2008.09.02.19.50
芥川龍之介(Ryunosuke Akutagawa)の短編小説『トロッコ(Torokko / A Lorry)』は、僕の記憶が正しければ、初めて読んだのは、教科書での事だった筈
だ。
主人公の良平と同い年の頃なのか、それとももっと後の事なのか、今となっては想い出せない。
しかし、良平と同じ様に、己よりも遥かに年上の大人にくっついていって、いつのまにか、還る途を見失ってしまった事ならば、良平よりももっと以前に何度も体験した。
例えばこんな具合に。
保育園に通い始める前の事だから、三四歳の時分である。しかも、秋。
同じ学区内にある工業高校で文化祭が開かれていた。その工業高校生のひとりが近所に住んでいて、彼が町内にいる子供達を引き連れて、文化祭へ繰り出す事になった。
初めて連れて行かれた高校という場所で、何を観、何を聴き、何を体験したのか、今となっては想い出せもしない。
その引率者である高校生と逸れてしまったのか、それとも、一緒に連れられていった子供達の誰かと喧嘩したのか、それとも、その文化祭の催しものの中のひとつ、例えばお化け屋敷(Haunted House)かなんかで、怖いメに遭ったのか。一体全体何があったのか、とんと想い出せないのだ。
ただ、記憶に遺っているのは、高校の入口に聳え起っていた、段ボール製の不気味なトーテム・ポール(Totem Pole)の下を通って中へと僕たちが入り、再びそこを通って外へと、今度はたった独りで、大声をあげて泣きながら出て逝った事だ。
来た途をそのままただ引き返せばいい、という思い込みからか、泣くに任せて、脚の向くままに歩いていたら、いつのまにか、観た事も聴いた事もないところに辿り着いてしまった。
既に己が泣いている理由も解らなくなっていて、しかも、どこへ向かえば良いのかも解らない。元来た途を引き換えそうにも、さっきからおなじところをぐるぐる廻っているだけの様だ。この看板のお姉さんは、さっきも観た。同じ顔をしてニコニコ微笑んでいる。
それから、どうなったのか、解らない。記憶が断絶している。
憶えているのは、何時のまにか、見知らぬ小母さんに手を引かれていた事。その小母さんに連れられて、見慣れぬ街を歩いた事。
そして、突然に視界が開けたと想ったら、いつもの僕の街の入口に辿り着く。さらに、辿り着いた途端に、その小母さんの手を振り払って「さよなら」と叫んで、家まで一目散に疾り帰るのだ。
だから、そんな体験をした僕は想うのだ。
一本道の線路を辿って、元来た路を帰るだけなのに、何をそんなに大騒ぎするのだ、と。良平は僕よりも、よっつも年上ぢゃあないか。
"薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している"路、そんな帰り途よりも、己のかねてからの願望がかなって、押す快感よりも乗る快感が大きくなる、しかしその一方で、新たな不安や心配が肥大化していく逝きの途の方が、どんなに嫌なものなのか、未だに解らないのだろうか?
「塵労に疲れた」良平が想い出すべき途は、"薄暗い藪や坂のある"帰り路ではなくて、トロッコ(Ore Car)に乗って"蜜柑畑の匂いを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出"した逝く路ではなかろうか?
『トロッコ(Torokko / A Lorry)』という小説の、妻子を得、上京して働く26歳になった良平の回想として描かれる、最期の段落は、ない方がずっと良い。
from "Mine Car Chase Scene" for "Indiana Jones And The Temple Of Doom
" directed by Steven Spielberg.
次回は「こ」。
主人公の良平と同い年の頃なのか、それとももっと後の事なのか、今となっては想い出せない。
しかし、良平と同じ様に、己よりも遥かに年上の大人にくっついていって、いつのまにか、還る途を見失ってしまった事ならば、良平よりももっと以前に何度も体験した。
例えばこんな具合に。
保育園に通い始める前の事だから、三四歳の時分である。しかも、秋。
同じ学区内にある工業高校で文化祭が開かれていた。その工業高校生のひとりが近所に住んでいて、彼が町内にいる子供達を引き連れて、文化祭へ繰り出す事になった。
初めて連れて行かれた高校という場所で、何を観、何を聴き、何を体験したのか、今となっては想い出せもしない。
その引率者である高校生と逸れてしまったのか、それとも、一緒に連れられていった子供達の誰かと喧嘩したのか、それとも、その文化祭の催しものの中のひとつ、例えばお化け屋敷(Haunted House)かなんかで、怖いメに遭ったのか。一体全体何があったのか、とんと想い出せないのだ。
ただ、記憶に遺っているのは、高校の入口に聳え起っていた、段ボール製の不気味なトーテム・ポール(Totem Pole)の下を通って中へと僕たちが入り、再びそこを通って外へと、今度はたった独りで、大声をあげて泣きながら出て逝った事だ。
来た途をそのままただ引き返せばいい、という思い込みからか、泣くに任せて、脚の向くままに歩いていたら、いつのまにか、観た事も聴いた事もないところに辿り着いてしまった。
既に己が泣いている理由も解らなくなっていて、しかも、どこへ向かえば良いのかも解らない。元来た途を引き換えそうにも、さっきからおなじところをぐるぐる廻っているだけの様だ。この看板のお姉さんは、さっきも観た。同じ顔をしてニコニコ微笑んでいる。
それから、どうなったのか、解らない。記憶が断絶している。
憶えているのは、何時のまにか、見知らぬ小母さんに手を引かれていた事。その小母さんに連れられて、見慣れぬ街を歩いた事。
そして、突然に視界が開けたと想ったら、いつもの僕の街の入口に辿り着く。さらに、辿り着いた途端に、その小母さんの手を振り払って「さよなら」と叫んで、家まで一目散に疾り帰るのだ。
だから、そんな体験をした僕は想うのだ。
一本道の線路を辿って、元来た路を帰るだけなのに、何をそんなに大騒ぎするのだ、と。良平は僕よりも、よっつも年上ぢゃあないか。
"薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している"路、そんな帰り途よりも、己のかねてからの願望がかなって、押す快感よりも乗る快感が大きくなる、しかしその一方で、新たな不安や心配が肥大化していく逝きの途の方が、どんなに嫌なものなのか、未だに解らないのだろうか?
「塵労に疲れた」良平が想い出すべき途は、"薄暗い藪や坂のある"帰り路ではなくて、トロッコ(Ore Car)に乗って"蜜柑畑の匂いを煽りながら、ひた辷りに線路を走り出"した逝く路ではなかろうか?
『トロッコ(Torokko / A Lorry)』という小説の、妻子を得、上京して働く26歳になった良平の回想として描かれる、最期の段落は、ない方がずっと良い。
from "Mine Car Chase Scene" for "Indiana Jones And The Temple Of Doom
次回は「こ」。
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