2017.09.19.11.58
みょうな話なのである。
川を流れてきた果実をきってみれば、そこから幼児が誕生する。まるで、桃太郎 (Momotaro) の様だ。
但し、桃太郎 (Momotaro) はその名が顕す様に桃 (Peach) から産まれたのに対し、こちらは瓜 (Gourd) だ。しかも、男児ではなくて、こちらは女児なのである。だからその幼児は、桃太郎 (Momotaro) に対して、瓜子姫 (Urikohime) と呼ばれる。
最初はパロディ (Parody) なのかと思った。
勿論、この民話を知った当時、パロディ (Parody) と謂う言葉をぼくは知らない。ぼくが保育園 (Nursery School) に通っていた当時、産まれたばかりの従姪 (Cousin's Daughter) にと与えられた絵本で読んだのだから。確か、講談社の絵本 (Picture Books Of Kodansha) だったと思う。
だけれどもその民話は、彼女が瓜 (Gourd) から産まれた以降は独自の展開をする。桃太郎 (Momotaro) の様に、家来が出来る訳でもなく、鬼ヶ島 (Mythological Island Of Demons) に向かう訳でもない。
その代わりに、天邪鬼 (Amanojaku) なる怪異が登場するのである。
しかもその怪異が登場して以降、物語の主体は瓜子姫 (Urikohime) から彼へと代わる。
そう思うのは、ぼくが男児であるからだろうか。
当時のぼくの中では、その頃に放映されていたアニメ番組『魔法使いサリー
(Sally The Witch)』 [原作:横山光輝 (Mitsuteru Yokoyama) 1966〜1968年 NETテレビ系列放映] の主役は夢野サリー (Sally Yumeno) ではなくてその弟カブ (Kabu) や、彼女の同級生である花村よし子 (Yoshiko Hanamura) のみつごの弟達、トン吉 (Tonkichi) チン平 (Chinpei) カン太 (Kanta) であるのだから。
但しそんな感覚は今でも大差はない。
アニメ番組『サザエさん (Sazae - San)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年より フジテレビ系列放映] の主役は磯野カツオ (Katsuo Isono) であってフグ田サザエ (Sazae Fuguta) ではない。しかも、年齢的には、フグ田マスオ (Masuo Fuguta) をとっくに通り越し磯野波平 (Namihei Isono) と同年代になってしまったぼくだけれども、彼をその作品の主役として観る感覚は今だにない。
天邪鬼 (Amanojaku) は瓜子姫 (Urikohime) を騙して彼女をかどわかし、そして彼女の代わりに彼女になりすまして、彼女の養父母の寵愛を得ようとする。
ところが、ここでぼくの記憶は途絶えてしまう。
彼が彼女を背中に抱え、一目散に出奔する情景はつぶさに想い浮かぶのに対し、それ以降の頁に描かれた情景はとんと記憶にない。
この記事を書くにあたって一層懸命に記憶の片隅をまさぐってようやくに得られれたのが、彼女の部屋で彼女の着物を羽織る天邪鬼 (Amanojaku) の姿だけなのだ。
この物語の中で、ぼくが心情的に加担しているのはヒロイン (Heroine) である瓜子姫 (Urikohime) はなくて、ヴィラン (Villain) である天邪鬼 (Amanojaku) の様なのである。
喩えて謂えば、アニメ番組『鉄腕ポパイ (Popeye The Sailor
)』 [原作:エルジー・クリスラー・シーガー (Elzie Crisler Segar) 1960~1961年 ABC系列放映] の登場人物では、オリーブ (Olive Oyl) の味方であるよりもブルート (Bluto) の味方であると謂う事になってしまう。
勿論、そのアニメ番組にはポパイ (Popeye) と謂う絶対的なヒーロー (Hero) が存在しているから、ぼくがブルート (Bluto) に組する事は決してない。
しかし、その民話はぼくのあやふやな記憶の中では、正義の味方たるヒーロー (Hero) が不在なのである。
それとも、民話『かちかち山 (Kachi-kachi Yama)』の老婆の様に、天邪鬼 (Amanojaku) によって瓜子姫 (Urikohime) は謀殺されてしまうのであろうか。
だが、それもなかば当然の事なのだ。この民話は各地方によって様々なヴァリエーションがあると謂うのだから。
きっとその絵本で読んだ後に、瓜子姫 (Urikohime) のヴァリアント、様々なクライマックスをみたりよんだりきかされていくうちに、物語が曖昧なモノとなっていったのに違いない。
と、結論づけるのは簡単だ。
実は全然違う事を考えている。
この民話を主人公の出自から桃太郎 (Momotaro) と同傾向の物語と、多くの場合、看做している。それはそうなのだろう。桃 (Peach) と瓜 (Gourd)、どちらも果実であり、しかも、そのどちらにも性的なメタファー (Sexual Metaphor) が付随する [この部分、きちんと追求すべきなのだろうが今回は急ぐ]。
だけれども、本来は桃太郎 (Momotaro) ではなくて、植物から産まれたもうひとりの人物と対照させるべきなのではないだろうか。
その人物とはかぐや姫 (Kaguya-hime) の事なのだけれども。
かぐや姫 (Kaguya-hime) は並み居る求婚者達に対して難題を呈示し、それをもって彼等の求婚を悉く退ける。天邪鬼 (Amanojaku) の悪意ある行動に翻弄されるがままに略奪される瓜子姫 (Urikohime) とは、全く逆ではないだろうか。しかも、かぐや姫 (Kaguya-hime) への彼等は皆、貴であり富である人物達であるのに対し、天邪鬼 (Amanojaku) は卑であり賎である。
まるで『竹取物語 (The Tale Of The Bamboo Cutter)』 [作者未詳 (Anonymous) 9~10世紀成立] を読んだある作家がその物語の諸要素を逆転し、その大衆ヴァージョンを創造したと謂えなくもない。
しかも、民話である瓜子姫 (Urikohime) を略奪婚の物語と誤読してみるのならば、歌物語 (Uta Monogatari) の『伊勢物語 (The Tales Of Ise)』 [作者未詳 (Anonymous) 9~10世紀成立] の『第6段 芥川 (Episode 6 Akutagawa)』や『第12段 盗人 [武蔵野] (Episode 12 Thief aka Musashino)』と似ていなくもない様な気もする。少なくとも物語上での役割こそ違えてはいるが、前者に関しては鬼 (Oni) と謂う怪異も登場するのである。
在原業平 (Ariwara No Narihira) が仮託されている、その物語の名も無き主人公である男こそが、天邪鬼 (Amanojaku) の正体なのではないだろうか。

伝俵屋宗達 (Tawaraya Sotatsu) 『伊勢物語図色紙
(Shikishi For The Tales Of Ise』より『芥川 (Akutagawa)』
次回は「め」。
川を流れてきた果実をきってみれば、そこから幼児が誕生する。まるで、桃太郎 (Momotaro) の様だ。
但し、桃太郎 (Momotaro) はその名が顕す様に桃 (Peach) から産まれたのに対し、こちらは瓜 (Gourd) だ。しかも、男児ではなくて、こちらは女児なのである。だからその幼児は、桃太郎 (Momotaro) に対して、瓜子姫 (Urikohime) と呼ばれる。
最初はパロディ (Parody) なのかと思った。
勿論、この民話を知った当時、パロディ (Parody) と謂う言葉をぼくは知らない。ぼくが保育園 (Nursery School) に通っていた当時、産まれたばかりの従姪 (Cousin's Daughter) にと与えられた絵本で読んだのだから。確か、講談社の絵本 (Picture Books Of Kodansha) だったと思う。
だけれどもその民話は、彼女が瓜 (Gourd) から産まれた以降は独自の展開をする。桃太郎 (Momotaro) の様に、家来が出来る訳でもなく、鬼ヶ島 (Mythological Island Of Demons) に向かう訳でもない。
その代わりに、天邪鬼 (Amanojaku) なる怪異が登場するのである。
しかもその怪異が登場して以降、物語の主体は瓜子姫 (Urikohime) から彼へと代わる。
そう思うのは、ぼくが男児であるからだろうか。
当時のぼくの中では、その頃に放映されていたアニメ番組『魔法使いサリー
但しそんな感覚は今でも大差はない。
アニメ番組『サザエさん (Sazae - San)』 [原作:長谷川町子 (Machiko Hasegawa) 1969年より フジテレビ系列放映] の主役は磯野カツオ (Katsuo Isono) であってフグ田サザエ (Sazae Fuguta) ではない。しかも、年齢的には、フグ田マスオ (Masuo Fuguta) をとっくに通り越し磯野波平 (Namihei Isono) と同年代になってしまったぼくだけれども、彼をその作品の主役として観る感覚は今だにない。
天邪鬼 (Amanojaku) は瓜子姫 (Urikohime) を騙して彼女をかどわかし、そして彼女の代わりに彼女になりすまして、彼女の養父母の寵愛を得ようとする。
ところが、ここでぼくの記憶は途絶えてしまう。
彼が彼女を背中に抱え、一目散に出奔する情景はつぶさに想い浮かぶのに対し、それ以降の頁に描かれた情景はとんと記憶にない。
この記事を書くにあたって一層懸命に記憶の片隅をまさぐってようやくに得られれたのが、彼女の部屋で彼女の着物を羽織る天邪鬼 (Amanojaku) の姿だけなのだ。
この物語の中で、ぼくが心情的に加担しているのはヒロイン (Heroine) である瓜子姫 (Urikohime) はなくて、ヴィラン (Villain) である天邪鬼 (Amanojaku) の様なのである。
喩えて謂えば、アニメ番組『鉄腕ポパイ (Popeye The Sailor
勿論、そのアニメ番組にはポパイ (Popeye) と謂う絶対的なヒーロー (Hero) が存在しているから、ぼくがブルート (Bluto) に組する事は決してない。
しかし、その民話はぼくのあやふやな記憶の中では、正義の味方たるヒーロー (Hero) が不在なのである。
それとも、民話『かちかち山 (Kachi-kachi Yama)』の老婆の様に、天邪鬼 (Amanojaku) によって瓜子姫 (Urikohime) は謀殺されてしまうのであろうか。
だが、それもなかば当然の事なのだ。この民話は各地方によって様々なヴァリエーションがあると謂うのだから。
きっとその絵本で読んだ後に、瓜子姫 (Urikohime) のヴァリアント、様々なクライマックスをみたりよんだりきかされていくうちに、物語が曖昧なモノとなっていったのに違いない。
と、結論づけるのは簡単だ。
実は全然違う事を考えている。
この民話を主人公の出自から桃太郎 (Momotaro) と同傾向の物語と、多くの場合、看做している。それはそうなのだろう。桃 (Peach) と瓜 (Gourd)、どちらも果実であり、しかも、そのどちらにも性的なメタファー (Sexual Metaphor) が付随する [この部分、きちんと追求すべきなのだろうが今回は急ぐ]。
だけれども、本来は桃太郎 (Momotaro) ではなくて、植物から産まれたもうひとりの人物と対照させるべきなのではないだろうか。
その人物とはかぐや姫 (Kaguya-hime) の事なのだけれども。
かぐや姫 (Kaguya-hime) は並み居る求婚者達に対して難題を呈示し、それをもって彼等の求婚を悉く退ける。天邪鬼 (Amanojaku) の悪意ある行動に翻弄されるがままに略奪される瓜子姫 (Urikohime) とは、全く逆ではないだろうか。しかも、かぐや姫 (Kaguya-hime) への彼等は皆、貴であり富である人物達であるのに対し、天邪鬼 (Amanojaku) は卑であり賎である。
まるで『竹取物語 (The Tale Of The Bamboo Cutter)』 [作者未詳 (Anonymous) 9~10世紀成立] を読んだある作家がその物語の諸要素を逆転し、その大衆ヴァージョンを創造したと謂えなくもない。
しかも、民話である瓜子姫 (Urikohime) を略奪婚の物語と誤読してみるのならば、歌物語 (Uta Monogatari) の『伊勢物語 (The Tales Of Ise)』 [作者未詳 (Anonymous) 9~10世紀成立] の『第6段 芥川 (Episode 6 Akutagawa)』や『第12段 盗人 [武蔵野] (Episode 12 Thief aka Musashino)』と似ていなくもない様な気もする。少なくとも物語上での役割こそ違えてはいるが、前者に関しては鬼 (Oni) と謂う怪異も登場するのである。
在原業平 (Ariwara No Narihira) が仮託されている、その物語の名も無き主人公である男こそが、天邪鬼 (Amanojaku) の正体なのではないだろうか。

伝俵屋宗達 (Tawaraya Sotatsu) 『伊勢物語図色紙
次回は「め」。
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