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2017.06.20.09.27

いやや

その妖怪を知ったのは『いちばんくわしい日本妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 [著:佐藤有文 (Arihumi Sato) 1972立風書房ジャガーバックス刊] での事だが、その本自体がぼくの手許から失われて久しい。
だからそこに、どんな紹介文があったのかはもう解らない。
マンガ『ゲゲゲの鬼太郎 (Gegege No Kitarou)』 [作:水木しげる (Shigeru Mizuki) 1971週刊少年サンデー連載] の一篇『いやみ (Iyami)』 [1971年12月発表] にもその妖怪は登場する。
[時系列だけ眺めると、マンガの方が先の筈なんだが、ぼくの記憶にあるのは逆の順番だ。]

その妖怪、否哉 (Iyaya) は鳥山石燕 (Toriyama Sekien) の画集『今昔百鬼拾遺 (Konjaku Hyakki Shui : Supplement To The Hundred Demons From The Present And The Past)』 [1781年刊行] で紹介されている。そこに掲載されている画像はそのまま『いちばんくわしい日本妖怪図鑑 (Japanese Yokai Visual Dictionary)』 にも掲載されていて、『いやみ (Iyami)』に登場する妖怪の姿もそれに倣っている。

images
そこには水辺に佇む女性の後ろ姿があり、流れる川面に正面からみた筈の彼女が映り込んでいる。
しかし、その女性の顔は醜い老人の表情をたたえているのだ [掲載画像はこちらから]。

その図版だけから想像を逞しくすれば、短編集『怪談 (Kwaidan : Stories And Studies Of Strange Things)』 [作:小泉八雲 (Lafcadio Hearn) 1904発表] の一篇『 (Mujina)』を想い出してしまう。
その作品での、振り返ったそのおんなの顔が、なにもない野箆坊 (Noppera-bo) である代わりに、こんな醜悪な老人の顔だったりしたら、と。

「そんなおんなはいやや (A Woman, Like You, I've Had Enough!)」

だが、どんなにその妄想が素晴らしく、そして想像を絶する様なモノだとしても現実は、意外とつまらない。

その画集の、その図版にある詞書 (Foreword) には、否哉 (Iyaya) と謂う妖怪の名称の由来が綴ってあるだけで、肝心の妖怪の怪異な能力はおろか、すがたかたちの描写すらない。
いや、もっとつづめて綴れば、そこで語られている由来が該当する筈の否哉 (Iyaya) すらその詞書 (Foreword) にはない。単純に、昔々、こんな事がありましたと謂う様な、事象があるだけなのである。

その画集を含めて鳥山石燕 (Toriyama Sekien) のよっつの画業を編集した『鳥山石燕 画図百鬼夜行 (Gazu Hyakki Yagyo :The Illustrated Night Parade Of A Hundred Demons)』 [監修:高田衛 (Mamoru Takada) 編集:稲田篤信 (Atsunobu Inada)、田中直日 (Naohi Tnaka) 刊行:1992国書刊行会刊行] に於いても、それは変わらない。
編者による現代文での注釈があるにはあるが、それも大同小異だ。妖怪の実態は全然、解らない。

だから、その図案にある人物の容姿を指して否哉 (Iyaya) と呼んでいるのか、それとも、女性の容姿に異変を催す奇病を指して否哉 (Iyaya) と呼ぶのか、もしかすると、実際の容姿とは全く異なる形象を映し出す川面の怪異こそを否哉 (Iyaya) と呼ぶのか、皆目、検討がつかないのである。

水木しげる (Shigeru Mizuki) は先の『いやみ (Iyami)』に於いて、女装した老人の妖怪と謂う視点に則って、物語を興している。そこではその妖怪は、いやみ (Iyami) もしくはエロモドキ (Eromodoki) と呼ばれている。
妖怪の能力や知力を裏付ける伝承や記述が皆無だから、水木しげる (Shigeru Mizuki) ならではの想像力と創造力が如何なくその作品では発揮されている。否、太古の昔から細々ともしくはちからづよく語り継がれてきた妖怪であっても、水木しげる (Shigeru Mizuki) にあってはかたなしだから、ある意味で、彼の才能を縛り付けるモノがそこには一切にないと謂って良い。
実際には直接、その作品にあたってみれば解る筈だ。

個人的には物語冒頭の、わずか1頁に満たない描写がこころに遺る。

そこでは、仮死状態で放置された老人を抱えて自宅に帰宅した幼い兄弟と、その両親と思しきおとなとの会話がある。
帰宅した少年達を咎める父親は、その老人を捨ててこいと謂う。
しかし、幼い2人は自身の貯金をきりくずしてでも、大学病院での蘇生を試みると謂う。

かくして、現代に妖怪いやみ (Iyami) 別名エロモドキ (Eromodoki) が復活してしまうのだが、この1頁に作者水木しげる (Shigeru Mizuki) ならではの視点がある。

その兄弟が仮死状態にあるその妖怪を発見し得たのは、彼等が道に迷ったからだ。少年達は知らず知らずのうちに禁忌 (Taboo) を犯してしまったのである。
偶然であろうと過失であろうと、はたまた故意であろうと、禁忌 (Taboo) の越境が物語の発端になる場合は多い。
例えば、同じ作者の同じシリーズ内では『釜なり (Kama-Nari)』 [1971年9月発表] を挙げる事が出来る。同じ様に道に迷った少年達がある場所で脱糞し、その結果、 (Cauldron) のとりことなってしまう。

ところが『いやみ (Iyami)』 での場合は、そこで獲得したモノ [則ち仮死した老人] を自身の領域である自宅に持ち帰ったところ、周囲のモノはそれを拒絶する。そこにあるのは、おとなならではの分別や無責任な態度で、本来ならば [少なくとも掲載誌である週刊少年サンデー (Weekly Shonen Sunday) に於いては] 、真っ先に否定されるべきモノである。しかも、そんなおとな独自の論理に対し、少年達は自身のうちにある正義感をもっておとな達に対抗しようとする。
よくある物語の通念、俗な勧善懲悪 (Poetic Justice) の論理に従えば、肯定されるべきは少年達の行動で、おとな達の論理は批判されるべきモノである筈だ。
だがしかし、『いやみ (Iyami)』 に於いてはそれが逆に仇となる。

しかし、仇となった結果を持ってして、少年達に後悔や反省を促す様な事はしない。
その妖怪の復活によってもたらされたのは、より殺伐とした厭世的な気分の鬱屈であり、分別があってしかも無責任なおとなの視点がより強化されたのに過ぎない。

だから、鬼太郎 (Kitaro) によって辛くも退治されたその妖怪の退散によって得たのは、「世の中もすこし楽しくなった」だけの事なのである。
妖怪を再生させた少年達が処罰される事もなく、おとな達の責任回避も野放しのままだ。
「世の中もすこし楽しくなった」と語りながらも、そこにあるのは荒涼とした諦念だけなのである。

もう一度、くりかえそうか?

「そんなせかいはいやや (A World, Like That, I've Had Enough!)」

次回は「」。

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