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2017.11.07.08.48

すずきたかはしうまのくそ

ずっと全国共通の成句だと信じ込んでいたのだが、この記事を綴る今、改めて検索してみると、どうやら違うらしい。
そこでは、鈴木 (The Suzuki) や高橋 (The Takahashi) ではなくて、加藤 (The Kato) や斎藤 (The Saito) や佐藤 (The sato)、等が並んだよく似た成句が登場しているのだ。
ぼくの出身地ならではの成句かと問えば、決してそうではない。ぼくがこの語句を知ったのは、幼い時に読んだ漫画週刊誌の隅に掲載されていたコラム欄だったのだから。

それが単なる記憶違いなのかどうかを検証する術は流石にない。それよりも何故、そんな成句を未だに憶えていられるのかと謂う方向に興味が湧くが、ここではとりあえず三つ子の魂百まで (The Child Is Father To The Man) と謂うもうひとつの成句を掲げてその例証とやらにさせてもらおう。
それよりも、ジークムント・フロイト (Sigmund Freud) の心理的発達理論 (Infantile Sexualitat) [『性理論三篇 (Drei Abhandlungen zur Sexualtheorie)』 1905年発表] の、肛門期 (Analen Phase) で傍証しながら、当時のぼくの、その頃の年齢の児童特有の心理作用あたりから解読した方が良いのだろうか。

閑話休題 (To Return To Our Subject)。

一般的によくある姓ふたつを並列し、その次に馬の糞 (Horse Manure) と謂う語句を追加する。
表題 [そしてぼくが幼時に知ったモノ] に倣って謂えば、鈴木氏 (The Suzuki) と高橋氏 (The Takahashi) の次に馬の糞 (Horse Manure) を並べて、鈴木高橋馬の糞 (The Suzuki, The Takahashi And Horse Manure) と謂う。
意味としては、馬の糞 (Horse Manure) よりも遥かに鈴木氏 (The Suzuki) や高橋氏 (The Takahashi) の方が、圧倒的な量でもって偏在している、と謂う意味になるのだろう。
件のコラム欄でもそんな解説が描かれた上に、丁寧にも後ろ向きの馬 (Horse) の姿が描かれたイラストが添えられていたと思う。

こんな事がかつてあった。
小学校の新学期、4月の事である。クラス替えで新しいクラスが出来たばかりのぼく達の前に、これから1年、ぼく達の担任となる教師が登場する。
開口一番、彼はこう発する。
「出席をとる。鈴木」
顔をみまわすぼく達の様子から、彼はこう謂ったのだ。
「変だな、大概、クラスの中に1人や2人はいるもんなのだが」

確かに、これまでの生活の中で、鈴木くん (Suzuki-kun) や高橋さん (Takahashi-san)、もしくは鈴木さん (Suzuki-san) や高橋くん (Takahashi-kun) とは、席を並べる事はあった。
と、謂う事をつらつら考えると、鈴木高橋馬の糞 (Suziki, Takahashi And Horse Manure) は、実生活に於いても正しい成句である様に思える。

だが、この成句がいつどの様にして誕生したのだろうと推理してみると、とても不思議な事態が出来する。
尚、これから綴るのはぼく自身の個人的な推理であって、学問的な裏付けや実証的な証拠は一切ない。

馬の糞 (Horse Manure) と謂う語句につられて、その生成時期を想像すると途端に困窮する。馬 (Horse) が身近な生活圏にいた時代にその語句が産まれたのだろうと邪推しても、江戸時代 (The Edo Period) 以前にこの語句が顕れるのは、意外と困難なのだ。

先ず、その時代以前、姓を名乗る事の出来る人物達は酷く限られていた。士農工商 (Four Occupations) で謂えば、士分 (Samurai) に当たる人物達だ。彼等の階級に属する人物達を評して、馬の糞 (Horse Manure) と並列化して何ら、お咎めはなかっただろうか。
勿論、川柳 (Senryu) や狂歌 (Kyoka) で当時の為政者達を当てこするモノは幾つも生成されてきた。だが、この成句に登場するのは、ある特定の人物達ばかりではない。

そして、当時、馬 (Horse) の城下での使用は防衛政策上、酷く制限されていたから、馬 (Horse) は都市部に於いては、ぼく達の想像以上に、目にする機会は少なくない可能性すらある。
だからと謂って、農村部に向かえば、馬 (Horse) は日常的には現在以上に身近ではあろうが、逆に、姓を名乗る人物達、つまり士分 (Samurai) は不在だ。

と、謂う事を前提に考えてみると、この成句は明治維新 (Meiji Restoration) 以降の、四民平等 (The Equality Of All People) で、国民誰もが姓をもつ時代が登場してからの事なのだろうか。

その前提となる平民苗字必称義務令1875年に交付された。
銀座煉瓦街 (Ginza-dori Renga-ishi) はその3年前、1872年の建設だ。
この頃に、この成句が誕生する機運があったとみる事は出来ないだろうか。

だがいずれ、そこにモータリゼーション (Motorization) が押し寄せる。馬 (Horse) は輸送や旅客の用から外れていく。
また、仮令押し寄せて来なく未だ馬 (Horse) がその便に供応していたとしても、関東大震災 (The Great Kanto Earthquake) [1923年] によって、その都市は否応もなく変容を迫られる事になるだろう。
この、長くても半世紀に満たない時季に、この成句が産まれ広まったとみる事は出来ないだろうか。

翻って、農村部ではどうなのかと謂うと ... 、どうなの?
極端な事例で考えると、この付近一帯の住民は皆、本家からの分家で同じ姓を名乗る、と謂う様な事を踏まえてみると、この成句が生成する機運と謂うのは、あまりないんぢゃないかなぁと、ぼくは思うのだ。
そうでなくても、鈴木氏 (The Suzuki) や高橋氏 (The Takahashi) と謂う、よくある姓を批判げに語る言説が登場するには、少なくともそれに対抗し得る勢力、つまり鈴木 (The Suzuki) でも高橋 (The Takahashi) でもない姓を名乗る人々が必要なのだから。地縁的な交流が濃厚な限られた場所では、産まれようもない成句である様にも思える。

ところで、この成句、馬の糞 (Horse Manure) 以上に其処彼処に鈴木氏 (The Suzuki) や高橋氏 (The takahashi) が偏在すると謂う意味に、これまで解してきたのだけれども、ここまで駄文を綴ってきたぼくには、実は全然違う意味がそこにあるのではないだろうか、と謂う憶測も産まれてきている。

それは、まるで馬の糞 (Horse Manure) の様に、一気に大量に、鈴木氏 (The Suzuki) や高橋氏 (The Takahashi) が誕生してしまったと謂うニュアンスだ。それを前提とさせるのが、平民苗字必称義務令の存在だ。
猫も杓子も (Every Tom, Dick And Harry) 鈴木 (The Suzuki) や高橋 (The Takahashi) になりやがって、と謂う気分をさらに強調した様な謂い回しなのだ。

images
但し、この様な説を裏付けるには、最低限、漫画等で、過剰にデフォルメされて描写される馬 (Horse) の排便の様子を一度、この眼で実際に確認する必要はあるのだろうとは思うのだが。
[上記掲載画像はこちらより。マンガ『銀の匙 Silver Spoon (Gin No Saji Silver Spoon)』[荒川弘 (Hiromu Arakawa) 作 2011年より 週刊少年サンデー連載] のひとこま。]

次回は「」。
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