんな想いは海中にある彼女の姿を観る事によって、かきけされてしまう。時に、水中カメラ (Underwater Camera) を携え、時に、撮影すべき場所をカメラに指示しているのだ。
仮令、彼女が海底に自ら潜らなくとも、本作品の編集は彼女が行っている。それだけでも、この作品は彼女の作品であるのに違いはない。ホルスト・ケットナー (Horst Kettner) の撮影した素材を取捨選択し、映像によるひとつの世界を呈示したのは、その作業を行なった彼女であるからだ。
映像の終盤近くになって、これまでずっと下を観続けてきた映像は次第に、水平方向へとおもてをあげる。これまで脇役に徹してきたおよぐさかながようやくここで登場する。
ぼく達にも、どこか別の作品、別の映像作家によって観てきた映像、馴染み深い映像が登場するのだ。これまで観てきた映像の緊張から解放された様にも思える。
カメラはさらにうえへうえへと視線をあげる。それはかつて彼女の作品群に映し出された山岳の美しさにも通底するモノの様にも思える。
あおい海の底にまで届く太陽の存在にきづいて、神々しいと謂う表現がふと脳裏に浮かんだ瞬間、そこで映像は終わる。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) と謂う映像作家の、遺作がこれなのだ。
次回は「あ」。
附記:
本作品の音楽はジョルジオ・モロダー (Giorgio Moroder) が担当している。丁寧ないい仕事だと思う。
仮にヴァンゲリス (Vangelis) だったら、どうなっただろうと思う時もないわけではない。
その映画の邦題と原題は、『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海 (Impressionen Unter Wasser)』と謂う。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) の最期の監督作品、2002年の作品である。
作品冒頭、監督自らが出演し、これから映し出される映像の簡単な紹介をする。1902年産まれの彼女は、当時、100歳。とても、信じられない。
彼女の晩年と、本作制作の逸話として語られる挿話に次の様なモノがある。
1973年、つまり、彼女が71歳の際に、51歳と偽って、ダイビング・ライセンス (Diving Certification) を取得したと謂うのだ。
71歳の老女が51歳の熟女として通用する訳がない。その差は、20歳だ。そんな馬鹿な。
と、その逸話を知った当時は思った。
いや、でもこの作品冒頭の100歳の彼女を目の当たりにすると、そんな怪しげな逸話も、とたんに信憑性をもってくる。
純粋に美しく、かわいらしい、白髪の女性の映像が、たんたんとそこに映し出され、自作を語っているのである。
監督自らの前説が終わると本編である海中シーンが始まる。
不意にこみ上げてくるモノがある。
だがそれは、おそらく、目の前に映し出されている映像とは別の事による筈だ。
100歳の映画監督が辿り着いた、美しさがそこにあるからだ。そう思えばこその感慨なのである。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) と謂う映画監督の名前で喚起されるみっつのドキュメンタリー作品 [それらはプロパガンダ映画 (Propaganda Film) の典型としても知られている] 即ち映画『信念の勝利 (Sieg des Glaubens)』 [1933年制作]、映画『意志の勝利
だから最近、それ以外の彼女の監督作品群を発表年代順にみていった。その掉尾としてみたのが本作なのである。
それらの作品群を観ていくと、気づかされる事がひとつある。その中に情景として登場する山岳やその背景である天候の描写が、そっくりなのだ。つまり、みっつのドキュメンタリー作品、中でも映画『オリンピア
逆光のなか、強いコントラストの中に、山岳も肉体も浮かび上がるのである。しかも、前者が常に麓から頂上を仰ぎ見る様に撮影されているのと同様、後者も低い位置からみあげる様にして撮影されているのである。彼女は、山岳を撮影するかの様に、みっつの作品では、肉体美を追求していたのである。
そんな認識でもって、彼女がヌバ族 (Nuba Peoples) を撮影した作品集『ヌバ - 遠い星の人びと (Die Nuba [The Last Of The Nuba])』 [1973年刊行] を観ると、さらにその認識は強まる。その作品に於ける彼女の意図は、みっつの作品となにも変わらない。逆に観れば、みっつの作品で彼女が求めていたモノはその写真集から如実に解る。彼女の意識の中では、決してプロパガンダ映画 (Propaganda Film) を創ろうとはしていなかったのだろう、と。さもなければ、プロパガンダ映画 (Propaganda Film) を口実として、そこに自身のそんな美意識を全面に展開させたのだ、と。

そんな彼女が、海中へと向かうのである。これまで、常にあおぎみていた映像を撮影し、その映像美で観客を堪能させてきた彼女が、本作品ではうつむいて美を追求しようとする。
[上掲画像はこちらから。]
映像に登場するのは、水中を泳ぐさかなよりも、海底を蠢く蟲の方が多い。脊椎動物 (Vertebrata) よりも無脊椎動物 (Invertebrate) の方が多く登場する。しかも、少数派の脊椎動物 (Vertebrata) の殆どは、泳ぐと謂うよりも海底を這う様なモノの方が多い様な気がする。
少なくとも、映像の殆どは、海底を背景としている。
だから、観ているうちに、そこに映し出されている筈の個体と背景である海底との識別が困難になってくる。いや、それ以前に、その個体のどちらがまえで、どちらがうしろかも怪しくなっている。勿論、それがその生物が生き抜く為に与えられた保護色 (Crypsis) や擬態 (Mimicry) と謂う能力ではあろう。しかし、映像はその能力をみやぶろうとは一切せず、むしろ、積極的にその生物に騙されようとしているかの様なのだ。
そうやって観ていくと、海中のある情景を捉えた映像であると謂うよりも、もっと抽象的なモノへとアプローチしていると看做した方が、いいかもしれない。つまり、造形と色彩、そこにある美しさだ。名も知らぬ [映像作品では一切、そうした説明は排除されている] 生物達の生態と謂う意味さえも、そこでは喪わされているのだ。単純に、きれいなかたちときれいないろがうつっている、そう思っていた方がいい。
そんなかたちやいろが、縦横無尽、おもうがままに蠢いているのだ。それを生の謳歌とよんでもいいのかもしれない。
カメラは時折、そこから視線をずらす。すると、海中の遠景のひとつとして、レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) がいる。背景であるみずと同色のウェットスーツ (Wet Suit) を着た彼女の、ゆらめく髪が、黄金色に輝いている。
本作はレニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) の作品と謂うよりも、その撮影監督ホルスト・ケットナー (Horst Kettner) による方が大きいのではないか、ふと、そんな気もしてしまうが、そんな想いは海中にある彼女の姿を観る事によって、かきけされてしまう。時に、水中カメラ (Underwater Camera) を携え、時に、撮影すべき場所をカメラに指示しているのだ。
仮令、彼女が海底に自ら潜らなくとも、本作品の編集は彼女が行っている。それだけでも、この作品は彼女の作品であるのに違いはない。ホルスト・ケットナー (Horst Kettner) の撮影した素材を取捨選択し、映像によるひとつの世界を呈示したのは、その作業を行なった彼女であるからだ。
映像の終盤近くになって、これまでずっと下を観続けてきた映像は次第に、水平方向へとおもてをあげる。これまで脇役に徹してきたおよぐさかながようやくここで登場する。
ぼく達にも、どこか別の作品、別の映像作家によって観てきた映像、馴染み深い映像が登場するのだ。これまで観てきた映像の緊張から解放された様にも思える。
カメラはさらにうえへうえへと視線をあげる。それはかつて彼女の作品群に映し出された山岳の美しさにも通底するモノの様にも思える。
あおい海の底にまで届く太陽の存在にきづいて、神々しいと謂う表現がふと脳裏に浮かんだ瞬間、そこで映像は終わる。
レニ・リーフェンシュタール (Leni Riefenstahl) と謂う映像作家の、遺作がこれなのだ。
次回は「あ」。
附記:
本作品の音楽はジョルジオ・モロダー (Giorgio Moroder) が担当している。丁寧ないい仕事だと思う。
仮にヴァンゲリス (Vangelis) だったら、どうなっただろうと思う時もないわけではない。
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