2018.11.06.08.42
は、映画『用心棒
(Yojimbo)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1961年制作] の登場人物のひとりで、藤田進 (Susumu Fujita) が演じている。その物語に登場するのは、ほんの僅かな時間である。
物語の舞台は、ふたつの勢力が対立しているちっぽけな宿場町である。そこに桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune )] と自称する、ひとりの素浪人が顕れるところから物語は始まる。その男はその宿場町の情勢を知って、画策を開始するが、彼の真意は当初は解らない。
桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) は、ふたつの勢力の一方に、自らの実力をみせしめて、そこに用心棒 (Yojimbo) として雇われる。そこには先客としてもうひとりの用心棒 (Yojimbo) がいる。その男こそが用心棒本間先生 (Homma) [演:藤田進 (Susumu Fujita)] なのである。
桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) を獲得した前祝いと称し、酒宴が設けられ、そこに用心棒本間先生 (Homma) も招かれるが、いささか彼の機嫌は悪い。と、謂うのも、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) に確約した報酬があまりに破格であるが為に、自身への報酬の額の低さを恨みに思っている様なのである。
そしてこう謂う。
「ま、いずれ俺の値うちを見せるときが来る」
そんな放言を受けて、その当日に出入りと決まる。決戦のときがきたのだ。
事態は風雲急を告げ、既にクライマックス直前の緊張がそこにはしる。

ところが、用心棒本間先生 (Homma) の次の登場シーンはこうなのだ。
裏庭から塀をよじ登っているのである。塀の突端に辿り着くや否や、その光景をずっと桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) が凝視めている事に気づく。用心棒本間先生 (Homma) は彼に掌をふり、それに応えて桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) も掌をふる。そして塀のむこうに飛び降りるや否や脱兎の如く、用心棒本間先生 (Homma) は遁走していくのである。
彼の謂う「俺の値うち」とは、そこで発揮されたのである。
[上掲画像はこちらから。画面奥が用心棒本間先生 (Honma)、手前の背中が桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake)]
用心棒本間先生 (Homma) の登場しているシーンは、単純なユーモアだ。
ことさらに自己を誇示した人物が、ほんの一瞬の後に、その底の浅さを馬脚させてしまう、と謂うのは、なにも用心棒本間先生 (Homma) に限っての事ではない。よくある物語のよくあるセオリーのそのひとつだ。
この映画でも、この挿話の直前、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) がおのれの実力をまざまざとみせつけるシーンでも、似た様な展開がある。桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) に因縁をつけ彼を笑い者にした、賽の目の六 (Roku) [演:ジェリー藤尾 (Jerry Fujio)] を一刀両断としたシーンである。その賽の目の六 (Roku) の物語とある意味でおなじ構造をしているのである。
だけれども、ならば何故、その役を藤田進 (Susumu Fujita) に配役したのかがよく解らない。
賽の目の六 (Roku) とは違って、用心棒本間先生 (Homma) は、どうみてもコメディ・リリーフなのだから。
映画『用心棒
(Yojimbo)』と謂う作品は、対立するふたつの勢力の正面衝突を題材としているのにも関わらずに、それを回避させ遅延させる事に、最大限の努力が払われている物語である。どこまでもどこまでも大団円がくるのを先延ばしにして、そこに幾つもの挿話、人間模様を描いてみせる。その結果、端役のひとりひとりにまで、物語の焦点があたっているかの様にも思える。
つまり、回避と遅延によって、物語の緊張感を持続させているのだ。
用心棒本間先生 (Homma) とは、その為の装置と看做す事が出来る。
物語が一瞬、そこで弛緩するからだ。はりつめたモノがそこで解き放たれ、その結果、そこにかるみが生じる。
用心棒本間先生 (Homma) とはその為にのみ構築された役なのであろう。
ついでに綴ってしまえば、そんなかるみの機能をより徹底させたのが、この映画の続編として看做される映画『椿三十郎
(Sanjuro)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1962年制作] なのである。
用心棒本間先生 (Homma) がこの物語に登場している際にはまだ、物語本来の敵役となる新田の卯之助 (Unosuke) [演:仲代達矢 (Tatsuya Nakadai)] はこの舞台には登場していない。
従って、もしなんの事前情報も持ち得なかったとしたら、映画の題名にある『用心棒
(Yojimbo)』とは用心棒本間先生 (Homma) と誤読し得る可能性がある。さもなければ、三つ巴の争いを期待させるのか。
否、そこまで制作者側が目論んでいなくとも、遁走のシーンをより愉快な挿話としたければ、その直前の彼は、いかにも凄腕の剣客であるかの様な押し出しは必須だ。
そのふたつの落差を演じさせる為の、藤田進 (Susumu Fujita) のキャスティングなのであろう。
と、結論づけるのは簡単なのだけれども、それだけでは何故か、落ち着かない。映画『用心棒
(Yojimbo)』の世界だけに限定されないモノが何故か、浮かんでしまう。
藤田進 (Susumu Fujita) と謂えば、黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督の処女作『姿三四郎
(Sanshiro Sugata)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1943年制作] とその続編『續姿三四郎
(Sanshiro Sugata Part II)』 [黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督作品 1945年制作] で主演を演じた人物だ。その人物が、その映画のなかで、主人公を演じる三船敏郎 (Toshiro Mifune ) に、あとをよろしくと謂わんばかりに掌をふるのである。
だからこそ、黒澤明 (Akira Kurosawa) 作品の次作である映画『椿三十郎
(Sanjuro)』の主役、椿三十郎 (Sanjuro) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune )] は、用心棒本間先生 (Homma) の様な、飄々としたかるみが横溢している様にもみえる。
しかも、それだけでない。
数々の作品の中で主役をこなしてきた俳優が、加齢と共に、その地位を去らなければならない。脇に徹する覚悟もいずれは必要だ。
とかなんとか、考えてしまうのである。
勿論、その後の三船敏郎 (Toshiro Mifune ) とはこの妄想はまったく関係はないのだが。
次回は「い」。
附記:
この映画の舞台である宿場町に桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) が顕れるや否や、彼は賽の目の六 (Roku) 達にからまれて莫迦にされてしまう。そんな光景を目の当たりにした、番太の半助 (Hansuke [演:沢村いき雄 (Ikio Sawamura)] に「どいつか一人の腕の一本でもぶった斬ってみせりゃあ」云々と窘められてしまう。彼はこの宿場町の目明しであって、対立するふたつの勢力のあいだをあたかも幇間の様に行き来している人物なのである。腕のつよい男を紹介して、それで仲介料をせしめているのである。
だから、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) は再び、賽の目の六 (Roku) 達に遭遇した際、その言葉通りに彼の腕をぶった斬ってしまう。
物語の舞台は、ふたつの勢力が対立しているちっぽけな宿場町である。そこに桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) [演:三船敏郎 (Toshiro Mifune )] と自称する、ひとりの素浪人が顕れるところから物語は始まる。その男はその宿場町の情勢を知って、画策を開始するが、彼の真意は当初は解らない。
桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) は、ふたつの勢力の一方に、自らの実力をみせしめて、そこに用心棒 (Yojimbo) として雇われる。そこには先客としてもうひとりの用心棒 (Yojimbo) がいる。その男こそが用心棒本間先生 (Homma) [演:藤田進 (Susumu Fujita)] なのである。
桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) を獲得した前祝いと称し、酒宴が設けられ、そこに用心棒本間先生 (Homma) も招かれるが、いささか彼の機嫌は悪い。と、謂うのも、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) に確約した報酬があまりに破格であるが為に、自身への報酬の額の低さを恨みに思っている様なのである。
そしてこう謂う。
「ま、いずれ俺の値うちを見せるときが来る」
そんな放言を受けて、その当日に出入りと決まる。決戦のときがきたのだ。
事態は風雲急を告げ、既にクライマックス直前の緊張がそこにはしる。

ところが、用心棒本間先生 (Homma) の次の登場シーンはこうなのだ。
裏庭から塀をよじ登っているのである。塀の突端に辿り着くや否や、その光景をずっと桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) が凝視めている事に気づく。用心棒本間先生 (Homma) は彼に掌をふり、それに応えて桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) も掌をふる。そして塀のむこうに飛び降りるや否や脱兎の如く、用心棒本間先生 (Homma) は遁走していくのである。
彼の謂う「俺の値うち」とは、そこで発揮されたのである。
[上掲画像はこちらから。画面奥が用心棒本間先生 (Honma)、手前の背中が桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake)]
用心棒本間先生 (Homma) の登場しているシーンは、単純なユーモアだ。
ことさらに自己を誇示した人物が、ほんの一瞬の後に、その底の浅さを馬脚させてしまう、と謂うのは、なにも用心棒本間先生 (Homma) に限っての事ではない。よくある物語のよくあるセオリーのそのひとつだ。
この映画でも、この挿話の直前、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) がおのれの実力をまざまざとみせつけるシーンでも、似た様な展開がある。桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) に因縁をつけ彼を笑い者にした、賽の目の六 (Roku) [演:ジェリー藤尾 (Jerry Fujio)] を一刀両断としたシーンである。その賽の目の六 (Roku) の物語とある意味でおなじ構造をしているのである。
だけれども、ならば何故、その役を藤田進 (Susumu Fujita) に配役したのかがよく解らない。
賽の目の六 (Roku) とは違って、用心棒本間先生 (Homma) は、どうみてもコメディ・リリーフなのだから。
映画『用心棒
つまり、回避と遅延によって、物語の緊張感を持続させているのだ。
用心棒本間先生 (Homma) とは、その為の装置と看做す事が出来る。
物語が一瞬、そこで弛緩するからだ。はりつめたモノがそこで解き放たれ、その結果、そこにかるみが生じる。
用心棒本間先生 (Homma) とはその為にのみ構築された役なのであろう。
ついでに綴ってしまえば、そんなかるみの機能をより徹底させたのが、この映画の続編として看做される映画『椿三十郎
用心棒本間先生 (Homma) がこの物語に登場している際にはまだ、物語本来の敵役となる新田の卯之助 (Unosuke) [演:仲代達矢 (Tatsuya Nakadai)] はこの舞台には登場していない。
従って、もしなんの事前情報も持ち得なかったとしたら、映画の題名にある『用心棒
否、そこまで制作者側が目論んでいなくとも、遁走のシーンをより愉快な挿話としたければ、その直前の彼は、いかにも凄腕の剣客であるかの様な押し出しは必須だ。
そのふたつの落差を演じさせる為の、藤田進 (Susumu Fujita) のキャスティングなのであろう。
と、結論づけるのは簡単なのだけれども、それだけでは何故か、落ち着かない。映画『用心棒
藤田進 (Susumu Fujita) と謂えば、黒澤明 (Akira Kurosawa) 監督の処女作『姿三四郎
だからこそ、黒澤明 (Akira Kurosawa) 作品の次作である映画『椿三十郎
しかも、それだけでない。
数々の作品の中で主役をこなしてきた俳優が、加齢と共に、その地位を去らなければならない。脇に徹する覚悟もいずれは必要だ。
とかなんとか、考えてしまうのである。
勿論、その後の三船敏郎 (Toshiro Mifune ) とはこの妄想はまったく関係はないのだが。
次回は「い」。
附記:
この映画の舞台である宿場町に桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) が顕れるや否や、彼は賽の目の六 (Roku) 達にからまれて莫迦にされてしまう。そんな光景を目の当たりにした、番太の半助 (Hansuke [演:沢村いき雄 (Ikio Sawamura)] に「どいつか一人の腕の一本でもぶった斬ってみせりゃあ」云々と窘められてしまう。彼はこの宿場町の目明しであって、対立するふたつの勢力のあいだをあたかも幇間の様に行き来している人物なのである。腕のつよい男を紹介して、それで仲介料をせしめているのである。
だから、桑畑三十郎 (Sanjuro Kuwabatake) は再び、賽の目の六 (Roku) 達に遭遇した際、その言葉通りに彼の腕をぶった斬ってしまう。
- 関連記事
-
- あかしあのあめがやむとき (2018/11/20)
- いんぷれじおんねんうんたあゔぁっさあ (2018/11/13)
- ようじんぼうほんませんせい (2018/11/06)
- ぎょー (2018/10/30)
- しぼうゆうぎ (2018/10/23)