2016.05.10.12.10
とは、落合恵子 (Keiko Ochiai) の作品集『スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)』 [1973~1976年 全6冊] の表題であり、さらにこの作品集を原作とする同名の映画『スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)』[広瀬襄 (Joe Hirose) 監督作品 1975年制作] の題名で、主演は桜田淳子 (Junko Sakurada) だ。
ぼく自身はいずれも未読で未見の為、これ以上、両作品の内容に関しては言及できない。もし仮に、いずれかの作品の論評なり感想なり粗筋なりを期待して、ここにアクセスしてしまった方には、申し訳ない。
これから綴るのは、そうではない事なのだ。
単純に謂えば「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」とは、一体、どういう意味のだろうか、と謂う事だ。
もしかしたら、映画を観るなり、その原作を読むなりすれば、立ち所に解答が明かされていたりする可能性もないではない。それが、梅村乃里子 (Noriko Umemiya) [演:桜田淳子 (Junko Sakurada)] もしくは落合恵子 (Keiko Ochiai) 自らの言葉ではないにしても、だ。
だけれども往々にして、原典で綴られている事柄が、必ずしも、誰をも充分に満足させるモノだと謂う保証はない。
だから、ここでは原典に依拠する事なく、身勝手な推理や妄想を展開してみようと謂うだけの事である。
そう謂う訳で、ああ、この人は単行本を6冊読み切る気力も上映時間90分のアイドル映画を観る気力もないのだな、と見下して頂いても、結構至極な事なのである。
閑話休題。
「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉の意味を考える場合、大きな曲者がひとつ眼の前にある。
「一杯 (Full)」と謂う言葉だ。
この言葉、"ひと匙"とも"たくさん"とも理解可能だ。どちらを採用するかで、その語句が形容する「幸せ (Happiness)」の大きさが如実に変わる。そして勿論、大きさが変わればその質も変わるだろう。
だから、「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉には、両義が備わっている事を前提にして、その意味を考える必要があるのではないだろうか。
だけれども、たったひとつだけ、その両義性をひとつのモノに集約可能な解釈がないではない。それは、"ひと匙"は客観的な視野にたったモノではあるが、"たくさん"は主観に基づいた認識であると謂う事。裏を返せば、たったの"ひと匙"でしかないモノも、みるモノがみれば"たくさん"にみえる、と謂う解釈だ。
それを前提にして「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉の意味を追跡すると、実は、それとよく似た表現がふたつ登場する。
映画『ポケット一杯の幸福
(Pocketful Of Miracles)』 [フランク・キャプラ (Frank Capra) 1961年制作] と楽曲『お砂糖ひとさじで (A Spoonful Of Sugar)』[ロバート・B・シャーマン (Robert B. Sherman)、リチャード・M・シャーマン (Richard M. Sherman) 作 1964年発表] だ。
このふたつの表題を足して2で割れば「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of happiness)」ができなくもない。
映画『ポケット一杯の幸福
(Pocketful Of Miracles)』 [フランク・キャプラ (Frank Capra) 1961年制作] は、グレン・フォード (Glenn Ford) 主演のコメディーで、ぼくからみれば映画『俺たちは天使じゃない
(We're No Angels)』 [マイケル・カーティス (Michael Curtiz) 1955年制作] と映画『スティング
(The Sting)』 [ジョージ・ロイ・ヒル (George Roy Hill) 監督作品 1973年制作] を足して2で割った様な映画だが、ピーター・フォーク (Peter Falk) がアカデミー助演男優賞 (Academy Award For Best Supporting Actor) にノミネートされた作品でもある。しかも、本作品の監督であるフランク・キャプラ (Frank Capra) 自らが28年前に制作した映画『一日だけの淑女
(Lady For A Day)』 [フランク・キャプラ (Frank Capra) 監督作品 1933年制作] のリメイク作品でもある。
この映画の表題が意味するところを捜していけば、もしかしたら求めるべき解に遭遇する可能性もあるが、場合によってはその原典であるもうひとつの映画をも追及する必要もあるかもしれない。
楽曲『お砂糖ひとさじで (A Spoonful Of Sugar)』[ロバート・B・シャーマン (Robert B. Sherman)、リチャード・M・シャーマン (Richard M. Sherman) 作 1964年発表] は、ミュージカル映画『メリー・ポピンズ
(Mary Poppins)』 [ロバート・スティーヴンソン (Robert Stevenson)、ハミルトン・S・ラスク (Hamilton S. Luske) 監督作品 1964年制作] の挿入曲のひとつ。歌唱は主演のメリー・ポピンズ (Mary Poppins) 役のジュリー・アンドリュース (Julie Andrews) によるモノで彼女はこの映画でアカデミー主演女優賞 (Academy Award For Best Actress) を手に入れた[他にこの映画では、ロバート・B・シャーマン (Robert B. Sherman) とリチャード・M・シャーマン (Richard M. Sherman) とがアカデミー作曲賞 (Academy Award For Best Original Score) とアカデミー歌曲賞 (Academy Award For Best Original Song) を受賞した他、計いつつの賞を受賞している]。
歌の内容に関しては、歌詞を参照してもらうのが最も早い [原詞はこちら]。
これで半分以上、答えるべき答は書いてしまった様な気がしないでもないが、問題はそれならば何故、「ポケット一杯 (Pocketful)」が「ズプーン一杯 (Spoonful)」へとダウンサイズしなければならないのか、と謂う問題だ。
「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく (When America Sneezes, Japan Catches A Cold)」と謂う成句を裏返した様で、あまり、気分のいいモノではない。
せめて、米国のモータリーゼション (Motorization) が戦後の日本にも到来したが日本国内の交通事情に合わせた小型自動車 (Small Car) が全盛を極めた、と謂う様な独自色が欲しいところだ。
その独自色とも謂うべきモノが楽曲『お砂糖ひとさじで (A Spoonful Of Sugar)』になるのであろうか。
ただ、個人的には [つーかここまで殆ど総てが個人的なモノだ]、もうひとつの解がない訳ではない。
それは『スプーンフル (Spoonful)』[ウィリー・ディクスン (Willie Dixon) 作 1960年発表 原詞はこちら] と謂う楽曲だ。ハウリン・ウルフ (Howlin' Wolf) によって1960年に発表された [アルバム『ハウリン・ウルフ (Howlin' Wolf)
』収録]。
但し、この楽曲には元ネタとも謂う楽曲があって、それはチャーリー・パットン (Charley Patton) が1929年に発表した『ア・スプーンフル・ブルース (A Spoonful Blues)』 [原詞はこちら] と謂うのがそれである [アルバム『ザ・コンプリート・レコーディングス (The Complete Recordings)
』収録]。
だから、もしかすると「ズプーン一杯 (Spoonfu)」と謂う形容句は、ここまで登場してきた幾つかの楽曲へと収斂される前から、なんらかの比喩的な警句としての存在があったのかもしれない。
ぼく自身が『スプーンフル (Spoonful)』と謂う楽曲を知ったのはクリーム (Cream) によるカヴァー・ヴァージョン『スプーンフル (Spoonful)』 [アルバム『クリームの素晴らしき世界 (Wheels Of Fire)
』収録 1968年発表] なので、独自の解釈がさらにつきまとう。
例えば、下に掲載する様なヴィジョンである。

ピーター・ポンティアック (Peter Pontiac) による『ルー・リード・ソングブック (Lou Reed Song Book)』へのイラスト、1975年の作品 [画像はこちらより]。
ルー・リード (Lou Reed) のライヴ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ (Live : Take No Prisoners)
』 [1978年発表] のインナー・ジャケットにも転載されている画像だから、知っているヒトは知っているだろう? [尚、誤解が生じない様に明記しておくとフロント・カヴァーのイラストはブレント・ベーラ (Brent Bailer) の作品]
次回は「せ」。
附記:
『スプーンフル (Spoonful)』[ウィリー・ディクスン (Willie Dixon) 作 1960年発表 原詞はこちら] を訳してみた。
一匙のダイヤがあればなぁ
一匙の黄金でもいい
かわいいおまえのほんのすこしのお情けでじゅうぶん
おれはそれで満足さ
そんなもののためにうそをつく
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
一匙のコーヒーがのめればなぁ
一匙の茶でもいい
かわいいおまえをほんのひとなめできさえすれば
おれにはそれでじゅうぶんさ
そんなもののためにうそをつく
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
スプーン一匙のあらそい
スプーン一匙のたたかい
ひとすくいの水があればなぁ
砂漠では九死に一生さ
おれが45口径からそいつに一発ぶっぱなせば
おまえだって九死に一生さ
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
ぼく自身はいずれも未読で未見の為、これ以上、両作品の内容に関しては言及できない。もし仮に、いずれかの作品の論評なり感想なり粗筋なりを期待して、ここにアクセスしてしまった方には、申し訳ない。
これから綴るのは、そうではない事なのだ。
単純に謂えば「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」とは、一体、どういう意味のだろうか、と謂う事だ。
もしかしたら、映画を観るなり、その原作を読むなりすれば、立ち所に解答が明かされていたりする可能性もないではない。それが、梅村乃里子 (Noriko Umemiya) [演:桜田淳子 (Junko Sakurada)] もしくは落合恵子 (Keiko Ochiai) 自らの言葉ではないにしても、だ。
だけれども往々にして、原典で綴られている事柄が、必ずしも、誰をも充分に満足させるモノだと謂う保証はない。
だから、ここでは原典に依拠する事なく、身勝手な推理や妄想を展開してみようと謂うだけの事である。
そう謂う訳で、ああ、この人は単行本を6冊読み切る気力も上映時間90分のアイドル映画を観る気力もないのだな、と見下して頂いても、結構至極な事なのである。
閑話休題。
「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉の意味を考える場合、大きな曲者がひとつ眼の前にある。
「一杯 (Full)」と謂う言葉だ。
この言葉、"ひと匙"とも"たくさん"とも理解可能だ。どちらを採用するかで、その語句が形容する「幸せ (Happiness)」の大きさが如実に変わる。そして勿論、大きさが変わればその質も変わるだろう。
だから、「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉には、両義が備わっている事を前提にして、その意味を考える必要があるのではないだろうか。
だけれども、たったひとつだけ、その両義性をひとつのモノに集約可能な解釈がないではない。それは、"ひと匙"は客観的な視野にたったモノではあるが、"たくさん"は主観に基づいた認識であると謂う事。裏を返せば、たったの"ひと匙"でしかないモノも、みるモノがみれば"たくさん"にみえる、と謂う解釈だ。
それを前提にして「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of Happiness)」と謂う言葉の意味を追跡すると、実は、それとよく似た表現がふたつ登場する。
映画『ポケット一杯の幸福
このふたつの表題を足して2で割れば「スプーン一杯の幸せ (Spoonful Of happiness)」ができなくもない。
映画『ポケット一杯の幸福
この映画の表題が意味するところを捜していけば、もしかしたら求めるべき解に遭遇する可能性もあるが、場合によってはその原典であるもうひとつの映画をも追及する必要もあるかもしれない。
楽曲『お砂糖ひとさじで (A Spoonful Of Sugar)』[ロバート・B・シャーマン (Robert B. Sherman)、リチャード・M・シャーマン (Richard M. Sherman) 作 1964年発表] は、ミュージカル映画『メリー・ポピンズ
歌の内容に関しては、歌詞を参照してもらうのが最も早い [原詞はこちら]。
これで半分以上、答えるべき答は書いてしまった様な気がしないでもないが、問題はそれならば何故、「ポケット一杯 (Pocketful)」が「ズプーン一杯 (Spoonful)」へとダウンサイズしなければならないのか、と謂う問題だ。
「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく (When America Sneezes, Japan Catches A Cold)」と謂う成句を裏返した様で、あまり、気分のいいモノではない。
せめて、米国のモータリーゼション (Motorization) が戦後の日本にも到来したが日本国内の交通事情に合わせた小型自動車 (Small Car) が全盛を極めた、と謂う様な独自色が欲しいところだ。
その独自色とも謂うべきモノが楽曲『お砂糖ひとさじで (A Spoonful Of Sugar)』になるのであろうか。
ただ、個人的には [つーかここまで殆ど総てが個人的なモノだ]、もうひとつの解がない訳ではない。
それは『スプーンフル (Spoonful)』[ウィリー・ディクスン (Willie Dixon) 作 1960年発表 原詞はこちら] と謂う楽曲だ。ハウリン・ウルフ (Howlin' Wolf) によって1960年に発表された [アルバム『ハウリン・ウルフ (Howlin' Wolf)
但し、この楽曲には元ネタとも謂う楽曲があって、それはチャーリー・パットン (Charley Patton) が1929年に発表した『ア・スプーンフル・ブルース (A Spoonful Blues)』 [原詞はこちら] と謂うのがそれである [アルバム『ザ・コンプリート・レコーディングス (The Complete Recordings)
だから、もしかすると「ズプーン一杯 (Spoonfu)」と謂う形容句は、ここまで登場してきた幾つかの楽曲へと収斂される前から、なんらかの比喩的な警句としての存在があったのかもしれない。
ぼく自身が『スプーンフル (Spoonful)』と謂う楽曲を知ったのはクリーム (Cream) によるカヴァー・ヴァージョン『スプーンフル (Spoonful)』 [アルバム『クリームの素晴らしき世界 (Wheels Of Fire)
例えば、下に掲載する様なヴィジョンである。

ピーター・ポンティアック (Peter Pontiac) による『ルー・リード・ソングブック (Lou Reed Song Book)』へのイラスト、1975年の作品 [画像はこちらより]。
ルー・リード (Lou Reed) のライヴ・アルバム『テイク・ノー・プリズナーズ (Live : Take No Prisoners)
次回は「せ」。
附記:
『スプーンフル (Spoonful)』[ウィリー・ディクスン (Willie Dixon) 作 1960年発表 原詞はこちら] を訳してみた。
一匙のダイヤがあればなぁ
一匙の黄金でもいい
かわいいおまえのほんのすこしのお情けでじゅうぶん
おれはそれで満足さ
そんなもののためにうそをつく
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
一匙のコーヒーがのめればなぁ
一匙の茶でもいい
かわいいおまえをほんのひとなめできさえすれば
おれにはそれでじゅうぶんさ
そんなもののためにうそをつく
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
スプーン一匙のあらそい
スプーン一匙のたたかい
ひとすくいの水があればなぁ
砂漠では九死に一生さ
おれが45口径からそいつに一発ぶっぱなせば
おまえだって九死に一生さ
そんなちっぽけなもののためになくやつもいる
そんなちっぽけなもののためにしぬやつもいる
たったの一匙で大喧嘩さ
スプーン、スプーン、スプーンの一匙でさ
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