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2018.01.22.00.00

『ほぼ日刊イトイ新聞』で佐藤正午と糸井重里の対談『小説を書くということ。』を読む。

対談、と表題には掲げられてはいるが、これは一体、対談なのだろうか。連載時に読んでいた時はずっとそんな印象ばかりがつきまとっていた。
と、謂うのは、ここでの糸井重里 (Shigesato Itoi) の発言や姿勢が、これまでぼくが読んできた『ほぼ日刊イトイ新聞 (Hobonichi)』 [以下、『ほぼ日 (Hobonichi)』と略す] での糸井重里 (Shigesato Itoi) にはみられない様なモノばかりなのだ。
信仰告白、とそれを呼んでしまうのは大袈裟なのかもしれないが、彼の持論ばかりが次から次へと提出されていく。
対談なのだから、そこに参加する対談者は対等、互角の立場であると看做すべきなのだろうが、この対談は糸井重里 (Shigesato Itoi) 主宰の『ほぼ日 (Hobonichi)』で連載されたモノなのである。もう一方の対談者である佐藤正午 (Shogo Sato) が客ならば、糸井重里 (Shigesato Itoi) は立場上、主であるべきなのである。しかし、主客転倒ではないかと思わされる場面が幾つも登場しているのだ。

この対談『小説を書くということ。』は、佐藤正午 (Shogo Sato) の小説『鳩の撃退法 (Hato No Gekitai-ho)』の文庫版 [上巻下巻 全2冊] の下巻用解説を糸井重里 (Shigesato Itoi) が執筆する [対談が行われた当時、糸井重里 (Shigesato Itoi) はその解説を書き上げてもいない] 事が契機となって行われた。
で、あるのにも関わらず、記事リード部に示されたある様に、その小説の「物語の筋」に関しては一切、話題となってはいない。

後々、対談での発言を引用するので、当該対談のもくじをそのまま掲載しておく。

もくじ
第1回 上手い小説。
第2回 書くことだけ。
第3回 だまされていく。
第4回 いっしょに。
第5回 売れる、売れない。
第6回 書き出し。
第7回 思ったことを。

この対談の白眉は、糸井重里 (Shigesato Itoi) の次の発言である。「 特にくわしくないくせに、ぼくはいま / こうしてしゃべろうとしているんですが(笑)」[第3回] である。
と、謂うのは、糸井重里 (Shigesato Itoi) と謂う人物は、この様なエクスキューズを必要とされる様な発言をした事、発言しなければならない場面があっただろうか? と謂う単純な疑問である。それはこう換言する事も出来る。糸井重里 (Shigesato Itoi) と謂う人物はこの様なエクスキューズをしてまでも、発言する事、発言を欲する事があっただろうか。
少なくとも『ほぼ日 (Hobonichi)』にあっては、この様な危険? を冒す様な発言はしてこなかった様に、ぼくは憶えている。

しかも、この前後、糸井重里 (Shigesato Itoi) が発言していた内容は、彼個人の小説家観ないしは小説観なのである。
それが始まったのは、「その感じがどうして、 / 読んでいるぼくに伝わるんでしょうか。 」 [第3回] と謂う発言以降だ。
恐らく、この発言を機にして糸井重里 (Shigesato Itoi) はナニカを佐藤正午 (Shogo Sato) に完全に委ねてしまった様にも思えるし、この発言を機にして佐藤正午 (Shogo Sato) は糸井重里 (Shigesato Itoi) からナニカを引き出してしまったのに違いない。
何故ならば、糸井重里 (Shigesato Itoi) が自身の小説家観ないしは小説観を語っているその際の姿勢は、どうみても、対談者であるよりも、小説家の熱心なファンのそれにしかみえないからなのだ。

しかし、これがあるが為に、佐藤正午 (Shogo Sato) の糸井重里 (Shigesato Itoi) への態度も変わっていく様にみえる。
彼の発言を引用すると、「『鳩の撃退法』は糸井さんがご自分で買ってきて、 / 読んだんですか?」 [第1回]、「うーん、そうなのかなぁ。」 [第3回]、「‥‥それはいったいなんなのでしょうか。」 [第3回]、これらをどう捉えるべきなのか。
対談の読者の、読み方によってこれらの発言のニュアンスは微妙に変わるのだろうと思われるのだが、そこに疑義とは別のモノが存在している様な印象は拭えない。
佐藤正午 (Shogo Sato) は「(取材旅行なんて)ないです。」 [第3回] と謂う事なのだが、ここでの彼の態度は取材、と認識する事も妨げない。記事冒頭でぼくが主客転倒と綴ったのはここを指している。

だから、糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身の小説家観ないしは小説観が語られている部分までは、対談両者にある認識は、お互いの差異の部分ばかりなのではないだろうか。
そして、そんな差異があるにも関わらずに、何故、佐藤正午 (Shogo Sato) の作である小説『鳩の撃退法 (Hato No Gekitai-ho)』が糸井重里 (Shigesato Itoi) と謂う読者を獲得出来たのだろうかと謂う問題 [視点を変えれば糸井重里 (Shigesato Itoi) はその小説のどこに魅了されたのかと謂う問題] の、その解答を両者それぞれに模索しているのである。

但し、その流れは変わる。
それは佐藤正午 (Shogo Sato) の「それは「商業的に」という意味で、です。」[第5回] と謂う疑義の登場によってである。
それ以降、小説家の熱心なファンとしての糸井重里 (Shigesato Itoi) の発言は影を潜め、その代わりに「本職」 [第4回] の立場にたった発言が増してくる様に思える。だからと謂って、糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身の小説家観ないしは小説観が立ち消えてしまった訳ではないが、それを語る糸井重里 (Shigesato Itoi) 自身の視点や視線が異なるモノとなっている。

恐らく、それこそがこの両者の対談のあるべき姿なのであろう。

しかし、ぼくは全然違う事を今、考えている。
佐藤正午 (Shogo Sato) の「それは「商業的に」という意味で、です。」[第5回] を促した彼の「そのことについて、ちょっと / 思っていたことがあって‥‥。 」 [第4回] を読んだぼくは、この後に続くべき彼の発言に、全然異なるモノを望んでいたのである。

それが一体、なんなのかと謂うのは説明しづらいのだけれども、この対談がその地点からさらに飛躍したモノになる事を望んでいたのだろう、と謂う事だけは解っている。

そして、何故、あろうべき飛躍を望む事が叶わなかったのか、その理由は薄々、解ってはいるのだが、ここでは書かない。
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