2017.11.28.09.35
読んだのは中学生の頃だ。
読む前に、物語の骨子は知っていた。
そして読み終わって思ったのは、えらくふるぼけたはなしだな、と謂う事だった。
19世紀末に発表された小説を、20世紀を3/4も経過した時代に読んで、ふるぼけたもなにもないモノだけれども、この感想は必ずしも作品成立の時季に左右されるモノでもない。
この小説よりももっと昔の時代に発表されたモノであっても、斬新で魅力的な物語には幾つも出逢えたし、それとは逆に、発表されたばかりの新作であっても古色蒼然とした佇まいの物語にも何度も遭遇してしまっているのだから。
ぼくが読んだその小説『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray
)』 [オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) 作 1890年発表] は、新潮文庫 (Shincho Bunko) 版 [福田恆存 (Tsuneari Fukuda) 1962年発売]。クリーム時のカヴァーの折り返し、つまり袖 (Flap) には、数葉のモノクロ写真が掲載されていた。その小説の映画化作品『ドリアン・グレイ / 美しき肖像 (The Secret Of Dorian Gray)』 [マッシモ・ダラマーノ (Massimo Dallamano) 監督作品 1970年制作] のスティール写真である。
その数点の写真に撮影されていた映画作品の中の主人公、ドリアン・グレイ (Dorian Gray) [演:ヘルムート・バーガー (Helmut Berger)] と彼を描いた肖像画 (The Picture) には、違和感をもった憶えがある。ヘルムート・バーガー (Helmut Berger) [中学生のぼくには彼と謂う男優はまだ未知の存在だ] の肉体とその彼を忠実に模写した油彩画 (Oil Painting) は、ぼくの中にあるドリアン・グレイ (Dorian Gray) とは合致しないのであった [現在の彼の肉体とその老醜は、まるで肖像画 (The Picture) の中にあるべきドリアン・グレイ (Dorian Gray) の姿を彷彿させてしまうのではあるが]。
結局、その違和感を引き摺りながら、その小説を読了したのが、ぼくの感想、ふるぼけたはなし、の正体なのだろうか。
ドリアン・グレイ (Dorian Gray) は、もっと腺病質で神経過敏な肉体と相貌であって欲しかったのかもしれない。例えて謂えば [かつての] テレンス・スタンプ (Terence Stamp) やデヴィッド・ボウイ (David Bowie) だ。嗚呼、勿論、ビョルン・アンドレセン (Bjorn Andresen) でもいいよね?
と、昔話を縷々と綴っていても少しも生産性がある訳ではない。
もう少し、物語そのものに迫ってみよう。
物語の骨子は非常に単純だ。自身の内面と自身の外観にきたした齟齬が、自身の破滅を促す。しかも破滅したが故に、その時初めて、内面と外観が合致する。
そこだけに着目すれば、玉手箱 (Tamatebako : Treasure Box) を開けてしまった浦島太郎 (Urashima Taro) の物語へも還元出来てしまう。
この単純さ故に、如何様にも、この物語は解読できてしまうのだ。
極端なモノを挙げれば、教条主義的 (Dogmatism) なモノ、因果応報 (What Gose Around Comes Around) とか信賞必罰 (Let A Fault Go Unpunished) とか盛者必滅 (All Living Things Must Die) とか、そんなありきたりのくちあたりのいい熟語をそこにみいだすのは可能だ。
なにせ、悪逆の限りを尽くした主人公が、自身の犯した行為とその結果に畏れをなして自滅してしまうのだから。
多分、ふるぼけたはなし云々の印象はきっとこのあたりのモノに反応して生じたモノに違いない。
だけれども、作者オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) は決してその様な物語を描きたくてその文章を綴った筈ではない。
同じ作者の童話『幸福な王子
(The Happy Prince)』 [1888年発表] が一見、純粋で無辜の精神を描いた素振りをみせながら、実はそれとは全く異なる物語を語りたがっている様に [と謂う指摘はかつてここでした]、ドリアン・グレイ (Dorian Gray) の物語は、上に挙げた様な四字熟語 (Four Character Idiom) とは無縁の物語である筈なのだ。
もしかしたら当時の読者の大半に、常識的な四字熟語的 (Four Character Idiom) な主題と誤解させる事が、作者の念頭にあったのかもしれない。
第一に、ドリアン・グレイ (Dorian Gray) 自身は主人公では決してない。彼はひとつの傀儡に過ぎず、物語に登場するヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が真の主人公であるとみるべきなのだ。ヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が語る事そののモノが作者自身の言葉であり、その主張であると謂ってもよい。
つまり、ヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が語る彼の理想の体現者がドリアン・グレイ (Dorian Gray) なのである。
物語はその理想の失墜をつぶさに語ったモノとも表現出来る。
理想が失墜するには、その実態化を命じられた肉体とその精神には、ある種の脆弱性がみてとれなければならない。と、謂う意味に於いても、当時のヘルムート・バーガー (Helmut Berger) ではぼくにとっては都合が悪いのだ。
では何故、作者すなわちヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) の代行人として、そこにドリアン・グレイ (Dorian Gray) と謂う人物が登場し、彼の破滅が縷々と語られていくのか。
エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の短編に『ウィリアム・ウィルソン
(William Wilson)』 [1839年発表] がある。ドッペルゲンガー (Doppelganger) の登場によって自滅する青年の物語だ。
悪逆の限りを尽くそうとする主人公の前に絶えず、そのドッペルゲンガー (Doppelganger) が顕れ、主人公を妨害する。
この短編を正邪ひっくり返せば、そのまま小説『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray
)』が誕生する。
オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) はエドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) のその短編を読んでいたのではないだろうか。
ぼくが小説『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray
)』に望んだのは、ドッペルゲンガー (Doppelganger) の物語の系譜、その古典として、なのだろう。
単純な怪異譚や恐怖譚を求めて読んだ中学生のぼくには、それ以外の要素つまり作者本来が意図したモノが必要以上に煩わしかったのだ。

映画『ドリアン・グレイ / 美しき肖像 (The Secret Of Dorian Gray)』を始め、この物語は何度も映像化が試みられているが、ぼくはそのどれも未体験なのだった。
上に掲載したのは、その最初の映像化作品である映画『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray)』 [アルバート・リューイン (Albert Lewin) 監督作品 1945年制作] に登場した。
I.L. オールブライト (Ivan Albright) 画のこの作品『ドリアン・グレイの肖像 (Picture Of Dorian Gray)』 [1943〜1944年制作] は現在、シカゴ美術館 (The Art Institute of Chicago) に収蔵されている。
次回は「う」。
附記 1. :
当初はこのあと、小説『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray
)』の系譜に連なる創作群をつらつらと書き連ねてみようと思ったのだが。膨大な量と質になりそうなので、断念する事にする [笑]。そんな作品を紹介する機会があれば個別に取り上げる事にしよう。
附記 2. :
井の頭自然文化園 (Inokashira Park Zoo) 等にある人間の檻 (Humans - The World’s Most Dangerous Animals) 、すなわち檻の中に等身大の鏡が設えてあってそこに自身の鏡像に相対する装置は、ある意味で『ドリアン・グレイの肖像
(The Picture Of Dorian Gray
)』ではないか、と考えられる。
読む前に、物語の骨子は知っていた。
そして読み終わって思ったのは、えらくふるぼけたはなしだな、と謂う事だった。
19世紀末に発表された小説を、20世紀を3/4も経過した時代に読んで、ふるぼけたもなにもないモノだけれども、この感想は必ずしも作品成立の時季に左右されるモノでもない。
この小説よりももっと昔の時代に発表されたモノであっても、斬新で魅力的な物語には幾つも出逢えたし、それとは逆に、発表されたばかりの新作であっても古色蒼然とした佇まいの物語にも何度も遭遇してしまっているのだから。
ぼくが読んだその小説『ドリアン・グレイの肖像
その数点の写真に撮影されていた映画作品の中の主人公、ドリアン・グレイ (Dorian Gray) [演:ヘルムート・バーガー (Helmut Berger)] と彼を描いた肖像画 (The Picture) には、違和感をもった憶えがある。ヘルムート・バーガー (Helmut Berger) [中学生のぼくには彼と謂う男優はまだ未知の存在だ] の肉体とその彼を忠実に模写した油彩画 (Oil Painting) は、ぼくの中にあるドリアン・グレイ (Dorian Gray) とは合致しないのであった [現在の彼の肉体とその老醜は、まるで肖像画 (The Picture) の中にあるべきドリアン・グレイ (Dorian Gray) の姿を彷彿させてしまうのではあるが]。
結局、その違和感を引き摺りながら、その小説を読了したのが、ぼくの感想、ふるぼけたはなし、の正体なのだろうか。
ドリアン・グレイ (Dorian Gray) は、もっと腺病質で神経過敏な肉体と相貌であって欲しかったのかもしれない。例えて謂えば [かつての] テレンス・スタンプ (Terence Stamp) やデヴィッド・ボウイ (David Bowie) だ。嗚呼、勿論、ビョルン・アンドレセン (Bjorn Andresen) でもいいよね?
と、昔話を縷々と綴っていても少しも生産性がある訳ではない。
もう少し、物語そのものに迫ってみよう。
物語の骨子は非常に単純だ。自身の内面と自身の外観にきたした齟齬が、自身の破滅を促す。しかも破滅したが故に、その時初めて、内面と外観が合致する。
そこだけに着目すれば、玉手箱 (Tamatebako : Treasure Box) を開けてしまった浦島太郎 (Urashima Taro) の物語へも還元出来てしまう。
この単純さ故に、如何様にも、この物語は解読できてしまうのだ。
極端なモノを挙げれば、教条主義的 (Dogmatism) なモノ、因果応報 (What Gose Around Comes Around) とか信賞必罰 (Let A Fault Go Unpunished) とか盛者必滅 (All Living Things Must Die) とか、そんなありきたりのくちあたりのいい熟語をそこにみいだすのは可能だ。
なにせ、悪逆の限りを尽くした主人公が、自身の犯した行為とその結果に畏れをなして自滅してしまうのだから。
多分、ふるぼけたはなし云々の印象はきっとこのあたりのモノに反応して生じたモノに違いない。
だけれども、作者オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) は決してその様な物語を描きたくてその文章を綴った筈ではない。
同じ作者の童話『幸福な王子
もしかしたら当時の読者の大半に、常識的な四字熟語的 (Four Character Idiom) な主題と誤解させる事が、作者の念頭にあったのかもしれない。
第一に、ドリアン・グレイ (Dorian Gray) 自身は主人公では決してない。彼はひとつの傀儡に過ぎず、物語に登場するヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が真の主人公であるとみるべきなのだ。ヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が語る事そののモノが作者自身の言葉であり、その主張であると謂ってもよい。
つまり、ヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) が語る彼の理想の体現者がドリアン・グレイ (Dorian Gray) なのである。
物語はその理想の失墜をつぶさに語ったモノとも表現出来る。
理想が失墜するには、その実態化を命じられた肉体とその精神には、ある種の脆弱性がみてとれなければならない。と、謂う意味に於いても、当時のヘルムート・バーガー (Helmut Berger) ではぼくにとっては都合が悪いのだ。
では何故、作者すなわちヘンリー・ウォットン (Lord Henry "Harry" Wotton) の代行人として、そこにドリアン・グレイ (Dorian Gray) と謂う人物が登場し、彼の破滅が縷々と語られていくのか。
エドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) の短編に『ウィリアム・ウィルソン
悪逆の限りを尽くそうとする主人公の前に絶えず、そのドッペルゲンガー (Doppelganger) が顕れ、主人公を妨害する。
この短編を正邪ひっくり返せば、そのまま小説『ドリアン・グレイの肖像
オスカー・ワイルド (Oscar Wilde) はエドガー・アラン・ポー (Edgar Allan Poe) のその短編を読んでいたのではないだろうか。
ぼくが小説『ドリアン・グレイの肖像
単純な怪異譚や恐怖譚を求めて読んだ中学生のぼくには、それ以外の要素つまり作者本来が意図したモノが必要以上に煩わしかったのだ。

映画『ドリアン・グレイ / 美しき肖像 (The Secret Of Dorian Gray)』を始め、この物語は何度も映像化が試みられているが、ぼくはそのどれも未体験なのだった。
上に掲載したのは、その最初の映像化作品である映画『ドリアン・グレイの肖像
I.L. オールブライト (Ivan Albright) 画のこの作品『ドリアン・グレイの肖像 (Picture Of Dorian Gray)』 [1943〜1944年制作] は現在、シカゴ美術館 (The Art Institute of Chicago) に収蔵されている。
次回は「う」。
附記 1. :
当初はこのあと、小説『ドリアン・グレイの肖像
附記 2. :
井の頭自然文化園 (Inokashira Park Zoo) 等にある人間の檻 (Humans - The World’s Most Dangerous Animals) 、すなわち檻の中に等身大の鏡が設えてあってそこに自身の鏡像に相対する装置は、ある意味で『ドリアン・グレイの肖像
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