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2018.05.08.13.27

いきているはらわた

ここでは泉鏡花 (Kyoka Izumi) だったが、現時点では海野十三 (Unno Juza) の作品を順番に読んでいる。なんの話かと謂うと、青空文庫 (Aozora Bunko) [1997年設立] の公開作品リストだ。
相変わらず読み進めてはいるのだが、捗っているのか滞っているのか解らない。

その海野十三 (Unno Juza) の短編小説『生きている膓 (Living Intestine)』は、もしかすると以前にどこかのアンソロジーで読了していたのかもしれない。既読感は微妙にあるのだが、この作家には同じ様な設定や似た様な構造が複数の作品に何度となく登場するから、曖昧な記憶もあってはっきりした事は謂えない。

恐らくこの作品は、作家の代表作には決してならないのかもしれないが、その代わりに、作家の特質が悉く網羅されている様な気がする。
物語は殆どが主人公である吹矢隆二 (Ryuji Fukiya) の行動と性格に起因するモノであって、その象徴が作品名である"生きている膓 (Living Intestine)"となって姿を顕わしている。
物語が決して恐怖譚や怪異譚になる事も出来ずに、どこかに喜劇的な色彩を帯びているのは、主人公の性格づけと、そんな設定をした作家自身の気質による。
例えば同じ題名の下、江戸川乱歩 (Edogawa Ranpo) が短編小説をモノしたら、随分と異なるモノが現出しそうな気がする。これが小栗虫太郎 (Mushitaro Oguri) ならば、香山滋 (Kayama Shigeru) ならば、夢野久作 (Yumeno Kyusaku) ならば、尚更だ。

そんな事に想いをめぐらしていると、この短編小説を原作にしてマンガ作品が出来そうだなと思えてくる。

さて、誰がいいのだろうか。
単純に考えれば高橋葉介 (Yosuke Takahashi) はずっぱまりの様な気がする。彼の作品世界はそのまま、海野十三 (Unno Juza) の作品世界だ。と、謂うよりも、そのマンガ家はその小説家におおきく影響されているのに違いない。下世話な表現をすれば、そのマンガ家の元ネタのひとつがその小説家なのだ。
だが、とふと思う。
高橋葉介 (Yosuke Takahashi) が産み出したキャラクター、『夢幻紳士シリーズ (Mugen Shinshi Series)』 [1981マンガ少年が初登場] の主人公、夢幻魔実也 (Mamiya Mugen) は作者曰く「3人いる (..And Then There Is Three...)」のだ。つまり、たったひとりの登場人物でさえ、異なるみっつの作品世界を行き来する。すなわち、その作家である高橋葉介 (Yosuke Takahashi) はみっつの異なる世界観をもって、作品を産み出す事が可能なのである。
これがどおゆう事なのかと謂うと、高橋葉介 (Yosuke Takahashi) と謂うひとりのマンガ家でさえ、短編小説『『生きている膓 (Living Intestine)』を原作とする短編マンガをみっつ創造しうる、と謂う事なのである。
ぼく個人としては、そんなみっつの短編マンガを是非、読んでみたい。

そんな妄想を広げると、さらにこんな事を考えるのは、お茶の子さいさい (It's A Piece Of Cake.) だ。

名だたるマンガ家達を集めて、その短編小説を原作とする作品集も可能な気がしてくるのである。
候補者のひとりとして、伊藤潤二 (Junji Ito) なんか、どうだろう。主人公の吹矢隆二 (Ryuji Fukiya) には、彼の初期キャラクター、双一 (So-ichi) が扮するのだ。

と、同時に、"生きている膓 (Living Intestine)"と謂う題名だけを共通とする推理小説 (Mystery) / 怪奇小説 (Horror) / 幻想小説 (Fantasy) と謂う作品集と謂う可能性がない訳ではない。
何故ならば、例えば"生きている膓 (Living Intestine)"と謂う修辞はまるで"死人に口なし (Dead Men Tell No Tales.)"の反意語であるかの様な印象さえ与えられるからなのである。

ところで、作品の題名でもあり動機でもある"生きている膓 (Living Intestine)”と謂う着想を、海野十三 (Unno Juza) は一体、どこから入手したのだろうか。

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マレー半島 (Malay Peninsula) やボルネオ半島 (Island Of Borneo) に出没する妖怪に、ペナンガラン (Penanggalan) がいる。内臓をぶらさげて飛翔する、女性の生首である。マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Gegege No Kitarou)』 [作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 19651969週刊少年マガジン連載] の1挿話『『血戦小笠原 (Blood War On Ogasawara)』 [1968年発表] にも登場するが、そこでは子泣き爺 (Konaki-jiji) と砂かけ婆 (Sunakake-Babaa) の連携によって、個性を発揮する以前に敗退している。
ぼく達世代にとっては、それをさらに劇画化させた様な妖怪、胃ぶらりん (Iburarin) としての方が馴染みが深い。『いちばんくわしい世界妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 [著:佐藤有文 (Arihumi Sato) 1972立風書房ジャガーバックス刊] 掲載] で紹介されているそれは、ブルガリア (Bulgaria) の妖怪であると謂う。

日本出自の妖怪では、野槌 (Nodzuchi) がそれに充たるのかもしれない。槌の子 (Tsuchinoko) やバチヘビ (Bachi Hebi) の異名として知られるそれは、それに引き摺られて蛇 (Snake) に似た容姿を想像させられるが、『今昔画図続百鬼 (Konjaku Gazu Zoku Hyakki)』 [作:鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 1779年発表] 等に描かれるそれは、もっと内臓的な描写だ [こちらを参照の事]。『ゲゲゲの鬼太郎 (Gegege No Kitarou)』の1挿話『ひでり神 (Hiderigami)』 [1968年発表] に登場する野槌 (Nodzuchi) も、その描写に負っている。
だが、野槌 (Nodzuchi) にはもうひとつ異なる形態をしているモノがある。『妖怪仕内評判記 (Yokaishiuchi-hyobanki)』 [作:恋川春町 (Koikawa Harumachi) 1779年発表] にあるそれは人間態の形状で、顔にはなにもなくその代わりに頭頂におおきなくちがついている [こちらを参照の事]。単純に考えれば、喰べるだけの存在、消化器 (Digestive Organ) のばけもの、そんな謂いも可能だ。

そしてそのふたつの野槌 (Nodzuchi) のあいだに、ペナンガラン (Penanggalan)〜胃ぶらりん (Iburarin) を据える事も出来そうなのだ。
"生きている膓 (Living Intestine)"とは、その間隙に存在していると謂ってもいい。

だけれども、海野十三 (Unno Juza) がそれらから"生きている膓 (Living Intestine)"の着想を得たとは謂い難い。
もっともっと単純なところにあるのではないだろうか。

と、謂うのは映画『ゾンバイオ / 死霊のしたたり (Re-Animator)』 [スチュアート・ゴードン (Stuart Gordon) 監督作品 1985年制作] にも律動し自ら能動的に行動する腸が出現するからだ。
人体解剖に一度でもたちあった人物ならば誰しもが描く、妄想なのかもしれない。人体への単純な畏怖、己が体内に宿す恐怖、と謂う様なモノが起因なのではないだろうか。

次回は「」。

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