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2018.10.23.08.55

しぼうゆうぎ

とは、もしかしたら見果てぬ夢 (The Impossible Dream) の別称なのかもしれない。
勿論、その名を冠する映画『死亡遊戯 (Game Of Death)』 [ロバート・クローズ (Robert Clouse)、ブルース・リー (Bruce Lee)、サモ・ハン・キンポー (Sammo Hung Kam-Bo) 監督作品 1978年制作] もそのひとつだ。尤も、決して褒める事の出来ない残滓の様な作品ではあるのだが。

最初に断っておくが、その名を冠するもうひとつの映画『ブルース・リー In G.O.D 死亡的遊戯 (Bruce Lee In G.O.D Game Of Death)』 [大串利一 (Toshikazu Ogushi)、ブルース・リー (Bruce Lee) 監督作品 2000年制作] は未見だ。
だから、これから綴る駄文はすこし割り引いて読んでもらった方が良いと思う。
そして、ぼくの中途半端な見解をせせら笑ってもらいたい。

映画『燃えよドラゴン (Enter The Dragon)』 [ロバート・クローズ (Robert Clouse)、ブルース・リー (Bruce Lee) 監督作品 1973年制作] の日本公開が1973年、「最後のブルース・リー (Bruce Lee At Last)」と謳われた映画『ドラゴンへの道 (The Way Of The Dragon)』 [ブルース・リー (Bruce Lee) 監督作品 1972年制作] の日本公開が1975年。この、たったの2年間で凄まじく世の中が変動した様に思われるのは、当時のぼくが小学生だったからであろうか。
後に"101匹ドラゴン (One Hundred And One Dragons)"と呼ばれる様に、次から次へと亜流が誕生したのである。その現象を詳らかに語る程の記憶も余裕もないが、少なくともこれだけは謂える。
一時的な熱狂にすぎないと誰しもが思った。だからこそ、誰しもがその消費と濫費に勤しんだのだ。しかしそれが真逆の結果となって顕れたのだ。いまの視点からみればそれは、現在までも脈々と通じるひとつの流れ、否、寧ろ、保守本流である。その当時はその流れが激流となって氾濫し始めた、まさにその時季だったのである。

その激流を産み出したのは、謂うまでもない、たった4作の主演映画を遺して逝ってしまったブルース・リー (Bruce Lee)、その人である。

小学生だった当時のぼく達は皆、彼に熱狂した。主演映画が公開される毎に、彼の特集があらゆる雑誌で繰り広げられる。
そこで、ぼく達はその存在を知ったのである。彼の5作目の主演映画となる筈だった『死亡遊戯 (Game Of Death)』の存在を、である。

ちなみに、上の文章に登場する『死亡遊戯 (Game Of Death)』とは、1978年制作の同名の映画を指してはいない。ブルース・リー (Bruce Lee) の念頭だけにあったまぼろし、未完の映画を指している。だから、現在存在している映画作品の関連商品には、リンクさせていないのだ。
以下、同様である。

images
各雑誌でのその作品のアプローチの仕方は、ほぼ同じである。未完成である事、格闘シーンしか撮影されていない事、である。
そして、それを裏付ける様に掲載されていたのが一連のスチール写真である。それは、ブルース・リー (Bruce Lee) の格闘シーン、彼の倍以上の身の丈を誇るかの様にたちはだかる黒人格闘技家ハキム (Mantis, The 5th Floor Guardian) [演:カリーム・アブドゥル=ジャバー (Kareem Abdul-Jabbar)] との闘いなのである。
[上掲画像はこちらから]

そして、その格闘シーンを捕捉する為に、次の様な趣旨の文章が掲載されていたと思う。
主人公は高い塔を昇らなければならない。各階には、彼の到着を今や遅しと待ち構えている宿敵が潜んでいる。そんな強敵を次から次へと打破して、ブルース・リー (Bruce Lee) は頂上階を目指すのだ。

今、思えば、上に綴ったその作品の構想は、まるでアレハンドロ・ホドロフスキー (Alejandro Jodorowsky) 監督の2作の映画を繋いだモノの様に思える。彼の映画『エル・トポ (El Topo)』 [1970年制作] での主人公は、拡がる砂漠の各地に棲む宿敵を打破しなければならず、もうひとつの映画『ホーリー・マウンテン (The Holy Mountain)』 [1973年制作] での主人公達は、聖なる山の頂上を目指さねばならないからだ。

と、こんな思いつきを思わず綴ってしまったが、それをそのまま、諸手を拡げて賛意が得られるとはとても思えない。
もっと簡単で解りやすい類推はいくらでもあるだろう。
例えば、小説『宮本武蔵 (Miyamoto Musashi)』 [吉川英治 (Eiji Yoshikawa) 作 19351939朝日新聞連載] を引き合いにだせば、諸国を巡って強豪達に出逢い、彼等に生死を賭けて挑む主人公の行動をそのまま、塔と謂う構造に押し込んでみた、と謂ってしまえば良い。全国行脚の武者修行と謂う横への移動を、下から上への希求へと改変させたと看做す事が出来るからだ。

ぼくがアレハンドロ・ホドロフスキー (Alejandro Jodorowsky) の2作品を妄想したのは訳がある。
塔と謂う下から上への移動を必要とする構造は、武力や闘力だけではない、別のモノをも共に高みへと誘おうと謂う要求がそこにある様に思えるからである。
つまり、『死亡遊戯 (Game Of Death)』の構想の根幹には、精神の修養とそれを必然ならしめる神秘主義 (Mysticism) 的な発想が潜んでいるのではないかと思えるのである。

大雑把に謂ってしまえば、カバラ (Kabbalah) と生命の樹 (Tree Of life) の理解の為に、タロット・カード (Tarot) に於ける大アルカナ・カード (Major Arcana) 22枚を繋げて語ったエリファス・レヴィ (Eliphas Levi) の方法論の様なモノを、ぼくは『死亡遊戯 (Game Of Death)』に妄想してしまうのである。

[勿論、小説『宮本武蔵 (Miyamoto Musashi)』を精神修養の書と読む事も可能だろう。その小説は、ひとりの剣豪の生涯に仮託した教養小説 (Bildungsroman) でもあるのだから。]

と、謂うのは、リアリズム (Realisme) と謂う観点からみると、『死亡遊戯 (Game Of Death)』の構想は極めて脆弱なのである。
そのひとつが塔を昇らなければならない必然性の存在が必須であると同時に、もうひとつ、何故、その為に各階で一騎打ちをなさねばならないのかと謂う点だ。
前者に関してはいくらでも設定可能だろう。彼の望むモノがそこにあればいいのだ。そして、そのモノとは本来、彼に属すべきモノであればいい。彼は奪われたそれを奪還する為に昇るのである。無論、自身にとって大事な人物、彼乃至彼女がそこに幽閉されていてもいい。
しかし、後者は難問である。主人公を亡き者とせんためには、そこに潜むモノが一気果敢に追撃すればいい。一騎打ちでなければならない必要性は、彼等が互いに対立しあっていると謂う様な設定が充分になされない限り説得力がない。

ここで蛇足をもって捕捉する。ぼくは決してその構想を非難しているのではない。単純に、その構想はリアリズム (Realisme) の箍が外れていると謂う根拠、寓意 (Moral) が潜んでいる可能性、一種のファンタジー (Fantasy) であると謂う指摘をしておきたいだけなのである。

そして、それ故に『死亡遊戯 (Game Of Death)』は、映画と謂う娯楽への影響よりも、それとは異なる娯楽への影響の方がおおきいのではないだろうかと思うのだ。

各階層に強敵がひとり潜んでいて、主人公は彼等と一騎討ちの闘いをせねばならない。そして、そのひとつの闘いを制覇すれば、その次の階層に赴く事が出来る。そこにはあらたなる強敵が待ち構えている。

これはなにを隠そう、幾つもある格闘ゲーム (Fighting Game) の基本設定のひとつではないか。

本来ならば、能力や技術や体力と謂うパラメータ (Parameter) だけが、そのゲーマーにとって必須の条項であるのにも関わらず、ぼく達は必ず、それ以外の設定を欲してしまうのだ。性別や年齢や出身地だけではない。対する相手とはかつて遺恨が生じていなければならず、場合によっては近親者同士の血脈を争う闘いをも欲する。
つまり、そこに物語の存在を必要とするのである。

まるで未完の構想である『死亡遊戯 (Game Of Death)』に、格闘シーンしか存在しない映像に、物語を望んでしまうのもそれと同じ理由なのである。

そしてそれ故にその欲求を、見果てぬ夢 (The Impossible Dream) と、ぼくは命名してしまうのである。

次回は「」。

附記 1. :
映画『ダイ・ハード (Die Hard)』 [ジョン・マクティアナン (John McTiernan) 監督作品 1988年制作] も、視点を変えてみれば、見果てぬ夢 (The Impossible Dream) のひとつであるかの様に、時に思えてしまうのだが。

附記 2. :
ヒロイン、ザ・ブライドもしくはブラック・マンバことベアトリクス・キドー (Beatrix Kiddo aka The Bride or Black Mamba) [演:ユマ・サーマン (Uma Thurman)] の黄色いジャンプ・スーツ (Yellow Jumpsuit) が鮮やかな、クエンティン・タランティーノ (Quentin Tarantino) 監督のふたつの映画すなわち 『キル・ビル (Kill Bill : Volume 1)』 [2003年制作] と『キル・ビル Vol.2 (Kill Bill : Volume 2)』 [2004年制作] は、『死亡遊戯 (Game Of Death)』の高みを求める指向を再び、平面上での移動へと戻した作品群の様に思える。但し、原典にみられる神秘主義 (Mysticism) 的な構想は、良きにつけ悪しきにつけ、看過されてしまっているのではないだろうか。
猶、そのふたつの映画のヒロインの、その衣装は『死亡遊戯 (Game Of Death)』に於けるブルース・リー (Bruce Lee) の意匠と全く同じ、つまりオマージュ (Homage) なのである、念の為。

附記 3. :
格闘ゲーム (Fighting Game) への影響云々と謂う点に於いては、映画『燃えよドラゴン (Enter The Dragon)』の存在とその影響力を忘れてはならない。この作品がなければ、格闘ゲーム (Fighting Game) と謂うジャンルは果たして現在の様な姿となっていただろうか。
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