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2017.07.18.11.33

りびんぐでっど

ゾンビ (Zombie) と聴いてぼく達が思い浮かべるそれの起源は、映画『ゾンビ (Zombie : Dawn Of The Dead)』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1978年制作] であるらしい。
しかし、その作品に登場する彼等、ゾンビ (Zombie) 達はこれまで語られてきたゾンビ (Zombie) とは少し違う。否、全くの別の存在と捉えた方が良いのかもしれない。

ゾンビ (Zombie) とは元来、ブードゥー教 (Voodoo) の巫術であって、屍体 (Corpse) をおもうがままに操作する事、並びにその屍体 (Corpse) そのモノを指す。それは文字どおりに活ける屍 (The Living Dead) ではあるが、それ以上の存在ではない。
つまり、屍体 (Corpse) を貪り喰らう事もなければ、あたかも吸血鬼 (Vampire) のそれであるかの様な、伝染性はない。
ゾンビ (Zombie) に襲われたモノがゾンビ (Zombie) と化す様な事は元来、ないのである。

単純な話、催眠術 (Hypnotism) で生者 (The Living) をおもうがままに操るのと同様のわざを、屍体 (Corpse) に施し、それを傀儡が如くに操る技術とその生贄 [既に死者であるから"生"の字を冠するこの語句では不味いのではあるが] をゾンビ (Zombie) と謂うのである。
またそこから発展して、生者 (The Living) を仮死状態 (Suspended Animation) にして、そのモノを活ける屍 (The Living Dead) としてあやつる技も発生している。
屍体 (Corpse) ないしは仮死者 (The Suspended Animation) を使用した蠱毒 (Kodoku) と謂えなくもない。

さて冒頭、ぼくは映画『ゾンビ (Zombie : Dawn Of The Dead)』 をぼく達のよく知るゾンビ (Zombie)、ブードゥー教 (Voodoo) のゾンビ (Zombie) ではないゾンビ (Zombie) の起原と記した。
恐らく、異論が出るだろう。しかもそれは当然だ。

その起源は同じ映画監督の映画作品『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (Night Of The Living Dead)』 [ジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) 監督作品 1968年制作] に求められるのではないだろうか、と。

確かに、そこに登場する活ける屍 (The Living Dead) から、所謂ゾンビ映画 (Zombie Movies) は始まった。そこでの設定が、後に続く作品群に踏襲される。
そしてそれが徹底化されているからこそ、映画『バタリアン (The Return Of The Living Dead)』 [ダン・オバノン (Dan O'Bannon) 監督作品 1985年制作] の様に、その設定から一歩踏み外した描写が一度登場すれば、そこに笑いが生じる。
ゾンビ (Zombie) が恐怖の存在であると同時に、それとは全く逆のベクトル (Vektor) を持つ存在として愛されているのは、きっとそこらに理由があるからだろう。

話題を元に戻す。

だが、残念ながらその作品、映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (Night Of The Living Dead)』の中では、ゾンビ (Zombie) と謂う呼称は登場しないのだ。
その作品ではグール (Ghoul) と呼ばれている。
彼等が屍体 (Corpse) である事よりも、生者 (The Living) を襲いその肉体を食餌とすると謂う点が、着目されているのだ。

グール (Ghoul) と謂う呼称が何故、ゾンビ (Zombie) へと変転したのか、それは解らない。
解らないが、ブードゥー教 (Voodoo) に於けるゾンビ (Zombie) を主題ないしは主役とした映画作品も少なからず存在する。映画『恐怖城 (White Zombie)』 [ヴィクター・ハルペリン (Victor Halperin) 監督作品 1932年制作] や映画『吸血ゾンビ (The Plague Of The Zombies)』 [ジョン・ギリング (John Gilling) 監督作品 1966年制作] である。
そこでの活ける屍 (The Living Dead) であるゾンビ (Zombie) の描写とその結果に派生する恐怖の描写が、グール (Ghoul) と謂う呼称を捨てさせて、ゾンビ (Zombie) と謂う新たなる呼称を獲得せしめたのではないだろうか。

だから逆の視点からみれば、映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (Night Of The Living Dead)』に於けるグール (Ghoul) の描写はまだ完全なモノを獲得していない。丁寧にみていけば、そこに矛盾や齟齬をみいだすのは簡単だ。

そこをもって、後のジョージ・A・ロメロ (George A. Romero) の作品群やそこから発生し発展してきた同種の映画作品と比較して劣っていると断罪するのは簡単だ。
だが、決してそうではない、そうすべきではないとぼくは思う。

と、謂うのはこの作品に登場するグール (Ghoul) の恐怖が、映画の主題では決して、ないとぼくは思っているからなのだ。

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周囲を敵に囲まれて逃げ場のない状況であって、それに対するに圧倒的に武器も、籠城に必須の物資も少ない。
しかも、同じ場を共有する人々の誰もが、個々別々の思惑でもって行動し、現状の危機意識を共有する事すら出来ない。
謂わば、閉塞状態 (Blocked State) に於ける極限状況 (Extreme Cituation) だ。
そしてさらに具合の悪い事に、作品を観ているぼく達でさえも、彼等の行動や意識を支持する事も難しい。さっさと喰われてしまえとは決してくちに出してこそ謂わないが、少なくともぼく達は彼等の救済を願ってはいない [上掲画像はこちらから]。

[唯一、現在のぼく達の視点からみれば、ヒーロー然とした合理的な行動を心がけるベン・ウィルソン (Ben) [演:デュアン・ジョーンズ (Duane Jones)] と謂う人物は存在するが、彼は黒人男性。当時の映画作品に於いて、有色人種がその様な立ち回りを演じる作品は殆どなく、公開時の観客の少なからぬヒトビトは彼の行動を好ましからざるモノとして観ていたのかもしれない。ちなみに、初のブラックスプロイテーション (Blaxploitation) とされる映画『スウィート・スウィートバック (Sweet Sweetback's Baadasssss Song)』 [メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ (Melvin Van Peebles) 監督作品] は1971年の作品だ。]

映画の設定こそ、この映画の後に続く作品群が踏襲しているが、ここまで徹底的に負の感情と負の現状を引き受けた作品はぼくは知らない。
と謂うか、この映画の設定は、他のジャンルの作品の方に色濃く顕れている様に、ぼくには想える。

それは、映画『ディア・ハンター (The Deer Hunter)』 [マイケル・チミノ (Michael Cimino) 監督作品 1978年制作] や映画『地獄の黙示録 (Apocalypse Now)』 [フランシス・フォード・コッポラ (Francis Ford Coppola) 監督作品 1979年制作] を嚆矢とする様な戦争映画、特にベトナム戦争 (Vietnam War) を主題とした映画群で描かれる世界に匹敵しているのではないか。

次回は「」。

附記:
マンガ『デビルマン (Devilman)』 [作:永井豪 (Go Nagai) 19721973週刊少年マガジン連載] で描かれる、牧村邸襲撃の様相は、映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド (Night Of The Living Dead)』 でのそれをそっくりそのまま翻案している様にぼくには思える。
ただ、違うのは、襲う側が活ける屍 (The LIving Dead) ではなくて、襲われる側にとっても日常から懇意の人物達であると謂う点だ。
そしてその設定がそのまま作品に反映し、永井豪 (Go Nagai) ならではの大活劇にも大殺戮劇にもならずに、そこでは徹頭徹尾、ヒロイン牧村美樹 (Miki Makimura) の心理劇として展開する。
表面上こそ、永井豪 (Go Nagai) 作品によく観られる、闘うヒロイン誕生のシークエンスではあるが、決してそうはならない。闘うヒロインとしての自我が彼女に発生した瞬間、総てのモノが彼女から奪われてしまうのだ。
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