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2017.12.19.15.11

ぎりとにんじょうはかりにかけりゃ

義理 (Duty) とか、人情 (Humanity) とか、あれはいったい、なんなのだ?

本当は、近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) の戯曲、特に世話物 (Sewamono : Domestic Plays) に分類される作品群を丁寧に読み込んでいかなければならないのかもしれない。
いや、その前に、滝沢馬琴 (Takizawa Bakin) の小説『南総里見八犬伝 (Nanso Satomi Hakkenden)』 [18141842年執筆] の登場人物のひとり、犬川荘助 (Sosuke Inukawa) の行動規範を分析する必要もあるのかもしれない。彼はその物語の中枢を成す八犬士 (The One Of Eight Dog Samurais) のひとり、義の珠 (The Ball Of Duty) をもつ人物なのである。

随分、大事だなぁと気が滅入ってところでふと魔がさして、検索してみたところ、サイト『松岡正剛の千夜千冊 (Seigo Matsuoka's One Thousand Nights One Thousand Volume)』で松岡正剛 (Seigo Matsuoka) が『義理と人情 (Duty And Humanity)』 [著:源了圓 (Ryoen MInamoto) 1999年刊行] を紹介している。
そこでの冒頭は、映画『昭和残侠伝 唐獅子牡丹 (Showa zankyo-den : Karajishi Botan)』 [佐伯清 (Kiyoshi Saeki) 監督作品 1966年制作] とその主題歌、映画で主人公、花田秀次郎 (HIdejiro Hanada) を演じた高倉健 (Ken Takakura) 歌唱の『唐獅子牡丹 (Karajishi Botan)』 [作詞:矢野亮 (Ryo Yano) 作曲:水城一狼 (Ichiro Mizuki) 1966年発表] の紹介である。

映画は観た事はないが、そのモチーフ (Motif) はぼくでも知っているものだ。当時、それとも後年、いやもしかしたら現在でもそのドラマツルギー (Dramaturgy) は様々な異なる意匠を持って顕れている。
その記事で、松岡正剛 (Seigo Matsuoka) によって綴られているあらすじが幾分、パスティーシュ (Pastiche) の様な、カリカチュア (Caricature) の様な、道化た仕草をみせ、それが許されるのも、この物語が既に、様々な形象をもって消費されて濫費されているからにすぎない。

だから、サイト『松岡正剛の千夜千冊 (Seigo Matsuoka's One Thousand Nights One Thousand Volume)』で掲載されている文章を丁寧に辿って行けば、ぼくが当初抱えていた課題、滝沢馬琴 (Takizawa Bakin) のそれにも近松門左衛門 (Chikamatsu Monzaemon) のそれにも肉迫出来るのだろうが、今回のこの記事ではそこで立ち止まる。
昭和残侠伝 唐獅子牡丹 (Showa zankyo-den : Karajishi Botan)』のそれ、映画は未見だから、その主題歌が呈示している命題にだけ、こだわってみようと思うのだ。

images
その曲はこう唄う [上掲画像はこちらから]。
義理と人情を 秤にかけりゃ / 義理が重たい 男の世界 (Weighing Up The Options The Duty And The Humanity / My Duty Heavier than My Humaity, IN The Man's World)♪

そこだけに着目すれば、ある人物 [達] にとって、義理 (Duty) と人情 (Humanity) とは同等の価値があるが上に、全く異なる概念、あい対立する存在である、と謂う事になる。

果たしてそうなのか。

ぼくからみれば、いずれか一方を選択し、いずれか一方を排除しなければならない状況に置かれた際の、その決断によって一方を採り一方を捨てたその正当性 (Excuse) を主張する為にのみ、機能している様にも思える。
つまり、選択した当事者の主張には、採ったモノを義理 (Duty) 、捨てたモノを人情 (Humanity) とあるが、それは結果的にそうなっただけの事ではないだろうか。
もしも全く逆の行為が行われたとしても、その当事者は、採ったモノを義理 (Duty) 、捨てたモノを人情 (Humanity) と主張するのではないだろうか。否、そう主張せねばならないのだ。
しかも、それを論理的に否定する手段、批判する手段は、他者であるぼく達には一切にない。極めて主観に根ざした発想がそこにあるのだ。

こんな事を綴ってしまえば、単なる詭弁 (Sophistry) を弄しているだけの様に思えるのかもしれない。

こんなクイズがある。
目の前に、2枚の紙片がある。かたちもいろもおおきさもまったくおなじだ。
その紙片のうらには、片方には諾とあり、片方には否とある。そう出題者は主張する。
さて、回答者はここでこの2枚の紙片から1枚を選びとらなければならない。確率は単純に1/2、50%である。
しかし、この問題には裏がある。実は、いずれの紙片にも否とあるのだ。
出題者は回答者には絶対に、諾を選ばれない様に罠を仕掛けたのだ。
しかし、その回答者はさらに裏をかき、諾の紙片をえらんでしまう。
果たして、その方法とは一体、なんなのか。

主題歌『唐獅子牡丹 (Karajishi Botan)』で歌唱されている義理 (Duty) と人情 (Humanity) とは、おそらく上の様な問題なのである。
どちらを選んでも義理 (Duty) を選んだ事にしかならない。どちらを捨てても人情 (Humanity) にしかならない。

だから、後年、映画『男はつらいよ (It's Tough Being A Man)』 [山田洋次 (Yoji Yamada) 監督作品 1969年制作] の主人公、車寅次郎 (Torajiro Kuruma) [演:渥美清 (Kiyoshi Atsumi)] はこう謂う。
それを言っちゃあおしまいよ (That's Something That's Best Left Unsaid.)」と。
彼はそうやっていつも、義理 (Duty) と人情 (Humanity) を秤にかけるところから逃避していくのだ。
その為にそれ故、彼は失恋と逐電を繰り返す羽目になる。それが逃亡者への仕打ち、彼への罰なのである。

TVアニメ番組『新世紀エヴァンゲリオン (Neon Genesis Evangelion)』 [19951996テレビ東京系列放映] の主人公碇シンジ (Shinji Ikari) [声:緒方恵美 (Megumi Ogata)] が謂い続けていたのも、結局そこに問題があるのだろう。

彼は謂う。
逃げちゃ駄目だ、 ( I Mustn't Run Away)」と。

次回は「」。

附記:
上に例示したクイズの回答はこうだ。
回答者はいずれか1枚の紙片を選び、その裏をみないまま、破り捨ててしまう。そして、遺されたもう1枚を見ず、そのままのかたちで出題者に呈示する。もちろん、その紙片をうらがえせばそこには否と綴られてる。そこで、先程破り捨てた1枚こそ諾の紙片であり、その紙片を自身が選んだと主張するのである。
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