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2017.12.05.08.59

うすとうしのくそとはちとくり

花田清輝 (Kiyoteru Hanada) が随筆『サルカニ合戦 (The Crab And The Monkey)』[発表年掲載誌不詳] で語っている事はたったのひとつ、 (Persimmon) についてなのである。
勿論、その随筆の主題となる民話『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』には (Persimmon) が登場する。だから、その (Persimmon) を巡る当事者であるところの (Ape) と (Crab) については充分に言及されてはいる。しかし、寺田寅彦 (Torahiko Terada) の『柿の種 (Seed Of Persimmon)』 [発表年掲載誌不詳] や柳田國男 (Kunio Yanagita) の『昔話覚書 (The Memo Of Old Tales)』 [1943年発表] が話題となって登場するのに引き換え、その民話の重要な登場人物達には一切に触れられていない。 (Ape) と (Crab) の合戦に、 (Crab) への助太刀として参加した、 (Quern) と牛糞 (Cow Dung) と (Bee) と (Chestnut) に関する言及が一切にない。

もともと、とても変な話なのである。

拾った御握り (Onigiri) と柿の種 (Seed Of Persimmon) との交換から事は起こっている。交換時には等価と思われていた2物の価値が時を経る事によって、その価値に差異が生じる。そして、花田清輝 (Kiyoteru Hanada) が着目しているのは、その生じた差異と価値の、その原因についてなのである。
柿の種 (Seed Of Persimmon) に交換時以上の価値をもたらした (Crab) を生産者 (Producer) と看做し、その交換によって得た御握り (Onigiri) を徒らに喰うがままに喰らってしまった (Ape) を消費者 (Consumer) と看做す。本来ならば、そんな仮託によって、経済や社会に根ざす大問題の議論へと飛躍しても良さそうなのにも関わらず、花田清輝 (Kiyoteru Hanada) は自身の家庭内の雑事、即ち家計 (Household) を語る事へと遁走する。
その結果、 (Ape) と (Crab) と柿の種 (Seed Of Persimmon) を巡る問題を語るところで、その随筆は終わらなければならない。

その民話は (Ape) と (Crab) と柿の種 (Seed Of Persimmon) と御握り (Onigiri) を巡る物語を語り終えた後に、次の主題へと移っているのだ。
(Crab) による (Ape) への敵討ち (Vengeance)、そしてそれに助太刀として参戦する (Quern) と牛糞 (Cow Dung) と (Bee) と (Chestnut) の物語だ。

もしかすると花田清輝 (Kiyoteru Hanada) にとっては、 (Ape) と (Crab) と柿の種 (Seed Of Persimmon) と御握り (Onigiri) があるだけで、そこにとても不条理な光景が広がってしまったのかもしれない。まるで、解剖台のミシンと傘の偶然の出逢い (Beau comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine a coudre et d'un parapluie) の様な。
そこに花田清輝 (Kiyoteru Hanada) と謂う作家や、彼が活きてきた時代の限界と謂うモノを見出せてしまうのかもしれない。

だが、その民話の真骨頂はその次に控えている。解剖台のミシンと傘の偶然の出逢い (Beau comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine a coudre et d'un parapluie) と謂う形容はまさにその時点が来た時にこそ、登場すべきなのである。

この民話に登場する (Chestnut) は、 (Chestnut) と謂う樹木に成長するそれ以前の存在、つまり、柿の種 (Seed Of Persimmon) とほぼ同じだ。にも関わらずに、柿の種 (Seed Of Persimmon) が (Crab) に常に生命を脅かせられながら成長していったその一方で、栗は柿の種 (Seed Of Persimmon) と同じ時点でありながら、既に (Crab) の敵討ち (Vengeance) に参戦出来る程に、成長している。謂うなれば、柿の種 (Seed Of Persimmon) が幼児である一方で、 (Chestnut) は既に成人なのである。
一考、ありえない様な状況ではあるが、哺乳類 (Mammal) で考えれば、 (Horse) とパンダ (Giant Panda) の出生時の状況は全然異なる。前者は誕生直後に自立出来るのに、後者はそうではない。
だから、ここで生半可な知識を登場してさも総てをお見通しである様な素振りをして見せれば、桃栗3年柿8年 (It Takes Time To See The Result.) とはこの事なのである。

(Chestnut) にとっての柿の種 (Seed Of Persimmon) と謂う存在は、とりあえずはそんな解釈で妥協出来るのかもしれない。
しかし、 (Chestnut) の視点からみた牛糞 (Cow Dung) と (Quern) はとても奇妙だ。
牛糞 (Cow Dung) は草食動物 (Herbivorous Animal) たる (Cattle) の排泄物であるから、かつては (Chestnut) と同じ植物であった筈だ。
(Quern) は、その材質に対しては一切触れられてはいないものの、植物性である事は疑いようもない。
だから、植物の種子である (Chestnut) の視点からみれば、牛糞 (Cow Dung) や (Quern) は、あたかも腐乱屍体 (Decomposed Body) や白骨屍体 (Skeletonized Body) が意思ある生物として行動している様にみえるのではなかろうか。

(Chestnut) にとってはとても不気味な光景ではある。
しかし、 (Chestnut) もまた後に、牛糞 (Cow Dung) や (Quern) と同じ様な地位に加わる事になる。
(Ape) を懲らしめる為にとった自身の行動は、どうみても自爆、特攻 (Kamikaze) でしかない。五体満足 (Having No Physical Defect) [と謂う表現がこの場合適正かどうかは解らないが] でいられる訳もない。身体の一部ないしは大部分に火が通り、焼き栗 (Roast Chestnut)、つまり立派な焼死体 (Charred Body) となっている筈なのだ。

では (Bee) は一体、なんなのか。
これはよく解らない。
(Chestnut) の視点からだけでは解らない。
もしかしたら、 (Bee) が蜜を収拾して授粉 (Pollination) した結果、この (Chestnut) が誕生したのかもしれないのだが。
だとすれば自身の両親のキューピッド (Cupido) ないしは産婆 (Midwife) の様に、 (Chestnut) にはみえているのかもしれない。

images
カニノイヘニ カヘリツクト コガニガ ナハヲ トイテヤリマシタ。サルハ オヤガニノマヘニ スワッテ ピタリト リャウテヲ ツイテ「カニサン ホントニ スマナカッタ モウ ケッシテ ワルイコトハ シナイカラ コンドダケハ ドウカユルシテオクレ」 ト ココロカラ オワビヲ イヒマシタ。ソコデ カニモ サルヲユルシテヤリマシタ。

上掲画像 [こちらより] は絵本『猿蟹合戦 (The Crab And The Monkey)』 [絵:井川洗崖 (Sengai Ikawa) 文:松村武雄 (Takeo Matsumura) 1937講談社刊行] の最終頁、この民話の大団円の頁である。幼時、ぼくが両親から買い与えられた絵本もこれである [但し文章自体は現在の口語文になっていた筈だ。上の文は『目でみる日本昔ばなし集 (The Issue For Illustrated Japanese Old Tales)』 [編:鳥越信 (Shin Torigoe) 1986文春文庫刊行] に転載されているモノをそのまま転用した。花田清輝 (Kiyoteru Hanada) の随筆『サルカニ合戦 (The Crab And The Monkey)』もそこで読んだのである]。

しかし、不思議な画像である。
画面右端に座している (Chestnut) に、虚無そのものであるかの様な眼玉がふたつ張り付いているのはまだいい。 (Quern) がさも実直で頑固者であるかの風情で両腕を組んでいるのは逆に妙な説得力がある。
しかし、彼等2人、 (Chestnut) や (Quern) に加えて、 (Bee) も (Crab) の親子も、人間の胴体の上に、その属性である全身像が頭部として描かれているのがとっても奇妙なのだ。ぼくの謂っている意味が解らなければ、 (Bee) をじっくりとみてみればいい。本来あるべき人間の頭部があるべき場所に (Bee) の全身像があるのだ。映画『蝿男の恐怖 (The Fly)』 [カート・ニューマン (Kurt Neumann) 監督作品 1958年制作] よりもこの図は怖い。
怖いのだけれども、それがこの図の世界観として統一されていれば、納得もしよう。
しかし、 (Ape) だけは着衣の (Ape) なのだ。 (Chestnut) や (Quern) や (Bee) や (Crab) の親子と同様に、 (Ape) もまた、人間の胴体の上に (Ape) の全身像が据えられてしかるべきなのである。
もしかしたら (Ape) だけが描写が異なるのは、それ故に、 (Ape) と、 (Crab) や (Chestnut) や (Bee) や (Quern) と大きな断絶が存在しているのかもしれない。 (Ape) だけは全くもって他の種族と異なる存在なのだ。この民話の物語はそこに根底を据えているのかもしれない。

そして、この絵本には牛糞 (Cow Dung) が登場しないのもきっとおなじ道理が働いているのだろう。
この図の描写に則って牛糞 (Cow Dung) を描くとしたらどうなるのか。恐らく、映画『溶解人間 (The Incredible Melting Man)』 [ウィリアム・サッチス (William Sachs) 監督作品 1977年制作] に登場した溶解人間 (Melting Man) の様な相貌をもった牛糞 (Cow Dung) が登場するのに違いない。

次回は「」。

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