2018.08.28.08.56
トム・サヴィーニ (Tom Savini) の監督作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド / 死霊創世紀
(Night Of The Living Dead)』 [1990年制作] は、ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero)の監督作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド / ゾンビの誕生
(Night Of The Living Dead)』 [1968年制作] のリメイク作品である。
オリジナル作品を手掛けたジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 自らが、リメイク作品の脚本を担当している。
ふたつの作品には物語の構造にさしたる違いはない。
ある日突然に蘇った屍者 (Living Dead) 達に襲撃され、やむにやむなく辿り着いた一軒家で籠城のやむなきに至った男女達の、一夜の物語である。
しかし、同種の物語とは謂いながら、ふたつの作品には明確な差異があり、このふたつの作品をみくらべた観客は否応もなくそれに気づかざるを得ない。
それは、籠城する男女のひとり、バーバラ (Barbra) の立ち居振る舞いに、である。オリジナル作品ではジュディス・オーディア (Judith O'Dea ) が演じ、リメイク作品ではパトリシア・トールマン (Patricia Tallman) が演じた。作劇上、ヒロイン (Heroine) とも呼べる地位にある。
オリジナル作品では、自身を襲う状況に混乱し悲嘆にくれるばかりで、籠城する彼等にとってはお荷物とでも謂うしかない存在だ。それ故に、その一軒家が"落城"する際には、屍者 (Living Dead) と化した実の兄であるジョニー・ウィルソン (Johnny) [演:ラッセル・ストライナー (Russell Streiner)] に襲われて亡き者となる。
一方のリメイク作品では、その真逆と謂って良い。自身を襲う現状に応じて、闘いそして生き延びる事に第一の主眼を置く。謂わば、闘うヒロイン (Battle Heroine) へと彼女が覚醒したと謂っても良い。
バーバラ (Barbra) と謂う女性の扱いひとつをみれば、1968年と1990年との間にあった、社会の動きやそれを受けての映画の作劇術、そこにある変化に思いを馳せる事も出来るだろう。
そして、バーバラ (Barbra) の描写と設定が変わる事によって、その他の人物の描写や物語上に於ける位置も自ずと変わってくる。
オリジナル作品に於いて、バーバラ (Barbra) の不甲斐なさを常に救い助けるのが黒人男性ベン (Ben) [演:デュアン・ジョーンズ (Duane Jones) オリジナル作品 / トニー・トッド (Tony Todd) リメイク作品] であり、彼が常にそこでの窮状を克服する為に孤軍奮闘しているのに対し、リメイク作品ではバーバラ (Barbra) の覚醒によって、作品上での彼の重要度は軽減されていく。その結果、比重を増すのが、白人男性ハリー・クーパー (Harry Cooper) [演:カール・ハードマン (Karl Hardman) オリジナル作品 / トム・トールズ (Tom Towles) リメイク作品] の存在である。
いずれの作品に於いても、ハリー・クーパー (Harry Cooper) は自己と自己の家族の保身に最大限の努力を傾けるのだが、彼の行為は結果的に、物語上では、敵役としての地位に至らざるを得ない。
いいかい? このふたつの物語では、屍者 (Living Dead) は敵役ではないのだ。ハリー・クーパー (Harry Cooper)、つまり自分勝手なエゴイスト (Egoist) が敵役なのだ。
その結果、ベン (Ben) とハリー・クーパー (Harry Cooper) は常に敵対する地位にあり、リメイク作品に於いては、その対立が物語を牽引する動力となっていく。
オリジナル作品に於いても、ベン (Ben) の行動が常に正しいわけではない。見当違いや見込み違い、そして衝動的な行動が結果的に、自らの窮状をさらに厳しいモノにしてしまう事がない訳ではない。
だが、リメイク作品に於いては、ハリー・クーパー (Harry Cooper) との対立がそれに拍車をかけている様に思える。ハリー・クーパー (Harry Cooper) の行動を否定せんが為にとった敢えての行動が、かえって事態を混乱させてしまっているとみてとれるのだ。
バーバラ (Barbra)、ベン (Ben)、ハリー・クーパー (Harry Cooper) この3者の描写と設定の比較をふたつの作品で行えば、リメイク作品ではバーバラ (Barbra) の重要度が増す事によって、ベン (Ben) の存在意義が相対的に軽減されると共に、ハリー・クーパー (Harry Cooper) は独自の地位を獲得したと謂う事も出来る。
そしてその結果、物語上でのこの3者の生死もまた、異なるモノとなっていく。
だが、それはぼくからみればさして重要なモノではない様に思える。彼等の生死は、一夜あけての屍者 (Living Dead) 討伐隊 (Posse) の描写を延々と描く為にあるためにこそ、存在している様に思えるからだ。
オリジナル作品では唯一の生存者となったベン (Ben) が、討伐隊 (Posse) によって屍者 (Living Dead) と誤解されて射殺される。
それがリメイク作品に於いては、籠城先からの脱出を謀ったバーバラ (Barbra) が討伐隊 (Posse) に救出されて合流し、彼等と行動を共にする事になる。そして、その結果、討伐隊 (Posse) の悪意ある行動が彼女の視点を通して延々と綴られていく事になる。屍者 (Living Dead) とは謂え、そこで散見される行動は、みていてきもちよいモノではない。

ぼくからみれば、そのきもちのわるい、みるにたえない彼等の行動を描く事こそが、映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド / 死霊創世紀
(Night Of The Living Dead)』の主眼のひとつではないかと思われる。
と、謂うのは、ロメロ三部作 (Romero's Dead Trilogy) とも呼ばれる、ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督のみっつの作品の中に於いて、映画『ゾンビ
(Dawn Of The Dead)』 [1978年制作] とその続編である映画『死霊のえじき
(Day Of The Dead)』 [1985年制作] は密接に連携している。前者で描かれている惨劇の辿り着くその先に後者の物語があるだろうと誰でも理解は出来る。しかし、ロメロ三部作 (Romero's Dead Trilogy) の第1作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド / ゾンビの誕生
(Night Of The Living Dead)』はその発端でありながら、第2作である『ゾンビ
(Dawn Of The Dead)』に直結はしていない。
前者での一軒家での籠城の物語の変奏曲が、後者でのショッピング・モール (Shopping Mall) での籠城の物語とみえるばかりなのである。
作品を観るモノの視点からみれば、それは問題たりえない。
しかし、そうではないと謂うのであるならば、第1作と第2作の間にかけているモノ、描かれていないモノがある。
人類がなぜ、屍者 (Living Dead) に襲われて駆逐され、絶滅の危機に瀕すせざるを得ないのか。
生物学上での観点はさておき、倫理的に、絶滅すべき人類の弱点をきちんとここで指摘しておこうと謂うのが、リメイク作品の趣旨ではないだろうか。
ロメロ三部作 (Romero's Dead Trilogy) をつぶさにみていけば、それは如実に思い知らされざるを得ない。人間の駄目な点、人間の弱い点が十二分に指摘されている3作品ではあるが、それでも足りない。
そう考えて、リメイク作品では、討伐隊 (Posse) の悪行を丁寧に描写しているのだと、ぼくは思う。
そして、その為に不可避だったのが、バーバラ (Barbra)、ベン (Ben)、ハリー・クーパー (Harry Cooper)、この3者の描写と設定の変更なのではないだろうか。
生存したバーバラ (Barbra) の視点によって討伐隊 (Posse) の描写が可能となり、そこに色濃く顕れる非人間的な行為への悪感情を彼女に明確にもたらす。
だから、一軒家に再び辿り着いた彼女は、奇跡的に生存を果たしたハリー・クーパー (Harry Cooper) を殺害するしかないのである。彼女にとって討伐隊 (Posse) の悪行と、そこに顕れる悪感情の象徴的存在が、ハリー・クーパー (Harry Cooper) なのである。
いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。
討伐隊 (Posse) の行動と規範に馴化されて、バーバラ (Barbra) もまた、彼等と同等の感覚を得てしまったのではないか。屍者 (Living Dead) と同様に、ハリー・クーパー (Harry Cooper) もまた排除されるべき存在である。しかもそれを自身が行うには正当の理由があるのだ、そんな認識へと彼女は陥ってしまったのかもしれない。
蛇足を任じてここに綴れば、リメイク作品に於いて、黒人男性であるベン (Ben) が屍者 (Living Dead) となってそこに存在しているのは、オリジナル作品同様に、討伐隊 (Posse) の視点からみれば、彼は排除されるべきモノと映じているからに他ならない。
次回は「き」。
オリジナル作品を手掛けたジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 自らが、リメイク作品の脚本を担当している。
ふたつの作品には物語の構造にさしたる違いはない。
ある日突然に蘇った屍者 (Living Dead) 達に襲撃され、やむにやむなく辿り着いた一軒家で籠城のやむなきに至った男女達の、一夜の物語である。
しかし、同種の物語とは謂いながら、ふたつの作品には明確な差異があり、このふたつの作品をみくらべた観客は否応もなくそれに気づかざるを得ない。
それは、籠城する男女のひとり、バーバラ (Barbra) の立ち居振る舞いに、である。オリジナル作品ではジュディス・オーディア (Judith O'Dea ) が演じ、リメイク作品ではパトリシア・トールマン (Patricia Tallman) が演じた。作劇上、ヒロイン (Heroine) とも呼べる地位にある。
オリジナル作品では、自身を襲う状況に混乱し悲嘆にくれるばかりで、籠城する彼等にとってはお荷物とでも謂うしかない存在だ。それ故に、その一軒家が"落城"する際には、屍者 (Living Dead) と化した実の兄であるジョニー・ウィルソン (Johnny) [演:ラッセル・ストライナー (Russell Streiner)] に襲われて亡き者となる。
一方のリメイク作品では、その真逆と謂って良い。自身を襲う現状に応じて、闘いそして生き延びる事に第一の主眼を置く。謂わば、闘うヒロイン (Battle Heroine) へと彼女が覚醒したと謂っても良い。
バーバラ (Barbra) と謂う女性の扱いひとつをみれば、1968年と1990年との間にあった、社会の動きやそれを受けての映画の作劇術、そこにある変化に思いを馳せる事も出来るだろう。
そして、バーバラ (Barbra) の描写と設定が変わる事によって、その他の人物の描写や物語上に於ける位置も自ずと変わってくる。
オリジナル作品に於いて、バーバラ (Barbra) の不甲斐なさを常に救い助けるのが黒人男性ベン (Ben) [演:デュアン・ジョーンズ (Duane Jones) オリジナル作品 / トニー・トッド (Tony Todd) リメイク作品] であり、彼が常にそこでの窮状を克服する為に孤軍奮闘しているのに対し、リメイク作品ではバーバラ (Barbra) の覚醒によって、作品上での彼の重要度は軽減されていく。その結果、比重を増すのが、白人男性ハリー・クーパー (Harry Cooper) [演:カール・ハードマン (Karl Hardman) オリジナル作品 / トム・トールズ (Tom Towles) リメイク作品] の存在である。
いずれの作品に於いても、ハリー・クーパー (Harry Cooper) は自己と自己の家族の保身に最大限の努力を傾けるのだが、彼の行為は結果的に、物語上では、敵役としての地位に至らざるを得ない。
いいかい? このふたつの物語では、屍者 (Living Dead) は敵役ではないのだ。ハリー・クーパー (Harry Cooper)、つまり自分勝手なエゴイスト (Egoist) が敵役なのだ。
その結果、ベン (Ben) とハリー・クーパー (Harry Cooper) は常に敵対する地位にあり、リメイク作品に於いては、その対立が物語を牽引する動力となっていく。
オリジナル作品に於いても、ベン (Ben) の行動が常に正しいわけではない。見当違いや見込み違い、そして衝動的な行動が結果的に、自らの窮状をさらに厳しいモノにしてしまう事がない訳ではない。
だが、リメイク作品に於いては、ハリー・クーパー (Harry Cooper) との対立がそれに拍車をかけている様に思える。ハリー・クーパー (Harry Cooper) の行動を否定せんが為にとった敢えての行動が、かえって事態を混乱させてしまっているとみてとれるのだ。
バーバラ (Barbra)、ベン (Ben)、ハリー・クーパー (Harry Cooper) この3者の描写と設定の比較をふたつの作品で行えば、リメイク作品ではバーバラ (Barbra) の重要度が増す事によって、ベン (Ben) の存在意義が相対的に軽減されると共に、ハリー・クーパー (Harry Cooper) は独自の地位を獲得したと謂う事も出来る。
そしてその結果、物語上でのこの3者の生死もまた、異なるモノとなっていく。
だが、それはぼくからみればさして重要なモノではない様に思える。彼等の生死は、一夜あけての屍者 (Living Dead) 討伐隊 (Posse) の描写を延々と描く為にあるためにこそ、存在している様に思えるからだ。
オリジナル作品では唯一の生存者となったベン (Ben) が、討伐隊 (Posse) によって屍者 (Living Dead) と誤解されて射殺される。
それがリメイク作品に於いては、籠城先からの脱出を謀ったバーバラ (Barbra) が討伐隊 (Posse) に救出されて合流し、彼等と行動を共にする事になる。そして、その結果、討伐隊 (Posse) の悪意ある行動が彼女の視点を通して延々と綴られていく事になる。屍者 (Living Dead) とは謂え、そこで散見される行動は、みていてきもちよいモノではない。

ぼくからみれば、そのきもちのわるい、みるにたえない彼等の行動を描く事こそが、映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド / 死霊創世紀
と、謂うのは、ロメロ三部作 (Romero's Dead Trilogy) とも呼ばれる、ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督のみっつの作品の中に於いて、映画『ゾンビ
前者での一軒家での籠城の物語の変奏曲が、後者でのショッピング・モール (Shopping Mall) での籠城の物語とみえるばかりなのである。
作品を観るモノの視点からみれば、それは問題たりえない。
しかし、そうではないと謂うのであるならば、第1作と第2作の間にかけているモノ、描かれていないモノがある。
人類がなぜ、屍者 (Living Dead) に襲われて駆逐され、絶滅の危機に瀕すせざるを得ないのか。
生物学上での観点はさておき、倫理的に、絶滅すべき人類の弱点をきちんとここで指摘しておこうと謂うのが、リメイク作品の趣旨ではないだろうか。
ロメロ三部作 (Romero's Dead Trilogy) をつぶさにみていけば、それは如実に思い知らされざるを得ない。人間の駄目な点、人間の弱い点が十二分に指摘されている3作品ではあるが、それでも足りない。
そう考えて、リメイク作品では、討伐隊 (Posse) の悪行を丁寧に描写しているのだと、ぼくは思う。
そして、その為に不可避だったのが、バーバラ (Barbra)、ベン (Ben)、ハリー・クーパー (Harry Cooper)、この3者の描写と設定の変更なのではないだろうか。
生存したバーバラ (Barbra) の視点によって討伐隊 (Posse) の描写が可能となり、そこに色濃く顕れる非人間的な行為への悪感情を彼女に明確にもたらす。
だから、一軒家に再び辿り着いた彼女は、奇跡的に生存を果たしたハリー・クーパー (Harry Cooper) を殺害するしかないのである。彼女にとって討伐隊 (Posse) の悪行と、そこに顕れる悪感情の象徴的存在が、ハリー・クーパー (Harry Cooper) なのである。
いや、もしかしたらそうではないのかもしれない。
討伐隊 (Posse) の行動と規範に馴化されて、バーバラ (Barbra) もまた、彼等と同等の感覚を得てしまったのではないか。屍者 (Living Dead) と同様に、ハリー・クーパー (Harry Cooper) もまた排除されるべき存在である。しかもそれを自身が行うには正当の理由があるのだ、そんな認識へと彼女は陥ってしまったのかもしれない。
蛇足を任じてここに綴れば、リメイク作品に於いて、黒人男性であるベン (Ben) が屍者 (Living Dead) となってそこに存在しているのは、オリジナル作品同様に、討伐隊 (Posse) の視点からみれば、彼は排除されるべきモノと映じているからに他ならない。
次回は「き」。
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