2018.02.20.09.12
ここ1ヶ月程、青空文庫 (Aozora Bunko) [1997年設立] で公開されている泉鏡花 (Kyoka Izumi) の作品を上から順番に読んでいる。就寝前の気楽な読書だ。それでも、1日につき2〜3時間は読んでいるから、薄い文庫本1冊は一晩に読み潰している計算だ。
青空文庫 (Aozora Bunko) には現在、彼の作品201篇が公開されていて、そのうちの1篇である随筆『一寸怪 (Cyoito- Ayashi : Mysterious A Little)』 [1909年発表] にくだ (Kuda) と謂う怪異が紹介されている。
「『くだ』というのは狐の様で狐にあらず、人が見たようで、見ないような一種の動物だそうだ」 [泉鏡花 (Kyoka Izumi) 著『一寸怪 (Cyoito- Ayashi : Mysterious A Little)』 [1909年発表] より]
そこでぼくは困惑する。
くだ (Kuda) ってなんだ? と。その文章に続くのは次の1文である。
「猫の面で、犬の胴、狐の尻尾で、大さは鼬の如く、啼声鵺に似たりとしてある」 [同掲書より]
そして、それの直後に「追て可考」と綴って、その短い随想はそこで終わってしまう。
ぼくの妖怪や怪異の知識、特に日本国内におけるそれらの殆どは、水木しげる (Shigeru Mizuki) のマンガからのモノである。さもなければムック『いちばんくわしい日本妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 [著:佐藤有文 (Arihumi Sato) 1972年 立風書房ジャガーバックス刊] もしくは大映 (Daiei Film) のみっつの妖怪映画 [『妖怪百物語
(Yokai Monsters : One Hundred Monsters )』 [安田公義 (Kimiyoshi Yasuda) 監督作品 1968年制作]、『妖怪大戦争
(Yokai Monsters : Spook Warfare)』 [黒田義之 (Yoshiyuki Kuroda) 監督作品 1968年制作] そして『東海道お化け道中
(Yokai Monsters : Along With Ghosts)』 [安田公義 (Kimiyoshi Yasuda) 監督作品 1969年制作]] である。
これらは重複しながらも互いに補完しあい、往時のぼくに、妖怪や怪異への知的好奇心の扉を示してくれた。
勿論、これらの作品や記述に顕れるモノを100%信用してはならない。ならないが、だが、それらが基とした原典等への案内は確実に果たしてくれた。ぼくの書棚に『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo : The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [著画:鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 1776年刊行] があるのは、そんな理由だ。
そんなかたちで形成されたぼくの知識の枠外に「くだ」はいる。
あらためて「くだ」とは一体、なんなのだろうか。
ネットで検索すればたちどころに正体は判明する。「くだ」とは、正しくは管狐 (Kudakitsune) と謂うのだ。ウィキペディア (Wikipedia) のこの頁等で紹介されている。興味がある方は、その頁を読めば良いだろう。
だが、何度それらの記述を読み返しても、そこに登場する管狐 (Kudakitsune) と泉鏡花 (Kyoka Izumi) の謂う「くだ」との共通点をみいだしづらい。
もしかしたら、同じ事を異なる視点から眺めているから、そう読めるのか。
それとも、両者に共通しているのは、単に名称だけであって、実際には異なる怪異なのか。
なんとも判別がつかないのである。
そこで、ぼくは『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』 [笹間良彦 (Yoshihiko Sasama) 著 1994年刊行] を繙く事にする。
そこにあるのは「くだ狐」であって、『甲子夜話 (Kasshi Yawa)』 [著:松浦静山 (Matsuura Seizan) 1821〜1841年に記述] に描かれている図版と、『名言通 (Meigentsu)』 [著:服部宜 (Gi Hattori) 1835年刊行] と『秉穂録 (Heisuiroku)』 [著:岡田新川 (Shinsen Okada) 1837年刊行] と『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』 [1931年 平凡社刊行] からの記述とが引用されて紹介されている。
図版に関してはウィキペディア (Wikipedia) のこの頁に掲載されているモノと同一のモノである。その点だけに着目すれば、ネット上に顕れる管狐 (Kudakitsune) と、その書物で記載されている「くだ狐」はおなじモノなのだろう。
猶、筆者によれば、『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』 [1931年 平凡社刊行] は「くだ狐に対してほぼ意を尽くしているのであろう」と謂う評価が下されている。
ならばと謂って『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』での記述をそのまま引用すれば、「くだ狐」即ち管狐 (Kudakitsune) に関する知識は網羅され得るのであろうが、そおゆう訳にもいかない。第一に引用文そのものが長大なのだ。
猶、ここでのぼくの記述を信頼して『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』に直接あたってみようと思う方々へは、次の点を念頭に置いて頂きたい。その書籍で評価されているのは、昭和7年発刊のモノなのである。現行版での記載内容と必ずしも一致するとは限らない事は覚えておいて欲しい。
結局ぼくは、そこでの「くだ狐」の記述と、ネット上に顕れる管狐 (Kudakitsune) とを交互に読み比べながらひとつの概念を得ようとするのだが、そこでも、なんだかまとまりがつかない。
群盲象を評す (Blind Men And An Elephant) ではないが、ぼくの得ている印象としてはその成句が示しているモノに近い。
ひとつには、おさき狐 (Osaki Kitsune) [文献上は、いくつかの異なる表記で記載されている] の存在が大きいのかもしれない。
おさき狐 (Osaki Kitsune) とは、『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』でも紹介されている怪異であって、「くだ狐」に関する文献のいくつかにも登場し、両者が比較して語られている。このおさき狐 (Osaki Kitsune) の評価によって、「くだ狐」の評価も異なる様だ。同種のモノと断罪しているモノもあれば、この頁の様に相対立する勢力であると謂う評価もある。
結果、その裁断の違いによって、これらの怪異の能力や評価に差異が顕れているのではないだろうか。
ところで、泉鏡花 (Kyoka Izumi) の作品には明白に「くだ狐」即ち管狐 (Kudakitsune) に関する記述が顕れているモノがある。
『半島一奇抄 (The Summary Of A Strange Story On The Peninsula)』 [1926年発表] と謂う作品だ。
そこにはこうある。
「くだ狐は竹筒の中で持運ぶ」と。
ここでの記述は、これまでみてきた文献等で共通に顕れる見解であって、それと同時にそれをもってその怪異の名称の由来としている様である。
管 (Tube) の中にいる狐 (Fox) だから、管狐 (Kudakitsune) だ、と。
そしてのぼくは、それらが指し示すヴィジョンからは、怪異とは全くかけ離れた印象を抱いてしまう。
例えばそれは下に掲載する様なモノ、それが何故なのかは「追て可考」。

"Dior Fur Scarf Jean Patchett, New York 1950 - 1951" photo by Irving Penn
次回は「ね」。
青空文庫 (Aozora Bunko) には現在、彼の作品201篇が公開されていて、そのうちの1篇である随筆『一寸怪 (Cyoito- Ayashi : Mysterious A Little)』 [1909年発表] にくだ (Kuda) と謂う怪異が紹介されている。
「『くだ』というのは狐の様で狐にあらず、人が見たようで、見ないような一種の動物だそうだ」 [泉鏡花 (Kyoka Izumi) 著『一寸怪 (Cyoito- Ayashi : Mysterious A Little)』 [1909年発表] より]
そこでぼくは困惑する。
くだ (Kuda) ってなんだ? と。その文章に続くのは次の1文である。
「猫の面で、犬の胴、狐の尻尾で、大さは鼬の如く、啼声鵺に似たりとしてある」 [同掲書より]
そして、それの直後に「追て可考」と綴って、その短い随想はそこで終わってしまう。
ぼくの妖怪や怪異の知識、特に日本国内におけるそれらの殆どは、水木しげる (Shigeru Mizuki) のマンガからのモノである。さもなければムック『いちばんくわしい日本妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 [著:佐藤有文 (Arihumi Sato) 1972年 立風書房ジャガーバックス刊] もしくは大映 (Daiei Film) のみっつの妖怪映画 [『妖怪百物語
これらは重複しながらも互いに補完しあい、往時のぼくに、妖怪や怪異への知的好奇心の扉を示してくれた。
勿論、これらの作品や記述に顕れるモノを100%信用してはならない。ならないが、だが、それらが基とした原典等への案内は確実に果たしてくれた。ぼくの書棚に『画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo : The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [著画:鳥山石燕 (Toriyama Sekien) 1776年刊行] があるのは、そんな理由だ。
そんなかたちで形成されたぼくの知識の枠外に「くだ」はいる。
あらためて「くだ」とは一体、なんなのだろうか。
ネットで検索すればたちどころに正体は判明する。「くだ」とは、正しくは管狐 (Kudakitsune) と謂うのだ。ウィキペディア (Wikipedia) のこの頁等で紹介されている。興味がある方は、その頁を読めば良いだろう。
だが、何度それらの記述を読み返しても、そこに登場する管狐 (Kudakitsune) と泉鏡花 (Kyoka Izumi) の謂う「くだ」との共通点をみいだしづらい。
もしかしたら、同じ事を異なる視点から眺めているから、そう読めるのか。
それとも、両者に共通しているのは、単に名称だけであって、実際には異なる怪異なのか。
なんとも判別がつかないのである。
そこで、ぼくは『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』 [笹間良彦 (Yoshihiko Sasama) 著 1994年刊行] を繙く事にする。
そこにあるのは「くだ狐」であって、『甲子夜話 (Kasshi Yawa)』 [著:松浦静山 (Matsuura Seizan) 1821〜1841年に記述] に描かれている図版と、『名言通 (Meigentsu)』 [著:服部宜 (Gi Hattori) 1835年刊行] と『秉穂録 (Heisuiroku)』 [著:岡田新川 (Shinsen Okada) 1837年刊行] と『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』 [1931年 平凡社刊行] からの記述とが引用されて紹介されている。
図版に関してはウィキペディア (Wikipedia) のこの頁に掲載されているモノと同一のモノである。その点だけに着目すれば、ネット上に顕れる管狐 (Kudakitsune) と、その書物で記載されている「くだ狐」はおなじモノなのだろう。
猶、筆者によれば、『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』 [1931年 平凡社刊行] は「くだ狐に対してほぼ意を尽くしているのであろう」と謂う評価が下されている。
ならばと謂って『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』での記述をそのまま引用すれば、「くだ狐」即ち管狐 (Kudakitsune) に関する知識は網羅され得るのであろうが、そおゆう訳にもいかない。第一に引用文そのものが長大なのだ。
猶、ここでのぼくの記述を信頼して『大百科事典 (Heibonsha World Encyclopedia)』に直接あたってみようと思う方々へは、次の点を念頭に置いて頂きたい。その書籍で評価されているのは、昭和7年発刊のモノなのである。現行版での記載内容と必ずしも一致するとは限らない事は覚えておいて欲しい。
結局ぼくは、そこでの「くだ狐」の記述と、ネット上に顕れる管狐 (Kudakitsune) とを交互に読み比べながらひとつの概念を得ようとするのだが、そこでも、なんだかまとまりがつかない。
群盲象を評す (Blind Men And An Elephant) ではないが、ぼくの得ている印象としてはその成句が示しているモノに近い。
ひとつには、おさき狐 (Osaki Kitsune) [文献上は、いくつかの異なる表記で記載されている] の存在が大きいのかもしれない。
おさき狐 (Osaki Kitsune) とは、『図説 日本未確認生物辞典 (The Illustrated Dictionary For Unidentified Mysterious Animal In Japan)』でも紹介されている怪異であって、「くだ狐」に関する文献のいくつかにも登場し、両者が比較して語られている。このおさき狐 (Osaki Kitsune) の評価によって、「くだ狐」の評価も異なる様だ。同種のモノと断罪しているモノもあれば、この頁の様に相対立する勢力であると謂う評価もある。
結果、その裁断の違いによって、これらの怪異の能力や評価に差異が顕れているのではないだろうか。
ところで、泉鏡花 (Kyoka Izumi) の作品には明白に「くだ狐」即ち管狐 (Kudakitsune) に関する記述が顕れているモノがある。
『半島一奇抄 (The Summary Of A Strange Story On The Peninsula)』 [1926年発表] と謂う作品だ。
そこにはこうある。
「くだ狐は竹筒の中で持運ぶ」と。
ここでの記述は、これまでみてきた文献等で共通に顕れる見解であって、それと同時にそれをもってその怪異の名称の由来としている様である。
管 (Tube) の中にいる狐 (Fox) だから、管狐 (Kudakitsune) だ、と。
そしてのぼくは、それらが指し示すヴィジョンからは、怪異とは全くかけ離れた印象を抱いてしまう。
例えばそれは下に掲載する様なモノ、それが何故なのかは「追て可考」。

"Dior Fur Scarf Jean Patchett, New York 1950 - 1951" photo by Irving Penn
次回は「ね」。
- 関連記事
-
- づけ (2018/03/06)
- ねづ (2018/02/27)
- くだきつね (2018/02/20)
- りっぷすてぃっく (2018/02/13)
- くりぃむしちゅーのえきばり (2018/02/06)