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2018.02.27.09.14

ねづ

マンガ『アキラ (Akira)』 [作:大友克洋 (Katsuhiro Otomo) 19821990週刊ヤングマガジン連載] の物語は、実質的には2019年の東京 (Tokyo) を舞台にしている。つまり、来年の事なのだ。

マンガは雑誌連載時にリアル・タイムで体験している。
その時はよもやそんな時代が目前に来るとは思ってもみなかったし、そんな時代の目前までこうして生き延びているとも思わなかった。

と、謂うのも、そのマンガは、2019年の東京 (Tokyo) を舞台とはしてはいるものの、必ずしも現実の2019年と謂う年を描こうとはしていない。
何故ならば、このマンガが語り続ける物語は、1982年の東京 (Tokyo) 崩壊を発端としているからだ。
1982年と謂うのは、そのマンガが連載を開始した年に他ならない。
やがて来たるべきその年、2019年を描いているのにも関わらずに、実際に迫り来るその年そのものから、その物語が自由であるのは、連載開始したその年に、舞台となる東京 (Tokyo) を崩壊させたからに他ならない。
その結果、その物語の舞台はパラレル・ワールド (Parallel Universe) ですらない。完全なる絵空事としての東京 (Tokyo)、空想の限りを尽くした2019年をそこで語る自由を、作者は入手したのである。

だから、ぼく達読者も、本来ならば喉元に匕首を突きつけられた様な舞台設定であるのにも関わらず、素直にそして単純に、その物語で活躍する少年達に快哉していられたのだ、と思う。
ぼく達のありうべき姿がそこにある。
あの時代、あの場所に活きる事が出来るのならば、彼等の姿はぼく達であってしかるべきだ。そんな純粋にして無垢な自家撞着をそのマンガに対して行ってきた。そしてそれは許されていたのだ、と思う。

ところが、である。
ある日、ぼくはそのマンガの登場人物達の年齢設定なるモノを入手してしまう [こちらを参照の事]。おそらく、そのマンガを原作とするアニメ映画『アキラ (Akira)』 [大友克洋 (Katsuhiro Otomo) 監督作品 1988年制作] に向けてのモノと思われる。その映画の公開時に、入手した様な気がする。
そこでぼくは、おおきなショックを受けてしまう。

登場人物の殆どが、ぼくよりも年下であるのは、2019年が舞台である以上、致し方ない。
ぼくがショックを受けたのは、そのマンガに大きく感化されていたであろうぼく [達] が、根津 (Mr. Nezu) と同世代である、その事なのだ。

images
根津 (Mr. Nezu) はミヤコ (Lady Miyako) の尖兵として、重要機密事項であるアキラ (Akira) の獲得に奮闘する人物である。その容姿と行動理念から、ねずみ (Rat) とミヤコ (Lady Miyako) から蔑まされている[上掲画像はこちらから]。

そんな位置付けである彼とぼくとが同世代であると謂う事は受け入れがたいし、それ以上に滅入らせられもする。
その年齢設定は単純に、2019年と謂う時代とそのマンガで与えられた地位と容姿から、逆算されたモノではあろうとは思う。
ではあるが、なんだか、その年のぼく達の社会的な地位や、その物語が描く社会での立場がそんなモノであろうと見透かされてしまった様な気が、ついしてしまうのだ。つまり、ぼく達世代の代表として、その人物が設けられている様に思えてしまうのだ。

しかも、時代が2019年に近づくに従って、その人物の設定は妙な現実感を兼ね備え始めた様な気もしてくる。

物語上では、根津 (Mr. Nezu) はミヤコ (Lady Miyako) の傀儡となって奮闘せざるを得ないが、実は彼は野党の要職にある人物なのである。彼がミヤコ (Lady Miyako) に唯々諾々としているのは、ミヤコ (Lady Miyako) が率いる宗教団体が彼の属する政党へのおおきな資金源となっているからだ。その上に彼が東奔西走するのは、ミヤコが呈示したアキラ (Akira) と謂う存在が、現政権を揺るがしうる最高機密であると謂う認識での下だ。アキラ (Akira) を入手し、その秘密を知ってしまえば、政権を奪取しうるのかもしれない。彼の意識はおそらく、その様なモノなのだ。
だから、物語が『アキラ (Akira)』でなければ彼は、別の文脈に於いて、主人公乃至はそれに敵対する役割を演じられたのかもしれない。
そうやって考えると彼が『アキラ (Akira)』の物語に登場してしまったのは、彼の最大の不幸とも謂うべきである。

視点を変えて、そのマンガに顕れる根津 (Mr. Nezu) の行動や思考をみると、他人事の様な気がしてこないのだ。
彼の感じる焦りや苛立ち、物語の大きなうねりに翻弄されてそのまま濁流の中に呑み込まれていく様 [しかもそれを忌避すべき能力も手段ももちあわせてはいない] は、憐れを感じざるを得ないと同時に、ヒトゴトではないのだ。

ミヤコ (Lady Miyako) は根津 (Mr. Nezu) に問う。
「人は ... 小さな器を持って生まれて来るそうじゃ その ... 小さな器ですくえるものというのはたかが知れておる ...... たとえ その器に余る大きなものがすくえたとしても器が壊れてはどうにもならぬであろう ... 見極めがかんじんじゃ」 [こちらを参照の事] と。

こんな愚にもつかない叱責を喰らうのはなにも彼だけの事ではないし、第一にそんな事は叱責される前から解っている事だ。
しかし、それにも関わらずに、その叱責に抗おうとする。否、抗わずにはおれない。さらに謂えば、そうせざるを得ない立場におのれが立っている、そんな事態は、少なからずある。
と、謂うか、そんな事ばかりだ。寧ろ。

だから、思う。
彼の、乾坤一擲とばかりに放った銃弾が、誤射でしかなく、しかし、それにも関わらずに、物語を大きくうごかす銃痕となった事を、どう解釈すべきなのだろうか。
しかし、彼自身の視点にたてば結局、それは {鼠 (Rat) ならぬ}、犬死 [Dying In Vain} でしかない。
その物語での彼が演ずべき役割はそこで途絶え、以降、そこに登場する事はない。

次回は「」。
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