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2017.12.26.09.27

やせいのえるざ

物語の骨子は馴染みがあるのだが、ではそれをいつどこでどの様に体験したのかと謂うと、一向に憶えがないのであった。

原作であるノンフィクション『野生のエルザ ライオンを育てた母の記録 (Born Free)』 [著:ジョイ・アダムソン (Joy Adamson) 1960年刊行 訳:藤原英司 (Eiji Fujiwara) 1962年 日本語版文藝春秋新社刊行] は勿論、読んだ記憶がない。
その映画化作品『野生のエルザ (Born Free)』 [ジェームズ・ヒル (James Hill)、トム・マッゴーワン (Tom McGowan) 監督作品 1966年制作] も劇場で観た記憶もないし、TV放映 [TBS系列『月曜ロードショー (Monday Roadshow) 』にて1972年初放映] に関しても同様だ。
では、そのTVドラマ版『野生のエルザ (Born Free)』 [1974NBC制作 1975フジテレビ系列放映] なのだろうか。

ここから先はすごく曖昧な記憶に基づいていて確信は一切にない。

ぼくがTV放映当時棲んでいた地域では、少なくともそのTVドラマは、今で謂うゴールデン・タイムやプライム・タイムに放映されてはいなかった様な記憶があるのだ。
つまり、それはどう謂う事なのかと謂うと、家族揃ってそのドラマを堪能したのではない、と謂う事。
日中の午後、平日に放送されていた様な記憶が朧げにある。

だから、下校して帰宅したばかりの時間に放送されていたのか、それとも、夏休み等の休暇期間に放送されていたのか。

何故、そんな曖昧模糊とした記憶があるのかと謂うと、そのTVドラマで語られている物語りを毎回、丹念に追っていたと謂う自覚がぼくにないからである。
つまり、観ていたとしてもつぎはぎのエピソードの記憶ばかりなのである。

それでも、何故か、物語のディテールは馴染みのモノであって、しかもそのTVドラマ放映当時に於いても、既に知古のモノであると謂う認識があったのだ。
つまり、TVドラマ放映時に於いて、あの物語を今度は別の出演者で放送するんだな、と謂う様な。

もしかしたら、記憶が曖昧であるが故に捏造されているのであろうか。

ただ、次の様な事は謂える。

洋画を放映するTV番組は各局21時台スタートだが、当時のぼくには選局権はない。ないどころかその時間は既に就寝すべき時間帯だ。親が薦める映画もしくは親が観たい映画、さもなければ何が何でもぼくが観たい映画でなければ、観る事は出来ない。
その結果、ぼくは新聞のTV欄を丹念に読む習慣がついてしまう。
おそらくその結果、映画『野生のエルザ (Born Free)』の物語をそこで認知してしまったのだ。
そしてその時の記憶を基にして、同名TVドラマに向かったのではないだろうか。

ところで、動物を主役にした物語、もしくは動物の飼い主を主役にした物語は、これまで数多く語られてきた。
面白いモノもあればつまらないモノもある。
当然だ。
その中に於いて、『野生のエルザ (Born Free)』と謂うモノに関しては、ぼく個人としてはその位置付けがなんだかややこしいモノのひとつだ。と、謂うか、冷淡に振る舞わざるを得ない。
その理由のひとつは、飼う側も飼われる側もどちらも女性=牝であると謂うところにある様な気がする。
つまり、物語の底辺にあるのは、母娘の物語ではなかろうかと謂う疑義である。
男性であるところのぼくは、どう接すればいいのか解らない。どんな視点にあろうとも、第三者の場所しか与えられず、傍観者に徹するしかないのである。

平日午後に放送されていたと謂う曖昧な記憶を補完するのも、それである。
子供向けの番組、家族向けの番組と謂うよりも、主婦向けの番組、謂わば、昼メロ番組と看做しても良さそうな主題がそこにはありそうな気配がするからだ [ライオン (Lion Corporation) 提供のTV番組枠『ライオン奥様劇場 (TV Theatre For Madams) [19641984フジテレビ系列放映] への類推も働いているのかもしれない]。

似て非なる、少女と巨猿の物語である映画『マイティ・ジョー (Mighty Joe Young)』 [ロン・アンダーウッド (Ron Underwood) 監督作品 1998年制作] のラスト・シーンにしみじみとしてしまうのは、飼う側と飼われている側に、疑似恋愛関係をみいだしてしまうからだ。

もしも仮に。

そう、もしも仮に、と謂う視点で、この物語の設定を総て逆転してしまうと、一体、どうなるのか。
実話を虚構に。
飼う側と飼われる側、そのどちらの性差も逆転させて。つまり母娘の物語を父とその息子の物語として。
さらにそして、両者の、文明化の下での短かった共同生活ではなくて、飼われている側のかつての生活の場での行動を主軸に据えてみるのならば。

そうすると、何故かマンガ『ジャングル大帝 (Jungle Emperor Leo)』 [作:手塚治虫 (Osamu Tezuka) 19501954漫画少年連載] の物語そっくりになってしまう。

images
上掲画像は故郷に帰国した際の主人公レオ (Leo) の悲痛な叫び [こちらから]。
余談ながら、この描写に関しては『手塚治虫はどこにいる (Osamu Tezuka, Where You Are?)』 [著:夏目房之介 (Fusanosuke Natsume) 1992年刊行] に於いて丁寧な分析と考察がある。

念の為に付け加えておくと、マンガの発表が1950年からであり、ノンフィクションの発表が1960年である。現実の方が虚構作品の後塵を配しているのだ。

次回は「」。

附記:
邦題に関して。
原題である『ボーン・フリー (Born Free)』は、物語の大事なメッセージであろうし、もしかしたら、作中の大事な場面で発せられる重要な言葉なのかもしれない。
だけれども日本人であるぼく達からみれば、如何ともしがたいのが原題であるとも謂える。いつどこでだれが発しようとも何の衒いもなく可能な、安っぽい言葉なのだ。
その点、邦題は、それが描く情景が叙景となり得る可能性があるばかりか、ぼく達の中にあるアフリカと謂う語句が予ねてから秘めているイメージを自在に薬籠中のモノと変換させる様に思える。
「野生のエルザ (Elsa In The Wild)」とは、その牝ライオン自身の事でもあるし、実質的な意味での主人公である飼い主からの視点でもある。そして、それ故に、ぼく達が観る、牝ライオンのあるべき姿をも描写している様にも思えるのだ。
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