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2016.02.16.12.57

さんでーもーにんぐ

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) の第1作『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ (The Velvet Underground And Nico)』 [1967年発表] の冒頭収録楽曲『日曜の朝 (Sunday Morning)』 [作:ルー・リード (Lou Reed) - ジョン・ケイル (John Cale)] を、ぼくはずっと、中原中也 (Chuya Nakahara) の『朝の歌 (Morning Song)』 [詩集『山羊の歌 (Yagi no Uta : Goat Songs)』所収 1934年刊] の抒情に通じる世界観だと想っていたのだけれども、果たしてこの認識は正しいのだろうか。
最近、それが揺らいでいるのだ。

と、謂うのは、つい最近、次の様な体験をしたからである。

時折、ふと、頭の中に馴染みのあるメロディーが浮かぶ。浮かぶのだが、それが誰の楽曲であるのか、どんな題名の作品であるのか想いつかない。
だけれども、想いつかないまま、そのメロディーに繋がる筈のコーラス部に辿り着けば、何らかの解決策への道筋が出来上がる。コーラス部で連呼されるフレーズの中に、題名に関連する語句が含まれている場合が多いからだ。
その一方で、題名ばかりが先に脳裏に浮かびはするモノの、肝心の楽想が一切想い浮かばないと謂う事も多々だ。だがしかし、この場合の解決策は遥かに簡単で、ネットで検索すれば立ち所に解決する。

さらに謂えば、もっと酷い事例もあって、完全にある楽曲と別の楽曲を取り違えてしまう場合もある事だ。そんな事が起きてしまえば、自己嫌悪と同時にアルツハイマー病 (Alzheimer's Disease) と謂う病状の疑義も浮かんでしまうが、いや、これはよくある話だ、そんなに心配する程の事ではない、と大慌てで取り消してしまう。

いい例が、ヴイ・エス・オー・ピー (V. S.O. P. : Very Special One-time Performance) の1979年の田園コロシアム (Denen Coliseum) での公演のエピソードで、ウェイン・ショーター (Wayne Shorter) がハービー・ハンコック (Herbie Hancock) にアンコール楽曲を事前に『オン・グリーン・ドルフィン・ストリート (On Green Dolphin Street)』と申し渡しておいた筈が、ウェイン・ショーター (Wayne Shorter) が実際に奏でたメロディーは『星影のステラ (Stella By Starlight)』だった、と謂うモノで、その模様はヴイ・エス・オー・ピー (V. S.O. P. : Very Special One-time Performance) のライヴ・アルバム『V.S.O.P. ザ・クインテット ライヴ・アンダー・ザ・スカイ伝説 (Live Under The Sky)』 [1979年発表] に『ステラ・バイ・スターライト〜オン・グリーン・ドルフィン・ストリート (Stella by Starlight〜On Green Dolphin Street)』として収録されている。

と、ここまで綴って来て一体、なんの話だっけ。
そうそう。あれだ。

ある夜の事だ。
不意に頭の中に、あるメロディが鳴り響いて、ああ、そうそう、この曲は『SF怪奇映画二本立て [リプライズ] / Science Fiction - Double Feature [Reprise]』 {映画『ロッキー・ホラー・ショー (The Rocky Horror Picture Show)』 [ジム・シャーマン (Jim Sharman) 監督作品 1975年制作] のクロージング・テーマ曲] の冒頭だ、と思い出して、その冒頭のフレーズを歌い出したつもりが、口をついて出てきたのがヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) の『日曜の朝 (Sunday Morning)』だった、と謂う事なのだ。

それぞれの楽曲の冒頭は、前者がシロフォン (Xylophone) で、後者がチェレスタ (Celesta)。楽器こそ違えど、その音質は極めて似ている。しかも、そこで響くメロディもよく似た抒情を備えている様にも思える。

SF怪奇映画二本立て [リプライズ] / Science Fiction - Double Feature [Reprise]』 の冒頭が、そんなアレンジを施されているのは、この映画の原作であるミュージカル『ロッキー・ホラー・ショー (The Rocky Horror Show)』[作:リチャード・オブライエン (Richard O'Brien) 1973年初演] が、改築間際の場末の映画館で上映されるB級SF映画であると謂う設定に則ったモノであるからだ。
だから、誰の耳にも、シロフォン (Xylophone) で奏でられるあのフレーズは、映画終演のお知らせであり、客出しを促すアナウンスを呼び込むモノであると、響く。
物語本編で語られる狂騒の一夜の終演、宴の終わりを告げる楽曲としての機能とその務めを、『SF怪奇映画二本立て [リプライズ] / Science Fiction - Double Feature [Reprise]』は担わされ、そしてそれを充分に果たしているのだ。

それと同じ様な装置として、『日曜の朝 (Sunday Morning)』のチェレスタ (Celesta) の演奏とその響きは機能していないのだろうか。
先ず、そんな事が頭に浮かぶ。
だが『日曜の朝 (Sunday Morning)』はアルバムの終幕を告げる作品ではない。その逆だ。アルバム冒頭にこの曲は置かれているのだ。
と、すると、『SF怪奇映画二本立て [リプライズ] / Science Fiction - Double Feature [Reprise]』のシロフォン (Xylophone) と『日曜の朝 (Sunday Morning)』のチェレスタ (Celesta) は単なる他人の空似 (An Accidental Resemblance) と謂うやつなのだろうか。
諾と謂ってそのまま引き下がるのは簡単だがこの場合、任されている任は全く同じであると考えた方が実は面白い。
と、謂うのは、何かが終わってしまった後の物語を、『日曜の朝 (Sunday Morning)』が語っていると解釈する事が可能だからだ。

ぼくが、拙稿冒頭で「中原中也 (Chuya Nakahara) の『朝の歌 (Morning Song)』 [詩集『山羊の歌 (Yagi no Uta : Goat Songs)』所収 1934年刊] の抒情に通じる世界観」と綴ったのは、そんな理解の許にあるからでもある。

しかもこの楽曲、アルバム収録楽曲の制作が殆ど終えた後になって、その曲のプロデューサーであるトム・ウィルソン (Tom Wilson) の求めに応じて作曲された楽曲でもあるからなのだ。

ある楽曲が実は、そこで語られる幾つもの物語の後に産まれる。しかもその楽曲は、物語を総括する為に終幕に置かれるのではなくて、物語の冒頭に据えられているのだ。
その結果、以降に続く楽曲は、冒頭曲が語る物語の枠の中に据えられる事になる。
歌詞の中に不意に顕れる「世界 (The World)」とは、この曲以降に聴く事になる楽曲群の中で語られている物語でもあるのだ。

但し、この認識に横着してしまうと、「中原中也 (Chuya Nakahara) の『朝の歌 (Morning Song)』 [詩集『山羊の歌 (Yagi no Uta : Goat Songs)』所収 1934年刊] の抒情に通じる世界観」をそっくりそのまま『日曜の朝 (Sunday Morning)』が引き受ける事が不可能になってしまうのだ。
少なくとも、その世界観にどっぷりと浸かった主観を維持する事は出来ない。そんな世界観に陥ってしまった歌の主人公を客観視し、批判的に眺めている主体と謂うモノの存在が要求されるのだ。

歌詞をよくみていこう。

冒頭は、歌の主人公の視点、彼の眼が捉える「日曜の朝 (Sunday Morning)」の叙景だ。
怠惰とも謂えるし、退嬰とも謂える。程度の差こそあれ、恐らく、誰もが体験した事のある「日曜の朝 (Sunday Morning)」の叙景だ。

だが、後半、彼ではないナニモノかがこう囁くのだ。「よくみてみろ (Watch Out)」と。
そこから先は、様々な解釈を可能なモノにしている様だが、少なくとも、ナニモノかは歌の主人公が安閑と「日曜の朝 (Sunday Morning)」の怠惰に耽るのを良しとしていない事は確実だ。単純な対比で謂えば、「中原中也 (Chuya Nakahara) の『朝の歌 (Morning Song)』 [詩集『山羊の歌 (Yagi no Uta : Goat Songs)』所収 1934年刊] の抒情に通じる世界観」がここで真っ向から否定される事になる。

何故、そこでその世界観が否定されるのかと謂うと、その理由は、歌の主人公がかつて体験した「世界 (The World)」にあるのだ。そして、その詳細がこの楽曲以降の楽曲群として、延々と再演される。
そんな「世界 (The World)」を知るモノが、そんな世界観に耽っていていいのだろうか、と謂う問いかけが、この曲の主眼ではないだろうか。

但し、ここから先の解釈が多様なのだ。

直訳すると「きみの名を呼ぶだれかがいつもいるだろう (There's Always Someone Around You Who Will Call)」と「そんな事全然関係ない (It's Nothing At All)」と謂うふたつのフレーズの解釈が、幾つもの見解を呼んでいる様なのだ。

例えば、このふたつのフレーズを順当に解読して、事物を非常にポジティヴに解釈する事だって出来るのだ。
いつもどこかでだれかがきみを必要とする事もあるだろう、だから、今がそんな状況であろうとも、それに拘っている場合じゃあないんだよ、と。

ちなみにぼくは、前者と後者が倒置 (Anastrophe) されていると単純に解している。
文法的にみていけば、このふたつのフレーズは単純なThat構文を構成していて、「そんな事全然関係ない (It's Nothing At All)」のThat節を「きみの名を呼ぶだれかがいつもいるだろう (There's Always Someone Around You Who Will Call)」が担っていると解釈出来るのだ。
そうすると、そこには通常ならば、部分否定 (Partial Negation) の構文となる"Not〜Always"構文を見出す事が出来るが、ここでは「At All」がある為に、全文否定 (Total Negation) の構文と解釈する事が可能だ。
つまり、"That節(と謂う様な自体)は絶対にない"と解釈出来る。
[尚、部分否定 (Partial Negation) の構文となる"Not~Always"構文に関しては、ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) の楽曲『無情の世界 (You Can't Always Get What You Want)』 [アルバム『レット・イット・ブリード (Let It Bleed)』収録 1969年発表] を参照すればいい。こちらでも紹介してある。]

文法的な視点でそうにでも解決しなければ、この歌詞にある「世界 (The World)」を後に続く楽曲群が描く世界と捉える事が困難に思えるからだ。

images
作者のひとりであるルー・リード (Lou Reed) によるこの楽曲への最初? の公式見解はヴェルヴェット・アンダーグラウンド (The Velvet Underground) のライヴ・アルバム『ライヴ・アット・マクシズ・カンサス・シティ (Live At Max's Kansas City)』 [1972年発表] で聴く事が出来る。『サンデイ・モーニング (Sunday Morning)』演奏直前のMCに耳を傾けるが良い。

次回は「」。

附記:
せっかくなので試訳を以下に掲載しておく(原詞はここに拠った)。

『日曜の朝』

日曜のあさ、たたえるべきよあけ
とはいうものの、おれときたらちっともおちつかない
しらじらとあけていく、日曜のあさ
無駄にしちまった年月がいまおわろうとしている
よくみるがいい、てめえのなれしった場所を
きっとだれかがてめえをもとめている
そんなむしのいいはなしなんかあるわけない
日曜のあさ、しかもしくじってしまったその朝だ
もうなにがどうなってもかまうことはない
しらじらとあけていく、日曜のあさ
どれもこれもてめえがわたってきたあぶない橋さ、しかもつい最近のな
よくみるがいい、かつてのてめえがいた場所を
きっとだれかがてめえをもとめている
そんなむしのいいはなしなんかあるわけない
よくみるがいい、もときたそのみちを
てめえにすがるようなそんなやからなんぞ、
いるわけなんかないってことを
いまが日曜のあささ
そんな日曜のあささ
いま 日曜 そのあさ
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