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2017.07.04.12.08

うしなわれたきおくをもとめて

マルセル・プルースト (Marcel Proust) の ... ではない。
彼の空前絶後、唯一の長編小説は『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』 [19131927年執筆] と謂う。
では、表題に掲げた『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』とはなにか。単なる誤字や誤植、はたまた誤読か勘違い、さもなければ入試にありがちなケアレス・ミスなのだろうか。

『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』とは、小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』 [作:井上ひさし (Hisashi Inoue) 1981年発行] に登場する。
その作品の実質的な、否、もしかすると単なる上っ面だけの、主人公である古橋健二 (Kenji Furuhashi) がかつて物した文学作品である。
彼はうだつのあがらない三文小説家なのだ。取材旅行の旅程で思いがけずも、吉里吉里国 (The State Of Kirikiri) の独立騒動に彼は遭遇してしまうのである。
独立騒動、換言すれば内乱や騒擾とも看做すべき大事件の一方の主人公が、そんな人物であって良いのだろうかと謂う気もしないでもないが、心配は無用だ。この事件の過程は逐一、記録係 (The Repoter) と自称する人物が物語として述べ語る。古橋健二 (Kenji Furuhashi) はその職業にも関わらず、彼には事件の仔細を記録し記述すると謂う役割は、はなっから期待されていないのだ。
物語の外側からこの作品を概観すれば、小説の創造主である井上ひさし (Hisashi Inoue) の役割は、古橋健二 (Kenji Furuhashi) と記録係 (The Repoter) のふたりに等分されていると謂って良い。

『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』とは古橋健二 (Kenji Furuhashi) の掌による小説である。
最初、この小説名が登場した時点で、読者の殆どに鼻で笑われる。何故ならば、読者の殆どが、マルセル・プルースト (Marcel Proust) の小説『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』を知っているからだ。
猶、ここに綴った「知っていると」は既読の、と謂う意味ではない。さる業界では一度、名刺交換しただけで、その人物をさも旧知の知人であるかの様に取り扱う事が可能である様に、単純にそんな名称をどここかで聴いた事がある、と謂う様なニュアンスで「知っている」と謂う。こんな題名、きっとどこかで観た事があるくらいだろう、と謂う様な意味合いである。第一に、このぼく自身が未読だ。
否、そんなくだくだしく理屈っぽく解読する必要すら実は不要なのだ。小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』が発表された当時、そんな名称を自身の創作物に命名する感性そのものが、きっと恐らく、鼻で笑われてしまう様なたぐいなのだ。

だから、物語の読者は古橋健二 (Kenji Furuhashi) が作家であって、その作品が『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』であると聴くだけで、その人物の品位と地位を、みくだす事が可能なのである。

この物語に於いて、『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』はその様な装置として先ずは設定されて、その様な装置として機能する。
作品中、彼は当初から同行する編集者、佐藤久夫 (HIsao Sato) にぞんざいに扱われてるが、それを宜なるかなと読者に思わせるのが、『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』と謂う語句なのだ。

images
上掲画像は、小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』が雑誌『終末から』連載時 [19731974年] 掲載された当時のモノ [挿画:佐々木マキ (Maki Sasaki)]。画面右端が古橋健二 (Kenji Furuhashi) でその左横の大男が佐藤久夫 (HIsao Sato) である [こちらより]。

しかし、それだけではない。

古橋健二 (Kenji Furuhashi) と佐藤久夫 (HIsao Sato) にこの独立騒動の全貌が顕れ出した刹那、つまり、読者であるぼく達からみれば、物語の全容がかいまみえだした瞬間に突然、記録係 (The Repoter) は事件から離れて古橋健二 (Kenji Furuhashi) と謂う人物について語り出す。
波乱万丈にして抱腹絶倒な彼の半生 (His Life Of Ups And Downs, Held Sides With Laughter) が物語られ始めるのだ。
そうして、その過程で初めてぼく達は知る事になる。今、ぼくが「波乱万丈にして抱腹絶倒な (Of Ups And Downs, Held Sides With Laughter) 」と評した彼の半生をそのまま綴り、自身の創作物として発表したのが、古橋健二 (Kenji Furuhashi) の小説『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』なのだ、と謂う事を。
ここまで読んできたその部分は、その小説の骨子 (The Essential Features)、さもなければ粗筋 (Outline The Plot) と呼ぶべきモノで、もしかしたら、それはその小説そのモノなのかもしれない。
つまり、小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』には、まるごと『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』が含まれている、さもなければ『失われた記憶を求めて (A la recherche du memoire perdu)』の枠物語 (Frame Story) が小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』である、と謂う事も可能なのである。
物語集『アラビアン・ナイト (The Alif Laila Or The Book Of The Thousand Nights And One Night)』 [著:エドワード・ウィリアム・レイン (Edward William Lane) 18391842年発表] の中の冒険譚『船乗りシンドバードの物語 (The Seven Voyages Of Sindbad The Sailor)』や小説『クオレ 愛の学校 (Cuore)』 [作:エドモンド・デ・アミーチス (Edmondo De Amicis) 1886年発表] の中の挿話『母をたずねて三千里 (Dagli Appennini alle Ande)』の様に、である。

と、同時にここで思い浮かべなければならないのが、マルセル・プルースト (Marcel Proust) の小説『失われた時を求めて (A la recherche du temps perdu)』だ。
少なくともその第1篇『スワン家のほうへ (Du ccte de chez Swann)』 [1913年刊行] の第1部『コンブレー (Combray)』を。
そこでは物語の語り手が覚醒するほんのわずかな時間の中に次から次へと沸き起こる回想、ながいながい時間の経過が綴られているからである。

小説『吉里吉里人 (Kirikiri-jin)』もまた、うだつのあがらない三文小説家の半生、数十年の歴史を内包しながらも実際、記録係 (The Repoter) がここで綴る独立騒動は、わずかに数十時間に満たない事柄なのである。

次回は「」。

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