2007.07.17.22.35
前回の語尾が「う」だったので、語頭が「う」の単語に関して綴らねばなりません。
当初の予定稿(ソンナモノハナイケレドモホントハ)では、季節ネタで「宇治金時」の想い出でも書こうかと思っていたのだけれども、猛暑ならいざ知らず、今日は終日小雨もようの梅雨寒でした(僕の住んでいる処に限ってだけれども)。なので、ちょっと趣向を変えて「うんでぃーね」、つまり『ウンディーネ
(Undine)』について書く事にします。
『ウンディーネ
(Undine)』というのは、四大元素(Four Elements)とされる地(ノーム : Gnomes)・風(シルフ : Sylphs)・水(ウンディーネ : Undines)・火(サラマンドラ : Salamander)のうちのひとつ、水の精霊の事だけれども、そこまで深く幅広くはここでは語らない。フーケ(Friedrich de la Motte Fouque)の小説『ウンディーネ
(Undine)』について書く事にします。
この物語の構造はひどく単純で、水の精霊を愛してしまった騎士(Knight)と、ヒトを愛してしまった妖精(Fairy)の悲恋です。と、書くとアンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫
(The Little Mermaid)』を思い出すかもしれません。しかし、あの様な情緒的な片想いとは異なり、もっとプリミティブで残酷な物語です。
人間の様な魂を持たない水の精霊は、騎士(Knight)に出会いヒトを愛する事を知ってしまったが為に、魂を得ます。その代わりに、ヒトが己を愛さなくなる、つまり、ヒトの不実を許す事は出来なくなります。水の精霊は、己の愛する騎士(Knight)を殺して、復讐を遂げなければなりません。
アンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫
(The Little Mermaid)』との分岐点はここです。
彼女は愛する騎士(Knight)を殺しにやってくるのです。
このフーケ(Friedrich de la Motte Fouque)の『ウンディーネ
(Undine)』が思い出させるのは、アンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫
(The Little Mermaid)』ではなくて、むしろ小川未明の『赤い蝋燭と人魚
』ではないでしょうか。人間のほんのちょっとした欲望と無慈悲が、災厄をもたらす、あの童話です。
そして、そこからさらに小川未明の『赤い蝋燭と人魚
』からの連想で僕が辿り着くのが、次の様な船幽霊の伝説です。
船旅をしていると、海の底から柄杓を求める声がする。その求めに応じて柄杓を海に投げ入れる事だけは、決して行ってはいけない。何故なら、その柄杓で海水を船に注ぎ込み、己の乗っている船を沈まさせられるから。
ヒトの尺度を超えたところにある水という魔性の存在を、教えている伝説だと思います。

掲載した画像はフュースリー(Johann Heinrich Fussli)の『キューレボルンがウンディーネを漁師のところに連れてくる(Kuhleborn amene Ondine chez les Pecheurs)』。画面左側の、無垢な少女然としたウンディーネ(Undines)の背後に佇むキューレボルン(Kuhleborn)の異様な姿態が印象的です。この絵を観る度に、僕は、不安というものは、いつもこういう風に、巨きく黒々と、己の脇に控えている存在なのだろうという印象を抱きます。
と、いうわけで次回は「ね」。
当初の予定稿(ソンナモノハナイケレドモホントハ)では、季節ネタで「宇治金時」の想い出でも書こうかと思っていたのだけれども、猛暑ならいざ知らず、今日は終日小雨もようの梅雨寒でした(僕の住んでいる処に限ってだけれども)。なので、ちょっと趣向を変えて「うんでぃーね」、つまり『ウンディーネ
『ウンディーネ
この物語の構造はひどく単純で、水の精霊を愛してしまった騎士(Knight)と、ヒトを愛してしまった妖精(Fairy)の悲恋です。と、書くとアンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫
人間の様な魂を持たない水の精霊は、騎士(Knight)に出会いヒトを愛する事を知ってしまったが為に、魂を得ます。その代わりに、ヒトが己を愛さなくなる、つまり、ヒトの不実を許す事は出来なくなります。水の精霊は、己の愛する騎士(Knight)を殺して、復讐を遂げなければなりません。
アンデルセン(Hans Christian Andersen)の『人魚姫
彼女は愛する騎士(Knight)を殺しにやってくるのです。
このフーケ(Friedrich de la Motte Fouque)の『ウンディーネ
そして、そこからさらに小川未明の『赤い蝋燭と人魚
船旅をしていると、海の底から柄杓を求める声がする。その求めに応じて柄杓を海に投げ入れる事だけは、決して行ってはいけない。何故なら、その柄杓で海水を船に注ぎ込み、己の乗っている船を沈まさせられるから。
ヒトの尺度を超えたところにある水という魔性の存在を、教えている伝説だと思います。

掲載した画像はフュースリー(Johann Heinrich Fussli)の『キューレボルンがウンディーネを漁師のところに連れてくる(Kuhleborn amene Ondine chez les Pecheurs)』。画面左側の、無垢な少女然としたウンディーネ(Undines)の背後に佇むキューレボルン(Kuhleborn)の異様な姿態が印象的です。この絵を観る度に、僕は、不安というものは、いつもこういう風に、巨きく黒々と、己の脇に控えている存在なのだろうという印象を抱きます。
と、いうわけで次回は「ね」。
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