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2018.04.17.12.10

とうふ

崩さずに (Chopsticks) で喰べられる様になったのは、一体、いつ頃の事だろう。
ふと、そう思った。

(Chopsticks) の使い方を憶えたのは結構、遅い。4歳になって保育園 (Nursery School) に通うのだが、その時はまだ出来ていなかった。
では、その保育園 (Nursery School) でしっかりと正しい箸の持ち方 (How To Hold The Chopsticks) を教わったのかと謂うと、実はそうではない。未だに、現在でも、正しくない、間違った握り方をしている。目敏いヒトからみれば蔑んだ眼差しで凝視められ、正式な会食の席では居心地が悪い。仮にその席に海外からの賓客が座しているのならば、もっと恥ずかしい。彼等は常に正しい握り方を知っているからだ。
でも、日常の食事ではなんの問題もない。そのメニューによっては、ぼくの持ち方の方が断然、優位で有利な場合すらあるのだ。それだから、矯正しようと謂う意識には一向にならない。

おっと、 (Chopsticks) のはなしではなくて、主題は豆腐 (Tofu) だった。

その豆腐 (Tofu) をはさむ (Chopsticks) の習熟度がその程度だから、きっと、それを崩さずに (Chopsticks) で喰べられる様になったのは、かなり遅いのだろう。いま、憶い出して観ると、3歳年下の弟の方が、ぼくよりも憶えは早かった。彼は正しい箸の持ち方 (How To Hold The Chopsticks) が出来るのだ。と、謂う事は、こと (Chopsticks) に関する限り、親の教育が云々、しつけがなっていないから云々と謂う逃げ場はぼくには用意されていない事になる。箸の使い方をきちんと学習しなかったのは、ぼく個人の問題なのであろう [と、さりげないそぶりで両親を擁護してみる]。きっとぼくの場合での反省点がそのまま、弟の教育へと活かされたのだ。

おっと、 (Chopsticks) のはなしではなくて、主題は豆腐 (Tofu) だった。

今現在ならばともかく、幼い時は、豆腐 (Tofu) を崩さずに (Chopsticks) で喰べなければならない、と謂う局面は意外と少ない。
御御御付け (Miso Soup) の様に、個々に給餌されたモノに関しては、それをどう喰おうが殆ど、自己責任 (Self-responsibility) である。それが賽の目 (Diced) ならば、さらにそうだ。だが、残念ながらぼくの母親のつくる御御御付け (Miso Soup) の具はいつも大きい。とは謂え、汁とともに味わう限りは、原型を維持したまま口まで運ばねばならないと謂う謂れはそれ程、おおきくない。
鍋物 (Nabemono) の場合も殆ど、同様だ。第一に、その鍋の具材である豆腐 (Tofu) に関してはまず、ぼくも弟も歯牙にもかけない。他の肉や魚を漁るばかりなのだ。そして、それを見かねた母親がぼく達の取り皿をとりあげて、野菜と一緒に放り込む。「もっと他のモノも喰べなさい、肉ばっかり喰べてないで」と謂わんばかりに。そんな母親の親身も今ならば理解できるが当時は、憎らしい眼差しを向けて取り皿にあるモノを喰っていた。だから、取り皿にある以上、その豆腐 (Tofu) の問題は御御御付け (Miso Soup) と同様の事となる。

そう謂えば、幼い頃はそんな時、穴あきの蓮華 (Chinese Spoon) が用意されていたのだが、あれは一体、どうしたのだろう。金属製のあれは、崩さずに豆腐 (Tofu) を喰うのにとても便利なモノだったのだが、早いうちに食膳から姿を消してしまった。ぼくに (Chopsticks) を憶えさせる為に隠匿されたのだろうか。それとも、よくある様に、弟との取り合いになってそんな兄弟喧嘩に嫌気がさして秘匿されたのだろうか。と謂うのは、兄弟ふたりにおなじモノが支給されても、些細な個体差をそれに見出して、その個体差故に争いの原因となる事が、ぼく達ふたりには多々あったからなのだ。

おっと、語るべきは豆腐 (Tofu) だ、蓮華 (Chinese Spoon) の話ではない。

麻婆豆腐 (Mapo Doufu) ならば、豆腐 (Tofu) を崩さずに云々と謂う問題は発生しないが、以前ここに綴った様に、その調理に出逢うのは上京した後の事だ。
麻婆豆腐 (Mapo Doufu) と同様、豆腐 (Tofu) の原型が問題とならない調理はあって、ぼくの家では、炒り豆腐 (Crispy Baked Tofu) がそうだ。ある時期、ぼくの母親に俄然マイ・ブーム (My Boom) が巻き起こり、一時期、必ず食卓に並んでいた。だから、ぼく達兄弟の認識は副食のひとつと謂うよりもふりかけ (Furikake) に近い。気の向くまま、御飯 (Cooked Rice) の上にトッピングすればいいのである。

だから、豆腐 (Tofu) を崩さずに問題が発生するのは、冷奴 (Hiyayakko)、それが恐らく唯一の問題であった筈だ。
食卓の中央にガラス容器があり、そこに氷と一緒に豆腐 (Tofu) が水に浮かんでいる。それをどうやってぼくの取り皿まで運ぶのか。それが問題だ。
何故だか、鍋物 (Nabemono) の場合と異なり、冷奴 (Hiyayakko) だけは母親は給餌してくれない。しかも、大概の場合、その冷奴 (Hiyayakko) がその時の主食なのである。つまり、冷奴 (Hiyayakko) を一切、喰べずに他の料理で肚を満たす方法はなかったのである。

憶えているのは、当時、2本の (Chopsticks) を豆腐 (Tofu) の中央部に串刺しにして運ぶと謂う方法だ。運が良ければそれで問題はない。だが、大概の場合は運が悪い場合で、豆腐に (Chopsticks) を刺した直後にそれは崩れ、さもなければ取り皿までの短い搬路で瓦解する。

恐らく、冷奴 (Hiyayakko) を喰べる際の試行錯誤の過程で否応もなく、豆腐 (Tofu) を崩さずに (Chopsticks)で喰べる方法を身につけさせられたのだと想う。
いまのところ他に考えようもない。

images
高橋由一 (Takahashi Yuichi) 画『豆腐 (Tofu)』

次回は「」。

附記:
ハウス食品 (House Foods) のほんとうふ (Hontofu) が発売されたのは、ぼくが小学校中学年くらいの時季だった。自宅で豆腐 (Tofu) がつくれると謂うただそれだけの物珍しさで、ある日、母親が買ってきて、試した。その製造過程にはぼく達兄弟も立ち会った筈だ。もしかするとその逆で、物珍しさに唆されたのはぼく達であって、それに母親が同調し、ぼく達に自作させたのかもしれない。
そして、それはたった一度だけの事だった。
何故なのか、その理由は解っている。見合わないのだ。今の言葉に換言すると、コスパ (Cost Performance) が悪いのだ。
上手い不味いの問題ではない。結局、出来るのは豆腐 (Tofu) なのだから。
休日のまるまる半日、手作りの寿司 (Sushi) を楽しみにして、炊き上がった酢飯 (Vinegared Rice) を扇ぎ続ける労を厭わないぼく達が下した決断がそれだった。
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