fc2ブログ

2018.10.16.08.44

てれぱしー

これから綴るのはあくまでも物語内での事、つまり虚構としてのテレパシー (Telepathy) だ。
現実のぼく達の生活に於いて、その能力の実在不実在やその能力を保持している人物達の実在不実在に関しては、言及していない。

と、エクスキューズ (Excuse) を最初に明記したから、ここから後はぼくの、ぼくによる、ぼくの為の無法地帯だ。

他者の内心を解読出来る能力があったとしたら、と妄想を繰り広げると、どこまででも押し拡げる事は出来るが、そこにあるのは果たして、その能力の持ち主にとって、ユートピア (Utopia) が待っているのだろうか、と謂う疑義は生じる。
そんな能力を発揮して、文字通りに超人的な活躍をすると謂う、夢の様な人生を妄想したいのはやまやまだ。その超人的活躍が、善であろうと悪であろうと。

しかし、小説『七瀬ふたたび (Nanase Futatabi :Nanase Once More)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 作 1975年発表] を始めとする七瀬三部作 (Nanase Trilogy) の主人公、火田七瀬 (Nanase Hita) の様な生き様の方が寧ろ説得力がある様な気がする。
彼女は、おのれの能力をひた隠しにひた隠し、人目を避けて陽の当たらない場所で暮らしていこうとする。そんな未来が否定されるのは、彼女の様な特殊能力の保持者の存在を疎ましく思う集団・組織が存在するからである。彼等の追求があって始めて、火田七瀬 (Nanase Hita) は、ヒロイックな存在として物語に登場する。
彼等の存在さえなければ、火田七瀬 (Nanase Hita) は前作である小説『家族八景 (Kazoku Hakkei : Eight Family Scenes / What The Maid Saw)』 [筒井康隆 (Yasutaka Tsutsui) 作 1972年発表] に於けるそれの様に、一風変わったホーム・ドラマの登場人物のひとりにとどまっている筈だ。家政婦である彼女は、その勤務先である家族達の織りなす物語の傍観者なのであり、それ以上の存在感を得ようとはしていない。

と、続けていくとどんどんと本論から遠のいてしまう。
ぼくがここで綴りたい事はそおゆう事ではない。

テレパシー (Telepathy) に関するぼくの疑義は、その存在の有無、可能性の有無ではない。
ぼくが拘泥したいのは、そのちからを如何にして自身の思いのままに駆使出来るのだろうか、と謂う問題なのである。

その能力が発揮される対象は、あまねく全人類に及び得るのか、それとも特定の限られた人物達だけなのか、もしくは、ある一定の条件の下で初めて発揮されるのか。
単純に謂うと、能力者からみれば、本人が聴きたいと思った人物達だけが、その能力の対象となるのか、と謂う事である。

それだけではない。
物理的な距離の問題がある。能力者がいる場所からある一定の圏内にある人物達がその対象となり得るのか、それとも、この惑星上は無限にちからを発揮出来るのか、はたまた、銀河の果て (Edge Of Milky Way) までもその能力は到達可能なのか。

もしも、テレパシー (Telepathy) が物理的な面に於ける聴力だけに関するモノであるのならば、これで終わりだ。例えば、『サイボーグ009 (Cyborg 009)』 [石森章太郎 (Shotaro Ishinomori) 作 19641965週刊少年キング連載] に於けるサイボーグ003ことフランソワーズ・アルヌール (Francoise Arnoul aka Cyborg 003) であるならば、上の2点だけを考慮すればいい。
しかし、テレパシー (Telepashy) とは内心を解読する能力の事なのである。それ故、もうひとつ、考えなければならない要素がある。

ある人物の思念が解読可能だとしよう。では、その人物の思念の一体どこを解読出来るのか。逆に謂えば、本人さえも自覚していない深層心理さえもその対象となり得るのか。そして仮に可能だとしたら、能力者はそれを解析し得るのだろうか。つまり、自身が今、解読している思念は、幾層もあるであろうその人物の思念のどの階層なのか把握し得るのだろうか。

小説『家族八景 (Kazoku Hakkei : Eight Family Scenes / What The Maid Saw)』のある挿話で、火田七瀬 (Nanase Hita) が解読出来ない人物がひとり、登場する [すいません、どの挿話か現在確認出来ていません]。その人物の内心は、ここでの表現の仕方に倣うと、幾層もある筈の意識の階層が混濁している状況にある、と謂える。その小説ではその人物ただひとりの事象ではあるが、もしも仮に能力者のその能力が弱ければ、どんな対象に接しても、そこにあるのは混濁した意識ばかりがある様に感ぜられるかもしれない、とぼくは思うのだ。

さらに謂えば、人間の心理に複数の階層があるのならば、例え絶大な能力をもつモノでさえ、誤読してしまう事はあり得る事ではないのだろうか。あたかも、ある人物の発言のなかにある本音と建前を誤読してしまう様な。
少なくとも、人間の心理と謂うモノはぼく達が思っている様な単純な構造をもっていないと、ぼくは考えているのだ。重層的であり複雑に絡み合っている様に思える。

整理する。
ある物語の中に於いて、ある登場人物に縦横無尽にテレパシー (Telepathy) を駆使させるには、能力者と対象者の、人間関係と、物理的な距離と、対象者の意識のありかた [もしくは意識の深浅]、このみっつの要素について考えなければならないのだと思う。
さもなければ、こういう謂い方も出来る。
ある物語の中に於いて、ある登場人物のテレバシー (Telepathy) の能力をどこまでを限度とすべきなのか。その設定に関しては上に記したみっつの要素を勘案しなければならない、そう思うのだ。
勿論、誰に対しても、どこに対しても、どんな意識の構造であろいとも、果敢なくその能力を発揮しうる人物が存在しても、構わない。そんな神にも等しい能力の持ち主の存在が、その物語に於いて必須でありさえすれば良いのだ。

ところで、藤子・F・不二雄 (Fujiko·F·Fujio) の短編マンガに『耳太郎 (Mimitaro)』 [1976月刊マンガ少年掲載] と謂う作品がある。

将来、マンガ家になる事を願う少年がある日突然に、テレパシー (Telepathy) の能力を得たのが発端だ。その能力ははじめは微弱なモノで、発揮できる時と発揮できない時がある非常に不安定なモノだ。その能力が自身に存在したのを自覚した少年は、発見当初は欣喜雀躍する。そして、そのちからで決して知る事の出来ない事柄を知ろうとする。その能力は次第におおきなちからを得て少年の意のままに駆使出来る様になるが、それは必ずしも彼にとって有意義なもの足り得ない。ヒトが知らない事をその少年は知っている、他者には決して知られてはならない事をその少年は知っている。そんな評判が彼にたち、ヒトビトは彼を疎んじると同時に怖ろしくも感じる。少年は自身にまとわりついている噂を知る [だって彼はヒトビトの内心を解読出来るのだから]。彼はヒトを信じられなくなる。そして、次第にその能力は彼のてにあまるようになり、彼自身もその能力を恐ろしくも疎ましくも思う。しかし、彼が好む好まざるに関わらずに、他者の内心は聴こえてくるのだった。 ...。

映画『X線の眼を持つ男 (X : The Man With The X-Ray Eyes)』 [ロジャー・コーマン (Roger Corman) 監督作品 1963年制作] と、よく似た様な物語だ。

その物語は、透視能力 (Clairvoyance) を得る新薬開発に成功した科学者が、自身をその新薬の実験台として点眼 [だって眼薬だからね] する事によって、悲劇的な末路に追い込まれる物語だ。最初は洋服を透過する程度だった。おとこもおんなも老いも若いも、彼の眼からみれば、だれもがみなはだかだ。この時点では喜劇 (Comedy) にしかならない。しかし新薬の効能はそこに止まらない。つまり、次第に透過可能なモノが増えていく。あれもこれも透過されてしまう。
だから、物語を離れて、ありとあらゆる事物が透過されてしまう眼にとっては、一体どんな光景がみえるのだろうと、ぼくは恐ろしくなってしまう。
マンガ『耳太郎 (Mimitaro)』もこの映画と同趣向なのだ。

同趣向と謂っても、そのマンガ『耳太郎 (Mimitaro)』の構造は恐ろしく複雑だ。
テレパシー (Telepathy) 能力をもつ少年とは、実は、物語の発端では、主人公が制作中のマンガ作品内での話なのだ。そんな構想を得た少年が、その構想をなぞる様なかたちで、悲劇へと突き進んでいく。
しかも、そのマンガ作品の存在自体によって、彼とこころを同じくする友人達との友情が完全に決裂してしまう。彼が人間不信になり自暴自棄になる直接の引き金となるのが、自らが産み出した、そのマンガ作品なのである。

images
しかし、テレパシー (Telepathy) 能力をもつのは、彼だけではない。だがその人物でさえも、彼にとって救いにはならない。何故ならば、火田七瀬 (Nanase Hita) が暮らしていた生活をより徹底させて、その人物は活きてきたからだ。
誰とも交わらない、孤独な境涯なのである。そんな生活を自身もしなければならないのだろうか。彼はそこでも絶望する。
[上掲画像はこちらから]

次回は「」。

附記:
主人公が少年であるが故だろうか、マンガ『耳太郎 (Mimitaro)』は最悪のシナリオだけは回避している。
関連記事

theme : ふと感じること - genre :

i know it and take it | comments : 0 | trackbacks : 0 | pagetop

<<previous entry | <home> | next entry>>

comments for this entry

only can see the webmaster :

tackbacks for this entry

trackback url

https://tai4oyo.blog.fc2.com/tb.php/2644-c991ac82

for fc2 blog users

trackback url for fc2 blog users is here