2016.11.22.12.49
あぁ、これしってる。
めざとい生徒がひとり、おおきな声をあげた。
ある日の休み時間、教室のうしろ、陽の当たる場所にある担任の机でのことだ。
ぼく達が小学校高学年の頃に、実際にあった出来事である。
担任は、この春に教師になったばかりの男性教諭であって、小学生を5〜6年も体験してきたぼく達の眼からみれば、いろんな意味で脇が甘い。
例えば、ぼく達が毎夕毎夜に体験している幾つものTV番組の登場人物の事は全然知らないし、家庭訪問をさせれば道に迷って、保護者との約束の時刻に大概遅れる。
だからと謂って、彼が嫌われていた訳ではない。
むしろ、生徒達からは愛されてはいた。
休み時間に、その担任の机に集まっていたのは、いつもの事だ。2学期の始業間際ならばともかく、もうすぐにクリスマスの声も聴こえてくる。教室の大半は、終日ひかげで、数十分の授業中は寒々しいばかりだ。
だけれどもそこだけはいつも陽だまりで、ぼく達のそれよりもひとまわりもふたまわりもおおきな机と椅子は、とても暖かく感じられた。
その机と椅子のあるじが不在の数十分間のそこは、格好の集合場所として機能していたのである。
しかも、そればかりではない。
その机のうえに乱雑に置かれているものは、ぼく達にとって格好の遊び道具としても機能していたのだ。
勿論、触れてはいけないモノもないではない。採点途中のプリントなどは、誰もがみてみないふりをするし、しなければならない。それくらいの通念はわきまえている。
だけれども、ストップウォッチや指示棒ならば、構わないだろう。休み時間に思う存分もてあそんで、始業のベルがなれば、元に戻す。たとえ、微妙に位置が違っても気づくはずもないし、わかったところで指紋採取される心配もないのだ。
そんな日常のなかで発せられたのが、冒頭のひとことだ。
あぁ、これしってる。
彼が指さしたのは、銅貨よりもひとまわりおおきな、金色の円筒である。

そう、それならばぼくもしっているし、ここにいるメンバーのほとんどはしっているだろう。
手品の用具だ。
蓋をあけて、その中に硬貨をしまい、ふたたびあけると、そこにはなにもない。
その前に口上として、種も仕掛けもございませんと謂う必要はあるけれどもね。
[画像はこちらから。]
担任の魂胆は、誰にもわかる。
授業中かどこかで披露するつもりだ。
だからこれを発見したぼく達は、その前にこの手品のタネを知っておく必要がある。
担任が自信満々で披露したその場で、種明かしをしてしまう。こんなに格好のいいことがあるだろうか。
みんなでこぞって、蓋を開閉したり、裏返したりひっくり返したりしてみるが、手許にあるのは、その道具だけだから、具体的な調査は一向に進まない。せめて1枚の10円玉があれば、もう少し踏み込んだ実験もできる筈だが、誰もが皆、手許不如意だ。
そうして、なにもできぬままに、あっというまに始業時間となってしまう。
その数時間後、帰りの会に、担任の深刻な顔があった。
机の上においてあった、あるものがないと謂う。誰かしらないか。
ぼく達は黙っていた。そして、その場にいた誰もが、あれは元どおりの場所に置いた筈だと反芻していた。
しっているもの、もっているものは、あとで申し出るように。
みんなをたのしませようと用意したのに、残念だ。
担任はそういって、その日はおわった。
その件がその後、どうなったのかはだれもしらない。
犯人が自首した気遣いもなければ、だれかが告げ口した気配もない。
その事をだれも、話題にすらしない。
彼がその手品を披露することもなかった。
そして、あんな場所にそんな大事なものを放置していた彼の責任は重大だ、とぼく達のだれもが思っていた。
ただ、その事件を境にして、だれも担任の机にちかづこうとはしなくなった。
今、考えると、あれはひとばらいのために考案した彼の、一世一代の手品だったのかもしれない。
次回は「な」。
めざとい生徒がひとり、おおきな声をあげた。
ある日の休み時間、教室のうしろ、陽の当たる場所にある担任の机でのことだ。
ぼく達が小学校高学年の頃に、実際にあった出来事である。
担任は、この春に教師になったばかりの男性教諭であって、小学生を5〜6年も体験してきたぼく達の眼からみれば、いろんな意味で脇が甘い。
例えば、ぼく達が毎夕毎夜に体験している幾つものTV番組の登場人物の事は全然知らないし、家庭訪問をさせれば道に迷って、保護者との約束の時刻に大概遅れる。
だからと謂って、彼が嫌われていた訳ではない。
むしろ、生徒達からは愛されてはいた。
休み時間に、その担任の机に集まっていたのは、いつもの事だ。2学期の始業間際ならばともかく、もうすぐにクリスマスの声も聴こえてくる。教室の大半は、終日ひかげで、数十分の授業中は寒々しいばかりだ。
だけれどもそこだけはいつも陽だまりで、ぼく達のそれよりもひとまわりもふたまわりもおおきな机と椅子は、とても暖かく感じられた。
その机と椅子のあるじが不在の数十分間のそこは、格好の集合場所として機能していたのである。
しかも、そればかりではない。
その机のうえに乱雑に置かれているものは、ぼく達にとって格好の遊び道具としても機能していたのだ。
勿論、触れてはいけないモノもないではない。採点途中のプリントなどは、誰もがみてみないふりをするし、しなければならない。それくらいの通念はわきまえている。
だけれども、ストップウォッチや指示棒ならば、構わないだろう。休み時間に思う存分もてあそんで、始業のベルがなれば、元に戻す。たとえ、微妙に位置が違っても気づくはずもないし、わかったところで指紋採取される心配もないのだ。
そんな日常のなかで発せられたのが、冒頭のひとことだ。
あぁ、これしってる。
彼が指さしたのは、銅貨よりもひとまわりおおきな、金色の円筒である。

そう、それならばぼくもしっているし、ここにいるメンバーのほとんどはしっているだろう。
手品の用具だ。
蓋をあけて、その中に硬貨をしまい、ふたたびあけると、そこにはなにもない。
その前に口上として、種も仕掛けもございませんと謂う必要はあるけれどもね。
[画像はこちらから。]
担任の魂胆は、誰にもわかる。
授業中かどこかで披露するつもりだ。
だからこれを発見したぼく達は、その前にこの手品のタネを知っておく必要がある。
担任が自信満々で披露したその場で、種明かしをしてしまう。こんなに格好のいいことがあるだろうか。
みんなでこぞって、蓋を開閉したり、裏返したりひっくり返したりしてみるが、手許にあるのは、その道具だけだから、具体的な調査は一向に進まない。せめて1枚の10円玉があれば、もう少し踏み込んだ実験もできる筈だが、誰もが皆、手許不如意だ。
そうして、なにもできぬままに、あっというまに始業時間となってしまう。
その数時間後、帰りの会に、担任の深刻な顔があった。
机の上においてあった、あるものがないと謂う。誰かしらないか。
ぼく達は黙っていた。そして、その場にいた誰もが、あれは元どおりの場所に置いた筈だと反芻していた。
しっているもの、もっているものは、あとで申し出るように。
みんなをたのしませようと用意したのに、残念だ。
担任はそういって、その日はおわった。
その件がその後、どうなったのかはだれもしらない。
犯人が自首した気遣いもなければ、だれかが告げ口した気配もない。
その事をだれも、話題にすらしない。
彼がその手品を披露することもなかった。
そして、あんな場所にそんな大事なものを放置していた彼の責任は重大だ、とぼく達のだれもが思っていた。
ただ、その事件を境にして、だれも担任の机にちかづこうとはしなくなった。
今、考えると、あれはひとばらいのために考案した彼の、一世一代の手品だったのかもしれない。
次回は「な」。
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