2016.07.26.10.32
みっちゃんみちみちうんこしてかみがないからてでふいてもったいないからたべちゃった
..........。
あ、いや、これぐらいのながさでもちゃあんと全文、ブログ・タイトルに反映されるんだなって、今、確認すると同時に、ちょっと感動していたところ。
と、謂う様な書き出しは、こことこことで、都合3度目だけれどもね。
件名に掲げた1文? は、通称を『みっちゃんみちみち (Mitchan-michimichi)』と謂うらしい。今、初めて知った。
そしてこの種の囃し言葉? に共通で、全国各地に流布していると同時に、地方地方、地域地域によって、様々なヴァリエーションがあると謂う。
件名に掲げたのは、ぼく達が幼少時に学び、事ある毎に歌唱? していたモノだ。
歌唱? と綴ってはみたが、確かにメロディーじみた抑揚はあるモノの、この後に続くモノはない。もし、歌であるのならば、これでまるまる全曲なのである。
コレに登場するみっちゃん (Mitchan) は誰だか解らない。
ぼく達世代にとっては、糞尿を食すると謂えば、マンガ『トイレット博士
(Toilet Hakase : Dr. Toilet)』 [作:とりいかずよし (Kazuyoshi Torii) 1970~1977年 週刊少年ジャンプ連載] の登場人物であるうんこちゃん (Unko-chan) ではあるが、その作品が連載される遥か以前から、コレはぼく達にとっては周知のモノだった。

ついでに書いておけば、うんこちゃん (Unko-chan) は「もったいないから」喰べるのではなくて、彼女の [そう、うんこちゃん (Unko-chan) は美少女なのである] 大好物なのである。いや、もしかすると、彼女にとっての唯一の食餌なのかもしれない。
[上掲画像中央で微笑む少女がうんこちゃん (Unko-chan) :こちらより]
コレがいつどこでだれによって考案され、どの様にして全国各地に流布していったのかと謂う興味と考察は、ネット上の各所で試みられている様だ。
それをひとつひとつ読んでいき、ひとつひとつ解読し検証する程の暇も能力も、今のぼくにはない。
だから、ここでは、気になる点、留意すべき点を列挙するに留めておく事にする。
みっちゃんみちみちうんこしてかみがないからてでふいてもったいないからたべちゃった (Michan Walking On The Road, Having A Shit But Having No Paper, So To Eat It Because Of Mottainai, A Sense Of Regret Concerning Waste)
先ず、この主人公のみっちゃん (Mitchan) は、性別も年齢も不明である。
だから、ぼく達は所構わず、みっちゃん (Mitchan) と呼ばれる人物を蔑む場合に彼乃至彼女の許でコレを大声で唱えたし、また、その一方で仮令、みっちゃん (Mitchan) ではなくても、それに準ずる行為を [本人の意図するモノであろうと偶発的なモノであろうと] しでかした場合、みっちゃん (Mitchan) の部分を当該の人物名乃至は略称その他に差し替えて唱えたモノだ。
つまり、主人公のみっちゃん (Mitchan) とは、必ずしもその名称をもつモノやそんな通称を持つモノだけを指し示しているモノではなくて、如何なる人物であっても、差し替え可能な代名詞的な存在なのである。
とは謂え、コレの主人公がみっちゃん (Mitchan) であるのは、その次に「みちみち」と謂う語句が連なるからである。
意味として備わっているのは先ず、路上で、もしくは、道中で、であって、つまり、これの現場を描写した語句であろうと解釈出来る。しかし、その一方でこの「みちみち」は、その次に登場する「うんこ」の描写と解釈出来なくもない。つまり「みちみち」とした「うんこ」だ。それが実際にはどんなモノなのかは想像するしかないが、おそらくきっと、うんこちゃん (Unko-chan) にとってはさぞや御馳走になるだろうなぁと謂う連想を否定するモノではない。
いや、むしろ、ぼく達が感嘆すべきはそれではない。「みっちゃんみちみち」と謂う頭韻 (Alliteration) を踏んでいる事だ。このM音の繰り返しの完成度の高さなのだ。
だから、ぼく達はコレに倣って、同級生のじゅんこちゃん (Junkochan) をじゅるじゅるじゅんこ (Juru-juru-junko) と囃した経験がある。無論、彼女 [そう、じゅんこちゃん (Junkochan) は美少女なのである] は泣き出してしまい、ぼく達は担任から酷く叱られた。
桜田淳子 (Junko Sakurada) が楽曲『天使も夢みる (Tenshi Mo Yume Miru : The Dreams Of An Angel)』[アルバム『そよ風の天使 (Soyokaze No Tenshi : Angel Breeze)』収録 1973年発表] でデヴューする、遥か以前の事である。そんな体験はすっかり忘却の彼方に行ってしまったのに、その桜田淳子 (Junko Sakurada) が井関農機株式会社 (Iseki And Co. Ltd.) の田植機 (Rice Transplanter) さなえ (PZ Series) のCMで秋田弁 (Akita-ben : Akita Dialects) の「やっぱりさなえだべさ! (Sanae It's Useful!)」 [1975~1982年放映] を披露した際に、瞬時にその記憶が復活した。
ちなみに罵られて泣き出してしまったじゅんこちゃん (Junko-chan) とは、ぼく達とは異なる中学校に進学してしまったので、じゅるじゅるじゅんこ (Juru-juru-junko) の1件以来、逢っていない。素行の悪いぼく達だったからそのまま同級であったのならば、桜田淳子 (Junko Sakurada) の秋田弁 (Akita-ben : Akita Dialects) の口真似をして、きっと彼女を泣かせていたのに違いないのだ。
いや、そんな昔話を綴っている場合ではない。
「みっちゃんみちみち」と謂う頭韻 (Alliteration)、もしくはそれに準じて語る事が可能な言語感覚は、きっと、幼児や小児に特有のモノではないだろうか、と謂う事だ。言語に備わる意味よりも言語に付随する音韻が優先するその発想は、大人になってしまったぼく達はしばし、忘却してしまう。
さもなければ、その感覚を幼稚なモノとして蔑む傾向がないだろうか。
さて議論を別の方向へと蒸し返すと、「みちみちうんこして」の「みちみち」を現場を指す言葉として解釈してみよう。
そうすると解るのが、路上でそんな行為に及ぶ事それ自体が、禁止されているのであろうと解釈出来る事だ。大袈裟に謂えば、これは公衆衛生 (Public Health) の問題だ。
だから翻って考えれば、その行為が公衆衛生 (Public Health) 上、禁止事項であると謂う前提が、コレを存立させている理由でもあるし、その一方で、その前提を甘受する社会がそこにあると謂う事なのである。
だから時代によっては、それが禁止事項ではない場合もあるだろうし、地方や地域によってはそれが許される場所もあるだろう。都市部と農村部での違いすらも考慮すべきかもしれない。
それと同様の事がこの後に続く「かみがないからてでふいて」にも共通の問題点として浮上する。
排便の処理を紙で行うと謂う文化があってようやく、コレは存立可能なのだ。
だから文末に登場する「もったいないからたべちゃった」にだけ注目して、そこにフロイト心理学 (Die Psychoanalyse von Sigmund Freud) の口唇期 (Die orale Phase) と肛門期 (Analen Phase) を当て嵌めたり、性的嗜好である糞尿愛好症 (Coprophilia) を呼び込んで、それで事足りたりとするのは議論としては、それこそ勿体無いのである (Mottainai, A Sense Of Regret Concerning Waste)。
次回は「た」。
あ、いや、これぐらいのながさでもちゃあんと全文、ブログ・タイトルに反映されるんだなって、今、確認すると同時に、ちょっと感動していたところ。
と、謂う様な書き出しは、こことこことで、都合3度目だけれどもね。
件名に掲げた1文? は、通称を『みっちゃんみちみち (Mitchan-michimichi)』と謂うらしい。今、初めて知った。
そしてこの種の囃し言葉? に共通で、全国各地に流布していると同時に、地方地方、地域地域によって、様々なヴァリエーションがあると謂う。
件名に掲げたのは、ぼく達が幼少時に学び、事ある毎に歌唱? していたモノだ。
歌唱? と綴ってはみたが、確かにメロディーじみた抑揚はあるモノの、この後に続くモノはない。もし、歌であるのならば、これでまるまる全曲なのである。
コレに登場するみっちゃん (Mitchan) は誰だか解らない。
ぼく達世代にとっては、糞尿を食すると謂えば、マンガ『トイレット博士

ついでに書いておけば、うんこちゃん (Unko-chan) は「もったいないから」喰べるのではなくて、彼女の [そう、うんこちゃん (Unko-chan) は美少女なのである] 大好物なのである。いや、もしかすると、彼女にとっての唯一の食餌なのかもしれない。
[上掲画像中央で微笑む少女がうんこちゃん (Unko-chan) :こちらより]
コレがいつどこでだれによって考案され、どの様にして全国各地に流布していったのかと謂う興味と考察は、ネット上の各所で試みられている様だ。
それをひとつひとつ読んでいき、ひとつひとつ解読し検証する程の暇も能力も、今のぼくにはない。
だから、ここでは、気になる点、留意すべき点を列挙するに留めておく事にする。
みっちゃんみちみちうんこしてかみがないからてでふいてもったいないからたべちゃった (Michan Walking On The Road, Having A Shit But Having No Paper, So To Eat It Because Of Mottainai, A Sense Of Regret Concerning Waste)
先ず、この主人公のみっちゃん (Mitchan) は、性別も年齢も不明である。
だから、ぼく達は所構わず、みっちゃん (Mitchan) と呼ばれる人物を蔑む場合に彼乃至彼女の許でコレを大声で唱えたし、また、その一方で仮令、みっちゃん (Mitchan) ではなくても、それに準ずる行為を [本人の意図するモノであろうと偶発的なモノであろうと] しでかした場合、みっちゃん (Mitchan) の部分を当該の人物名乃至は略称その他に差し替えて唱えたモノだ。
つまり、主人公のみっちゃん (Mitchan) とは、必ずしもその名称をもつモノやそんな通称を持つモノだけを指し示しているモノではなくて、如何なる人物であっても、差し替え可能な代名詞的な存在なのである。
とは謂え、コレの主人公がみっちゃん (Mitchan) であるのは、その次に「みちみち」と謂う語句が連なるからである。
意味として備わっているのは先ず、路上で、もしくは、道中で、であって、つまり、これの現場を描写した語句であろうと解釈出来る。しかし、その一方でこの「みちみち」は、その次に登場する「うんこ」の描写と解釈出来なくもない。つまり「みちみち」とした「うんこ」だ。それが実際にはどんなモノなのかは想像するしかないが、おそらくきっと、うんこちゃん (Unko-chan) にとってはさぞや御馳走になるだろうなぁと謂う連想を否定するモノではない。
いや、むしろ、ぼく達が感嘆すべきはそれではない。「みっちゃんみちみち」と謂う頭韻 (Alliteration) を踏んでいる事だ。このM音の繰り返しの完成度の高さなのだ。
だから、ぼく達はコレに倣って、同級生のじゅんこちゃん (Junkochan) をじゅるじゅるじゅんこ (Juru-juru-junko) と囃した経験がある。無論、彼女 [そう、じゅんこちゃん (Junkochan) は美少女なのである] は泣き出してしまい、ぼく達は担任から酷く叱られた。
桜田淳子 (Junko Sakurada) が楽曲『天使も夢みる (Tenshi Mo Yume Miru : The Dreams Of An Angel)』[アルバム『そよ風の天使 (Soyokaze No Tenshi : Angel Breeze)』収録 1973年発表] でデヴューする、遥か以前の事である。そんな体験はすっかり忘却の彼方に行ってしまったのに、その桜田淳子 (Junko Sakurada) が井関農機株式会社 (Iseki And Co. Ltd.) の田植機 (Rice Transplanter) さなえ (PZ Series) のCMで秋田弁 (Akita-ben : Akita Dialects) の「やっぱりさなえだべさ! (Sanae It's Useful!)」 [1975~1982年放映] を披露した際に、瞬時にその記憶が復活した。
ちなみに罵られて泣き出してしまったじゅんこちゃん (Junko-chan) とは、ぼく達とは異なる中学校に進学してしまったので、じゅるじゅるじゅんこ (Juru-juru-junko) の1件以来、逢っていない。素行の悪いぼく達だったからそのまま同級であったのならば、桜田淳子 (Junko Sakurada) の秋田弁 (Akita-ben : Akita Dialects) の口真似をして、きっと彼女を泣かせていたのに違いないのだ。
いや、そんな昔話を綴っている場合ではない。
「みっちゃんみちみち」と謂う頭韻 (Alliteration)、もしくはそれに準じて語る事が可能な言語感覚は、きっと、幼児や小児に特有のモノではないだろうか、と謂う事だ。言語に備わる意味よりも言語に付随する音韻が優先するその発想は、大人になってしまったぼく達はしばし、忘却してしまう。
さもなければ、その感覚を幼稚なモノとして蔑む傾向がないだろうか。
さて議論を別の方向へと蒸し返すと、「みちみちうんこして」の「みちみち」を現場を指す言葉として解釈してみよう。
そうすると解るのが、路上でそんな行為に及ぶ事それ自体が、禁止されているのであろうと解釈出来る事だ。大袈裟に謂えば、これは公衆衛生 (Public Health) の問題だ。
だから翻って考えれば、その行為が公衆衛生 (Public Health) 上、禁止事項であると謂う前提が、コレを存立させている理由でもあるし、その一方で、その前提を甘受する社会がそこにあると謂う事なのである。
だから時代によっては、それが禁止事項ではない場合もあるだろうし、地方や地域によってはそれが許される場所もあるだろう。都市部と農村部での違いすらも考慮すべきかもしれない。
それと同様の事がこの後に続く「かみがないからてでふいて」にも共通の問題点として浮上する。
排便の処理を紙で行うと謂う文化があってようやく、コレは存立可能なのだ。
だから文末に登場する「もったいないからたべちゃった」にだけ注目して、そこにフロイト心理学 (Die Psychoanalyse von Sigmund Freud) の口唇期 (Die orale Phase) と肛門期 (Analen Phase) を当て嵌めたり、性的嗜好である糞尿愛好症 (Coprophilia) を呼び込んで、それで事足りたりとするのは議論としては、それこそ勿体無いのである (Mottainai, A Sense Of Regret Concerning Waste)。
次回は「た」。
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